第32話 神話の道(2008年7月)

阿蘇は神話の里である。
建磐龍命(たけいわたつのみこと)という神武天皇の孫が阿蘇そのものを造ったらしい。
日本という国の始まりは色々な人が色々な事を言っててよく分からない。分からないが、年号を始まりとするなら神武天皇から始まっている。その元年は今を遡る事2700年。興味の湧く時代ではないが、軽く目を通すだけでも近世とそう変わりない人間の営みが見えてくる。人間の営み、つまりは侵略と保守の螺旋であるが、古いだけに物言いがボンヤリしていて回りくどい。しかし後世により多くの肉付けが成されたのだろう。そこには知恵と遊びが感じられ、何となく人懐っこい。神話とは、そういうものではなかろうか。
九州には熊襲や隼人という先住民族がいたらしい。いたらしいが、北海道のアイヌやアメリカのインディアン同様、よそ者に滅ぼされた。日本書紀によると討った人物は日本武尊(やまとたけるのみこと)になっており、景行天皇がその親玉である。
更に時代を遡り、意味不明な世界へ突入する。天孫降臨という言葉がある。天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫が日本を治めるため宮崎・高千穂に降り立った事をいう。どこから降ってきたのか調べてみると高天原(たかまのはら)という天上界の聖地らしい。そこは神々の故郷らしく、そこから八百万の神様が各地に散ったのだという。有名な伊勢神宮は天照大神を祀っていて、天照大神は高天原の主神、そして天皇家の祖神、もちろんその孫で天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)も祖神である。
さあ、どうだ。読んでる方は何が何だか分からなくなってきただろう。書いてる私も意味不明だから読んでる方が分かるはずない。まず神様の名前は読み辛い。それだけで追う気が削がれる。更に「歴史を追う」という作業は時間や空間を合わせる作業であるが、神様の世界に時間や空間は存在しないらしい。常人の頭で追えるはずがない。
天照大神は天孫降臨というカタチで下界にその孫を遣わしているが、その脇では天岩戸に隠れ、激しい兄弟喧嘩をしている。天岩戸は天孫降臨先と同じ下界の高千穂にある。時間がないからどっちが先かよく分からない割に、弟や孫は生まれた順番であって、そこは時間が関係する。天岩戸で喧嘩したのが先であれば、わざわざ儀式的に天孫を降臨させなくても良いと思うのだが・・・、うーん、よく分からない。更に空間がないくせに高天原という天上界にいたり、下界の高千穂にいたり・・・、うーん、これも苦しい。
数日前スピリチュアルカウンセラーと飲む機会を得た。その方は人格者であり、地球の事を憂いておられる事は分かったが、言っておられる事の大半は意味不明であった。この方が言うに時間や空間を超越したところに霊界があり、人間は魂の産物であるという。従って病は気からであり、気の循環に滞りさえなければ、癌を始めとする現代病にはならないそうで、霊的な力を使えばそういったものは一発で治るそうな。
「それじゃ国立癌センターはいらんじゃなかですか!」
思わずそう言ったところ、スピリチュアルカウンセラーが全国的に本気を出せば「確かにいらん」という事であった。だが、癌とは人間の魂が間違った方向に進んでいる時に発生するもので、それを端的に消していては世の中がよくならず、すぐに再発するらしい。カウンセラーとは患者に「気付き」を与え、その思想もろとも正しい方向へ導いてやるのが仕事であって、「医者とは違う」というのがその理屈であった。
私には中途半端な理系の血が流れている。そういった世界を否定もせぬが肯定もしない。どちらかというと全てを受け入れた後、自らの理屈によって必要なものを勝手に分類する。
私は主観的行動を繰り返し人生を終えたいと思っている。主観をもって行動し、得た結論をもって反省し、主観に修正を加え、また次の行動を新しい主観によって行う。つまり道を切り開くのは自分であり、神様・仏様、運、風水、陰陽道、知人・友人・お偉いさんではないという事だ。
例えば「神様のお告げや教典に従え」そう言われた。それに従ったのでは主観がなくなってしまう。知らぬよりは知ったほうが勉強になるので、参考として話は聞くが鵜呑みは拙い。それは主観の放棄であり、思想に発展しない。
また、宗教によって「他を見るな」「気にするな」「これが最高」と言われるところもあるが、それでは主観が変化せず、凝り固まってしまう。これが最も拙い。万物は揺れ動いている。静止しているものなど一つもない。
また祈りに関し感謝はいい。感謝はいいが他力本願はつまらんと思っている。賽銭投げて「頑張ります」「ありがとう」とは言っても、「お願いします」とは言わないのが私の主義である。
人間一人では生きてゆけず、何かに生かされているのは認める。私は類稀に見る寂しがりやなので、それは大いに認めるが、健康なうち、やれるうちは自らが選んだ道を自らの方法で突き進む。それが生を活かす道、即ち生きる醍醐味ではなかろうか。
さて・・・。
ここ数日、暑くてどうしようもなく、七月六日は特に暑かった。全く仕事にならなかったので、神社巡りでもしようと家を出た。バイクに跨り、高森の草部吉見神社を目指した。
この神社は阿蘇神社よりも六年古いといわれている。祭神は日子八井命(ひこやいのみこと)で、神武天皇の息子である。この神様は高千穂に降り立った後、高森・草部を気に入り、居を構えたという。
歴史が古いから神話も多い。ある日、大蛇が襲い掛かってきたので、神様はそれを切って焼いたという。大蛇の血が流れたところを血引原といい、焼かれたところを灰原といい、今もその地名が残っている。
神話が地名になったところは数え切れぬほどある。例えば阿蘇立野。建磐龍命が阿蘇へ入ってきた時、阿蘇谷と南郷谷には水が溜まっていたらしい。これを抜くため現在57号線が走る立野付近を蹴破ったそうだが、その時に力を使い過ぎ、倒れてしまったそうな。そして、プルプル震えながら、
「もう駄目・・・、立てぬ・・・」
そう言ったという。「立てぬ」が訛って「立野」になったらしいが、何とも寒い、寒風吹き荒れるくだらなさである。
南郷谷・久木野という地名も同じく神話からきた駄洒落である。ウチの裏山に夜峰という薄っぺらい山がある。この山は建磐龍命の妻・阿蘇都比当ス(あそつひめのみこと)が出産をする際、南郷谷から丸見えだったため、一晩で建磐龍命が作ったそうな。急作りで薄っぺらいため、パタンと倒れる可能性があり、釘を打って支えたらしい。その場所が釘野であり、久木野になった。
日本にはこういう神話が山ほどあり、古い日本人も駄洒落が好きだったようで、侵略の歴史もこういう風に伝われば何となく微笑ましい。
そうそう、草部吉見神社であるが、阿蘇をつくった建磐龍命が来ると請われて娘を差し出した。神話というのは得てして登場人物が少なく近親婚の連続であるが、ここでも神武天皇の孫同士が結ばれている。
草部吉見神社の社格は郷社である。低くはないが、その知名度、歴史、格、どれをとっても阿蘇神社には遠く及ばず、参拝客は多くない。ただ、この宮は日本三大下り宮といわれており、その違和感は何となく楽しめる。
日本人は三大云々が好きである。阿蘇神社も三大楼門とされており、他は福岡の箱崎宮、茨城県の鹿島神社だそうな。下り宮に関しては、宮崎の鵜戸神宮、群馬の貫前神社がそれにあたるらしい。
普通は鳥居をくぐった後、真っ直ぐ進む、もしくは石段を登った後に拝殿、本殿へと辿り着く。が、下り宮にあっては鳥居をくぐった後、石段を下らねばならない。足の先に拝殿が見えるのは何とも奇妙な絵であり、その点、大いに楽しめた。
ところで草部吉見神社へ辿り着くのに約二時間を要している。高森峠の旧道を調べていたためで、この道も新道が通った事により荒れ果て、途中通行止めになっていた。ただ、バイクが行ける隙間はあったため、構う事なく直進するとハイキングをされている年配の方がシート広げて昼食中であった。そこは南郷谷が一望できる素晴らしい場所であった。
「はぁ、こらぁよか場所ですねぇ」
私もバイクを停め、一緒に景色を楽しんだのであるが、
「オニギリば食べていきなはりまっせ」
ご年配、実にありがたい事を言われる。ありがたく頂き、話をしていると、
「草部吉見神社に行きなはるなら幣立神宮にも行かにゃんたい。あの二つはセットだけん」
草部吉見神社と陰陽の関係を成す立派な神社が蘇陽町(現在は山都町)にあるらしい。陰陽とはどういう関係なのか、その意味を問うてみたが、
「分からんたい。とにかく昔からアソコとアソコはセットだけん行かにゃんたい」
ウダウダ言わず黙って行けという事であった。
草部吉見神社から幣立神宮までは直線距離で見るとそう遠くない。遠くはないが、間を深い谷(蘇陽峡など)が割っており、普通に行けばグルッと回って行かねばならない。むろん私は探検派であるため、直線で行く道を模索し、山道に入った。地図はあるが、山深く入っていけば役に立たない。勘だけを頼りに獣道を疾駆した。で、走り走った末、出たところは熊本と宮崎の県境であった。県境といえば、すぐそばに高千穂がある。
「せっかくだけん行ってみよう」
そういう流れで目的変更、天岩戸神社を目指した。国道に出、看板に沿って真っ直ぐ進んだが日曜だし車が多い。立ち止まって地図を見ると「岩戸越え」というショートカットがある。ただ道が点線で描かれていて、林道、もしくは登山道のようである。阿蘇のそういった道はほとんどが牧野によって遮断されており、一本道を引き返すハメになる。それは嫌なので近くの人に聞いてみると、
「車もバイクも行ける」
地元の古老がそう言った。それで岩戸越えの方向へ進んだ。が・・・、あの古老はこの道を通った事があるのだろうか。むろん舗装はされていない。砂利が敷いてあるわけでもない。草が刈られた様子はあるが、岩が至るところに転がっており、凹凸も凄まじい。オフロードバイクなら何とかなるかもしれないが、カブ50にはどうも厳しい。傾斜も激しく、登りは押せばいいのだが、下りが小石で滑るため、何度も岩壁へ突っ込んだ。また、トゲのある植物が道に飛び出しており、痛いの何の、傷だらけになってしまった。
山において、古老にだけは道を聞かないほうがいい。古老の中には数十年前の道、その絵が色あせる事なく残っており、今の姿は微塵もない。道は新しいものが出来ると一気に寂れ、その面影を失ってしまう。古老の中にあるものは若かりし頃に歩んだ人通りの多いそれだったに違いない。
「最近は通っとらんが、昔は岩戸へ行くにはその道しかなかった。大八車がすれ違えよったから、道は広かった。立派な・・・、そう、立派な道じゃ」
古老が生まれるずっとずっと前から文化を繋いでいた一本道、その成れの果ては岩の中に埋もれつつある。
峠を越えたら天岩戸神社である。高千穂峡には何度か来たが、天岩戸神社は街外れの山中にあるため、立ち寄った事がなかった。冒頭でも書いた神話の舞台である。天照大神が暴れん坊の弟に困り果て、ついには拗ねて岩戸の中へこもってしまう。天照大神がいないと世の中は闇に閉ざされてしまうらしく、八百万の神は一策を講じる。それは岩戸の前で宴会をするという神様らしくない庶民的な方法で、八百万の神たちは飲めや歌えと岩戸前で大いに盛り上がったらしい。で、笑い声が気になる天照大神はチョットだけ岩戸を開いた。その瞬間を逃すまいと手力男命(タヂカラオノミコト)という神様がその豪腕でもって岩戸を投げ飛ばし(長野県戸隠まで飛んだとされる)、世に光が戻ったという神話である。
この話、知らぬ人がいないほど有名な話であるが、私はこの話を子供の頃に聞き、初めて神様というものに親近感を覚えた。光や太陽を司る天照大神が私たちと同じように兄弟喧嘩をし、更には拗ねて岩戸へこもるのである。
当時、神様といえば、叱る方便になっており、
「馬鹿っ! 山の神様が怒るばいっ!」
「汚すなアホっ! 便所の神様が怒るけんねっ!」
怒られた後に出てくるのが神様で、それは実態を持たぬ何とも恐ろしい虚像であり、罰を与えるために降ってくる大変怖い存在であった。それがこの神話により、人間のカタチを成した。
「神話の舞台、天岩戸がそこに!」
冬のソナタの舞台を見るため、お歳を召したオバサマたちが韓国へ行く。それと同じように無邪気な感動を持って境内に踏み込んだ。が、結論は神話の舞台として認識する事ができなかった。岩戸のある場所は神職さえも立ち入れない神域であって、遠くから眺めるより他はなく、よく見えず、私の想像に与える影響は何もなかった。
天岩戸神社は西本宮、東本宮、天安河原と分かれている。西本宮は天岩戸を祀っており、東本宮は天照大神を祀っている。社殿は両方とも大きくて立派だが味はない。
社格は村社である。これは草部吉見神社よりも低い。低いが、戦後、社格制度が廃止された後、神官の進退に不都合が生じるという事から、「これは特別な神社だよ」という別表神社なる新格付けができたそうな。これには天岩戸神社が入っていて特別扱いされている。戦後のバタバタしていた時、この神社の神主さんがたまたま政治的手腕に優れていたのだろう。
天安河原は上の神話の中で八百万の神が集まった場所である。ここで例の密談が成されている。
川沿いの清涼なる雰囲気の中に仰慕窟(ぎょうぼがいわや)という洞窟があり、周囲にはおびただしい数の石積みがされている。賽の河原のようであるが、ここの石積みは願い事が叶うといわれる石積みらしく、私が見かけたカップルなどは、
「いつまでも二人仲良くいれるといいね」
そんな事を言いながら交互に石を積んでいた。むろん二人の目を盗み、そこに私の石を積み重ねておいた。これにて二人はろくでもない人生を歩むはずである。
さて・・・、天岩戸神社を出る頃、時計は五時を回っていた。ちょっとそこまで出るつもりが予定外の長丁場になってしまった。が、ここままで来たら目的の幣立神宮も寄らねばならない。
足のカブ50はマックス40キロしか出らず、坂道は20キロを下回る事もあるが、時代に合って燃費はいい。ガソリン3リットルしか入らないが、250キロは走るだろう。ゆるりゆるりと蘇陽を目指し、着いた頃には六時であった。
ハイキングの年配者に「幣立神宮へ行け」と言われた時、
(幣立神宮・・・、どっかで聞いた名前やなぁ・・・?)
その事を考えたが思い出せなかった。が、バイクに揺られながら、ふと思い出した。スピリチュアルカウンセラーが絶賛していた場所であった。カウンセラーが東南アジアへ旅した時、同じような力を持つ人から、
「ニッポンにはヘイタテがある、あそこはスゴイ」
そう言われたらしく、帰国後すぐに行ったらしい。すると凄まじいパワーに溢れていたそうで、
「行けば分かる、あそこは凄い」
そう言っていた。
(果たしてどうか?)
大いなる興味を持ったが、実際はよく分からなかった。ただ、ビックリはした。拝殿で頭を下げていると、いきなり横から神主が現れ、鈴を鳴らされた。これには「ぬぉっ!」って仰け反ってしまった。
後手にはなるが、帰宅後この神社についてネットで調べた。どうやら時代の波に乗っかってスピリチュアルスポットになってるらしく、様々なページで取り上げられていた。その理由は前にも書いた天上界・高天原、ここはその発祥の地であり、八百万の神の故郷である事。更に祀ってあるのは天照大神より古い神で、宇宙から降り立たれた神漏岐命(かむろぎのみこと)、神漏美命(かむろみのみこと)、つまり凄く凄く古い神がいるところで、ニッポンの霊的パワーの源らしい。また、本殿の下には東御手洗(ひがしみたらい)という池があり、中国の始皇帝がこの池の水を不老不死の霊薬として求めた逸話もあるそうで、スピリチュアルスポットとして、これ以上の場所がないそうな。
更にある。ホームページ曰く、中央構造線という約八千万年前にできた日本を九州から関東まで縦断する大断層があるらしい。これが幣立神宮と伊勢神宮の下を走っているらしく、この断層上にパワースポットが多いそうな。
「ふぅん」
私を始め多くの人がそれだけで終わってしまうだろうが、聞く人が聞けば「たまらんっ!」という具合になるらしく、現に人が多かった。変な体操をしている人もいた。住んでそうな人もいた。新興宗教の足跡もたくさんあった。
そうそう、新興宗教といえば白光真宏会をご存知だろうか。ほとんどの人は知らないと思うが、日本人なら無意識のうちに知らされている宗教で、お祈りの言葉は、
「世界人類が平和でありますように」
これである。そう、至るところに立っている白い木、アレに書かれている言葉で、全国のありとあらゆる場所に立っていて隙がない。
「こんなところにもっ! あんなところにもっ!」
今回の神社ツアーにおいても様々な場所で目にし、むろん幣立神宮にも立っていた。神道系の新興宗教かと思い、調べてみたらマンダラとか印を結ぶとか書いてある。密教寄りの仏教かと推測するも守護霊様が云々とも書いてある。よく分からぬが、さすが新興宗教、旧に全く囚われないところが素敵である。
白光真宏会の白い木は最も見晴らしの良い場所に立っていた。もう一つ隣に石碑が立っていたが、何の宗教か分からなかった。これから有名になるにつれ、様々な足跡が立ってゆくだろう。
深呼吸し、神社から視線を外すと根子岳と高岳が外輪山越しに見えた。阿蘇を作った建磐龍命は日向から九州のヘソ・蘇陽へ移り、次いで先住民の熊襲を滅ぼしつつ、私と同じような景色を眺めただろう。一歩一歩それに近寄り、最後は阿蘇山の麓に居を構え、どういった事を想ったか。
神話というものは十中八九捻じ曲がって伝わっている。本当はもっと泥臭く、政治的な意図も加味されたろうが、それを伝える人間が素朴で明るく、良い意味でフィルターがかかり後世に伝わった。それが神話であり、時間の力であると想像する。
カブ50は時速20キロで坂を登る。外輪山を登り、外輪山を下り、南郷谷に入る。恐ろしいほどに赤い夕日が梅雨明けの湿った大地を照らし始めた。
神も仏もここにいる。ここにいるではないか。
建磐龍命も私と同じ道を辿り、外輪山を下り、同じような夕日を見たのかもしれない。そして領土拡張の馬鹿馬鹿しさに気付き、そこに居を構えたのではないか。
争う事は何もない。神様はそこにいる。一人一人それぞれの神様と共に、人にちょっかい出さず、勝手に気ままにやれないものか。文化に文明、思想に宗教、そして神話。ああ、人の世は住み辛いがいとおしい。
日は昇り、日は沈む。オギャーと生まれ死んでいく。この明け暮れに定義付けはいらない。
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旧高森峠から見た南郷谷。




三大下り宮・草部吉見神社。




天岩戸神社・西本宮。この奥に岩戸を眺める場所がある。




天安河原の石積み。四方八方に石積みがある。




天安河原周辺の景色。渓谷美が楽しめる。




天岩戸神社・東本宮。天照大神が祀ってある。




幣立神宮。旧社格は郷社。




「高天原、大和民族の故郷」って書いてある。紋は阿蘇家と一緒、違い鷹。




幣立神宮より阿蘇方面を見る。左にちょんと見えるのが根子岳。




この日、南郷谷に落ちた夕日。娘とじっくり眺めました。