第44話 初春の遠望(2009年1月)

昨年の秋だったか、
(怠け過ぎている…)
その事を思った。
店舗を持たぬ自営業は自由業であるため際限なく気ままであり、堕ちようと思えばどこまでも堕ちる。
あるギャンブルの帰り、私は白川の流れに沿ってぼんやり歩いていた。歩きながら我が身の自由を誇らしく思い、併せて時間という何物にも代え難い貴重なそれを垂れ流している事に軽い焦りを覚えた。やるべき事は分かっている。分かっているが、どうも時間が生きていない。時間というものは絶え間ない通過物だが見え難い。過ぎ去った後、その存在に薄っすら気付く。が、事前に計画と愛情を与える事で人肌の温もりを持って現れてくれる。怠け者には時間という流動体を生かす作業が重要で、くだらぬ事を山ほど考え、様々な計画を吐き出す必要があった。
そもそも私の生活にはメリハリがない。体型も時間も徹底的にそれが欠けていて、それさえ取り戻せば、自ずと何かが、そう劇的に変わる気がしている。
手元に「メリハリ爆発時間割」という計画表がある。上の事を思った10月に書いた。が、プリントアウトされる事なくハードディスクで今も眠っている。書いた事に満足し、何となくやった気になったのだろうと思われる。私にはそういう事例が星の数ほどあり、熱しやすさ・飽きっぽさには定評がある。
11月…。
急激な不況により設備製作の仕事が落ち込んだ。その代わり農業機械の仕事が舞い込んできて、その面白さに激しく食いついてしまった。が、いかんせん開発費の捻出ができず、図面だけを書き溜め、試作が一向に進まないという状況に陥った。身銭を切って前に進もうと懐を探してみたが切る身銭が見当たらない。貸してくれる健全なアテはある。極めて健全で間違いなく低利で貸してくれるが借金は身を重くする。固定費が増えるという方向は自由人には禁じ手であり、私には絶対許されない。結局リスクを避け、補助金という時間がかかる手段に頼ろうとしているが、どうもその点、モノづくりの熱が弱いように思われる。時間が生きていない。
12月、冬になった。私にメリハリは訪れない。モノづくりに注力するわけでもなく、何かクリエイティブなものに挑戦しているわけでもない。気になるものを調べては紙に吐き出したりキーボードを叩いたりしている。嫌な時間ではない。むしろ好きである。が、これで良いかといえば絶対に良くない。知識はいつまでも知識であり、動かねば知恵にならない。つまり身に付かない。宙をふわふわ舞うだけで、なかなか地上に降りてこない。
書きためた計画たちが手元に溢れている。昨年は実によく考えた。考え吐き出し、色々な足跡が残っているが、結局どれも日の目を見ていない。
年末になった。
(暮れと正月、徹底的にずんだれよう。年が明けたら手元の計画を全て実行に移そう)
そう思って年の瀬に臨み、正月は徹底的にずんだれた。呑んで食ってダラダラし、色々なモノを蓄えた。解き放つ瞬間は今まさにこの時である。
そういうわけで、気の長い話ではあるが、書いては捨て、書いては放置、たっぷり寝かした計画たちを年越しに一気に実行へ移している。一つ目は時間の使い方を厳しく定めた「メリハリ爆発時間割」、二つ目は弛みきった体に容赦ない鞭を入れる「鬼のダイエット計画[」、そして最後はカネと夢と我が人生、三者に試験薬をぶっかける「人生リトマス五ヵ年計画」。どれも膨大な時間をかけ、超現実的に仕上がった傑作たちである。
今年は二度の小旅行を計画している。いずれも徒歩によるもので、プランは精密に上がっている。むろん、それを支えるための経済的な収入が要る。この点、前述の商品開発に拠るところがあり、少々不安だが、後ろ向きでは計画そのものが立てられない。体重も激減する予定である。昨年は一年をかけて3キロほど肥えた。が、今年は一年をかけ15キロ痩せる計画を立てている。
計画というものは、どこまでも自由である。今度の計画は雄大でありつつも全てが綿密で一点の落ちもない。まさに完璧だが、それをやる私が乱れてしまえば計画全体がドミノ倒しになる。過去数年、その崩壊パターンを繰り返し、反省材料には事欠かない。
年初この時期、計画好きには激しく熱い最高の時期到来である。毎度の事だが血がたぎって山に向かって叫びたくなる。現に叫んだ。
「一年後の俺が見える! うぉー最高だー!」
生きた時間が群れを成して襲ってくる。この状態がいつまで続くか分からぬが、こうやって書いたという事は三日坊主では終われないという事である。吐き出し開示するというのはそういう効能もあり、私の常套手段である。が、ここ数年、大した効果は出ていない。
年が明けた。今年は32歳になる。口だけじゃなく体を動かし引き締まった一年にしたい。
毎度の事だが初春の遠望は何ともいえない。寒いが胸だけは熱い。
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