第33話 総本山と八幡様(2008年7月)

総本山という格付けがある。
私たち庶民にとってはどうでもいい話だが、宗教家にとっては天と地の差を生む大問題の格付けである。
宗教というものは総じて本山から派生し各地へ散らばっており、枝葉においては本山の威光をもって活動を行い、金額の多寡は知らぬが上納金を納めねばならない。その点、ヤクザも企業もコンビニも仕組として何ら変わるところがない。本山になれば上納金が入り、その名声から客も増え、自然その権力も増す。宗教法人ともなれば更に非課税。天下無敵であり、箔による恩恵は計り知れない。
「総本山になりたい!」
それは宗教家ならずとも渇望する事で、人間の営み、つまりは歴史に見て取れる。
手近なところでいけば、馴染み深いホカ弁(ほっかほっか弁当)がある。つい最近ホットモットと名を変えた。プレナスが云々と売り手の理屈を言われているが、そんな事はどうでもいい。私たちにとって身近なホカ弁が変わってしまうのは事件であり、私などは内容を確かめるため、すぐさま近所の店に走った。が・・・、モノとしては何も変わっておらず、ホカ弁はホカ弁で、それを確かめたならばこれからもホカ弁であった。
ユーザーの感情としては内容が変わらないのであれば、あれだけの宣伝費など使わず、株主にだけ説明し、看板も変えなくていいと思うのだが・・・。まぁ、経営上層部にとっては壮絶熾烈な政争であり、陣地争いである。派手に大々的にやる必要があったのだろう。
本山を巡る争いも同じ事で、宗教を取り巻く土着(氏子や檀家)の感情は至って冷静だったと思われる。が、組織を運営する側からすれば、本山というのは何が何でも勝ち取らねばならない箔であり、それがなくては食えないのが宗教家の実情だろう。バファリンの半分が優しさで出来てるなら宗教の半分は政治で出来ている。いや、組織運営というものの半分は政治の上に乗っかっている。
ここに八幡様という恐ろしく幸運な神がいる。
元々は日本中どこにでもいる「村の氏神」であった。外来神だったと伝えられている。村に朝鮮人の部落があったのだろう、新羅から来た神様が祀られていたらしい。
西暦七百年頃、この神社の宮司、もしくはその取り巻きが政治的才能に長けていた。彼らは朝廷が九州隼人を征伐するため出張ってきたのを「千載一遇のチャンス」と捉えた。
「この神様は戦いの神様だけん、ちょっと寄っていきなはりまっせ」
熊本弁ではなかったろうが、政治的コソコソ話をまこと密かに流布したろうと思われる。で、朝廷はそれを信じ、戦いの神に祈り、そして隼人をやっつけた。
「これは縁起の良い神じゃ!」
朝廷は戦いの神に気を良くし、続けて藤原広嗣が乱を起こした時にも祈った。又もや勝った。
「あそこの神は良い神じゃ! 守ってくれるぞ、祈れ、祈れ!」
朝廷が叫ぶ事で小さな氏神は一気に全国区となり、国の守り神になった。
神の名は八幡様である。八は広い範囲や多くの数を指し、幡は秦、朝鮮から流れてきた豪族・秦氏を指しており、八幡様の意は「そこらにいっぱいいる秦さん、その神様」だったと思われる。つまりは外来神、つまりは集落の氏神様であるが、一気に国政へ躍り出た。それは地元の村会議員が何かの拍子に担がれ、一気に国政へ出、とんとん拍子で大臣になったようなもので、土着の氏子が知らぬ間に伊勢神宮と並び称されるポジションへ上り詰めた。
この時代の八幡様、本当に政治が好きだったと思われる。中央では遣唐使などの影響で仏教が大いに盛り上がっており、時の天皇も新しいモノをガンガン受け入れる行動派の聖武天皇。次から次に何かやり、その集大成として東大寺に巨大な大仏を作っていた。これを八幡様が応援し、あろう事か身をもって仏域へ踏み込み、自らも仏様を受け入れた。
この当時、古くからいる神様と新興の仏様は交わる事がなく、交わったとしても喧嘩するだけの遠い存在だったと思われる。が・・・、大物の政治家・八幡様は細かい事に全くこだわらなかった。
「神様、仏様? そぎゃんた、どぎゃんでんよか! 一緒にやりまっしょい!」
神職にあるまじき適当さで、神様と仏様を合体させ、八幡大菩薩という結合体を考え出した。そもそも八幡様という戦いの神は応神天皇の化身とされ、応神天皇は初めて大陸の文化を輸入した天皇である。つまり八幡様は「何でも受け入れる心の広い神様」という触れ込みで当時の権力者・聖武天皇に接触し、そして大いに気に入られた。
宇佐神宮のホームページを見ると「神仏習合発祥の地」と書いてある。確かに上の歴史を眺めるだけでも、そう名乗っていい権利があるように思われ、江戸後期までは境内に立派な寺院を構えていたというから驚きである。
政治的に中央の保護を受けた八幡様は、その後、恐ろしい勢いで伸びた。権力が平安京にある時、岩清水八幡宮ができた。また、それが鎌倉にある時、鶴岡八幡宮ができた。
武士が神頼みをする時の合言葉は「南無八幡」、つまり「八幡様、あんたを信じるから俺を守ってよ」という事である。何でも受け入れる戦いの神は歴史の要請を際限なく受け入れ、その勢力を伸ばし続けた。
7月22日から24日、私は仕事の都合で北九州におり、中日がポッカリ空いてしまった。無為に過ごすのは馬鹿馬鹿しいので、ちょっと離れてはいるが宇佐神宮へ出かけた。神仏習合の名残を探したいというのがその目的だったが、蓮の花が咲き乱れる立派な池があるくらいで、他は特に見当たらなかった。鳥居も社殿も八幡様独特の造りで、それが辛うじて個性を発揮していたが、他は入場料を取る宝物館あり、お札の売り場あり、寄付のお願い看板あり、他所の大きな神社と変わらないカネの臭いを伴う神域であった。
境内は広い。小高い丘の全てが境内で、その丘を寄藻川が囲っている。境内というよりも山城といった感じが強く、この近辺では城としての役割も果たしたのだろう。
政治的手腕により大きな富を得た宇佐神宮であるが、政治は繁栄と没落を繰り返すのが常である。戦国時代の宇佐神宮は大内氏に寄ったり、大友氏に寄ったり、人畜無害を装ったが、やはりキリシタン大名の大友宗麟から見れば気に食わぬ存在だったに違いない。激しい焼き討ちにあった。
今の社殿が建てられたのは江戸時代に入ってからである。国宝の本殿、その下に下宮という宮があり、
「下宮参らにゃ片参り」
地元の古老にそう教わったので、下宮に参った後、本宮へ足を運んだ。石段を少々登らねばならないが、登って開けた場所に出ると、耳が痛くなるほど蝉が騒ぎ始めた。その点、神々しい雰囲気が多少あった。
古老は私に参拝の仕方も教えてくれた。八幡様では二拝四拍手一拝が普通だという。理由を聞いたが分からないらしく、境内の説明書きにも「分からない」と書いてあった。
古老は近所に住んでいるらしく、週に二日はここへ来るのだという。
「八幡宮の総本山が氏神様なんて凄いですね!」
近隣の方にはその自負があるように思え、お世辞としてそう言ったのだが、
「総本山なんてもんは、わしらにとっちゃどうでもいい話。ただ昔からここにあるんで参ってます」
古老、静かにそう言った。
境内には総本山を告げる看板が至るところにあり、関係者の話を聞いても「ここが総本山です」という言い回しが必ず出てきた。しかし頭を下げる氏子にとって、それはどうでもいい話であった。反面、私みたいな観光客にとってみれば、それは場所を選ぶ大きな基準となりうる。
ホームページでこれを書くための資料を漁っている時、興味深い記事を幾つも見付けた。岩清水八幡宮も鶴岡八幡宮も八幡様の総本山と思われている方が極めて多いのだ。それぞれの神社がそう名乗っているかどうかは分からぬが、この二社に関していえば知名度も規模も宇佐神宮に並ぶ(超える?)ため、そう思われてもおかしくない。
そもそも総本山とは何なのか、一つでなければならないのか、その点よく分からぬが、人の営みはこの地位を巡り政争・離脱・独立・衰退・隆盛を繰り返している。
古老の祈りに邪気はない。が・・・、総本山を意識した私には、人間臭い邪気があるように思える。
全国に散らばる四万社の八幡様、それを支えているのは総本山ではない。古老のような無邪気な氏子だと思うのだが・・・、果たしてどうだろう。
政治により膨らんだ組織は政治で苦しまねばならない。それは世の常であるが、何となく虚しさが拭えない。
赤い鳥居は背後にある。鳥居の中では総本山を守るため、そして活かすため、様々な事が考えられているだろう。その事を思うと古老の熱心な願が中空に舞ってるように思われた。
吹き出る汗を拭いつつ、もう一度、赤い鳥居を眺めた。
と・・・。
私の袖を引く者がいた。
「もし、すいませんねぇ」
どこから現れたのか、見知らぬオバサンが話しかけてきた。
「なんでしょう?」
「駐車場代四百円をください」
チャリンと払った瞬間に八幡様が同じ目線に落ちてきた。
神様も今となっては文明社会の中にある。
古老の願は文化と文明のはざまを、ただふわふわ漂っている。
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