第65話 走る嫁、伴走する夫(2010年9月)

娘を叱る時だけ熱くなり、普段は冷え冷えしている。それが嫁である。
昔の嫁は実に熱かった。男子寮の塀を余裕で乗り越え進入し、寮の二階を占拠した。男子寮なので男子便所しかなかったが何食わぬ顔で常用し、ションベンしてる同僚の横で歯を磨いた。後輩は非常階段の鍵開け係に任命され、寮母はC棟二階をマークした。C棟に道子あり。C棟道子にご用心。伝説の173センチ、嫁・道子の熱は子を産み私から離れ、やがて怒号となり、集落の名物となった。
2010年9月・・・。
嫁の熱が久しぶりに違う方向を向いた。嫁の生きがいとなりつつある奥様会で「手作り市」をやろうという話が盛り上がったらしい。集う奥様の中にはパン作りが趣味の人もいれば、アクセサリー作りが趣味の人もいる。そういう人が寄り添って小振りなバザーをやるという。
「どこでやると?」
「浄林寺」
「浄林寺?」
浄林寺は我家から徒歩数分の真宗寺である。小西行長が落ちぶれた際、その家臣が南阿蘇に流れ、土着し、そのまま居付き寺を興したという風になっている。地元じゃ知らぬ人はいないが、よそに知っている人はいない。
「通行人は寄らんぞ」
「分かってる、最初はそれでいいの」
嫁が言うに最初の手作り市だから来場者数は期待しないという。ただ、どんな感じか具合を知りたいらしい。
「具合を知る」という試みは確かにいい。しかし具合は持続の元であり、客が来ず、一つも売れず、涙ながらに解散という運びになれば明日に続かないだろう。
「大丈夫や?」
「大丈夫!」
私は嫁の傷心を恐れた。が、嫁は燃えていた。一寸先は薔薇色であり、徹底的にポジティブであった。
「やるわよー!」
何をやるのか分からぬが、とにかくノリノリで鼻息が荒かった。
(何を作るのだろう?)
夫としてその想像すらつかなかったが、どうやら服を出すらしかった。朝、昼、晩と子供部屋を占拠し、ミシン作業に没頭した。
嫁の熱量を考えるに、八割が子供、残り二割が夫と奥様会という振り分けであった。しかし突如現れたミシンが六割を持っていった。これが始まって子供四割、夫ゼロ、完全に嫁の視界から夫が消えてしまった。
夫は寂しかった。そもそも男の半分は寂しさで成っている。少年は構ってもらおうと母親に悪ふざけをする。男の一生はその繰り返しに過ぎず、誰かに構ってもらうための茶番が人生であろう。むろん今回も色んな悪ふざけをやった。触ると叱られた。歌うと殴られた。握りっ屁で殺気を覚えた。
「これ、ぞうきん?」
戯れにミシン前の布を笑うと嫁は針を掴んだ。危うく仕事人に葬られ、茶番が終了するところであった。
手作り市本番が近付くと嫁は鬼気迫る勢いでミシンと向かい合った。嫁の睡眠時間が減ってきた。嫁に夜なべは無理だと思っていたが意外にイケるらしく、前日はほぼ徹夜であった。
ふと、付き合っていた頃の嫁を思い出した。手作りマフラーの思い出であった。季節は秋だったように記憶している。欲しいマフラーの色を聞かれ「黒がいい」と言った。それから嫁のバックに黒い毛糸が見え始め、かなりウキウキした。が、その冬もらえなかった。そして忘れた頃、桜が咲く頃にマフラーをもらった。一流の埼玉ジョークかと疑ったが嫁に悪気はなく本気でそれくらい時間がかかったらしい。更に湿度が高くなるとスルメみたいに反るマフラーで、それが嫁の処女作であった。
(反ってる姿をもう一度見たい)
本気でそう思ったが、嫁が嫁の手で、嫁の名誉のためにどこかへ葬ってしまった。
手作り市当日、朝から奥様衆が我家にやってきた。我家を出品者の駐車場にして隣の空き地をお客様用駐車スペースにするらしい。
知り合いの奥様と少しだけ会話をした。やはり寝不足らしい。うちの嫁だけじゃなく、全奥様やる気満々で、会場準備も本格的であった。
私は手作り市に行かなかった。正しくは行けなかった。行って売れてなければ消防団に電話を入れ、金を渡し、うちの嫁のアレを買うよう段取るだろう。
娘たちも売り子として手作り市に行った。娘たちも嫁に触発されビーズでアクセサリーを作った。10円から50円で売るらしい。それは良い。たぶんお情けで売れるだろう。しかし嫁が作った500円の子供服が売れるのか、1000円のエプロンが売れるのか。嫁は世間の荒波に打たれズブ濡れになり、呆然と立ち尽くしているのではなかろうか。
「気になる! でも行けない!」
私は仕事中であった。どうせ手に付かないのだから行けば良いのだが、行ってしまえば茶化してしまう。そうなった場合、十中八九総スカンを食うだろう。
嫁が帰ってきた。案の定、落ち込んでいた。嫁が発する変な笑みに胃が痛くなった。だからその晩、派手な残念会で無理に盛り上がった。
それから嫁は次の開催に向けて燃え始めた。初めての手作り市で「具合」を見た嫁は結果として「リベンジ」という青い炎に包まれた。
「な、利益を乗っけてモノを売るってのは難しかろ」
「うん・・・」
嫁は夫の苦労が分かったらしい。そして走る嫁の伴走をし、夫も嫁の苦労が分かった。
モノを売る、モノを買う、そして生きる。何食わぬ営みの中に色んな苦労がある。
嫁はまだ走るつもりらしい。
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