第74話 フェイスブックをやってみた(2012年5月)

「わさもん」という言葉がある。熊本の方言で「新しもの好き」の事であるが、熊本はそのタイプが多いらしい。
振り返れば私の実父は随所にわさもんであった。CD出始めの頃、誰よりも早くCDラジカセを買ってきた。歌が好きなわけでもなく、音質にこだわるわけでもなく、とりあえずCDがどんなものか、それを確認するために買ってきた。
初めて流したCDはウインクであった。「流す曲は何でもいい」と言われ、流行のそれを買った。ウインクを一週間毎日聴き、CDの性能を理解すると実父は興味を失った。ラジカセは家族のものになった。
それから凡そ三十年。音の世界はCD、MD、MP3と小さく手軽になっていき、その他色んなモノが小さく手軽になってきた。とりわけ人と絡むところが劇的に変化し、わさもんの実父ですら付いていけず放置した。
劇的は携帯とパソコン、そしてその使い道にある。
技術的な興味はテスターで追えないところから失せ始めた。我々技術屋はテスター片手に電気を追いかけ、何か見付けりゃ手放しで喜ぶ。が、集積回路はラビリンスである。行き止まりに近い。それから先はソフトの解析などを必要とし、鬼ごっこの域を超えてしまう。人生かけてその謎を解く必要もなく、先に諦めたのは実父。登ろうとして諦めたのが私である。
携帯やパソコンは集積回路の塊。むろんテスターの入る余地などない。ハードへの興味は微塵も起きず、スマートフォン・アンドロイドと言われても全く反応しなかった。周囲を見渡すに、その新作に興味を示さないのは私を含めた古い技術屋が多いように思え、つまりお手上げ状態という事であろう。どうにかしたいのが技術屋の発露。小さくてギュッと詰まったそれはどうにもならず、だから努めて無視しているようにも思える。
あれがこうも普及してしまったのは人間の大半がユーザーだからであろう。現代社会というのは色んな要望が露見するようになっていて、ああしたい、こうしたいが現れる。ユーザーは要望を発するばかり。その陰に純粋ユーザーになりたくないメーカー的人間が少しいて、それを実現しようと試みる。で、ピープーと繋がっていた回線が繋ぎ放題になった。繋ぎ放題はチャットを生み、テレビ電話を生み、広く社会に根を張った。今じゃスカイプ。重いと思っていたテレビ電話もつい先日お客さんからカメラを支給され、その軽快さに脱帽。油断してたら家中丸見え。後ろの棚の桜木ルイまでお見通しであった。
恐ろしい。駆け足の時代に私は振り落とされている。
わさもんの典型として、すぐに手を出し飽きて放置。これを繰り返してきた。結局、電話とパソコンメールに落ちつき、その他不要で暮らしているけれど、時代は既にSNS。意味すら分からずどこぞのテレビ局かと思いきや「ソーシャルネットワーキングサービス」の略との事。聞いて分からず説明受けて尚分からず。カタカナ語に説明の余力はなく、付いて来れないものは振り落とされる。
小さなカラクリ屋はどうすればいいのか。技術的興味同様、努めて無視すればいい。しかしツールは市民権を得ると日常に根を張る。日常。つまりは言論と行動であるが、それらが意味不明になると色んな面で辛くなる。特に仕事で辛くなると飯が食えなくなる。知っててやらぬはステキだが、知らずにやらぬは裸の王様。イメージや紙面の論理でものを言いたくもなく、とりあえずやってみる事にした。
調べるにSNSも色々あるようだが、私は有名どころのツイッターとフェイスブックに登録してみた。ついでに人のすすめでブログなるものに書き溜めた文章を転載してみた。
知らない人のために書いておくとツイッターは短い文章を公開するツールである。書いた文章は誰でも見る事ができる。フォローしておけば一画面でフォローした人の文章が新しい順に並ぶ。既存ツールと比べ何が斬新なのか。一年やったが未だによく分からない。
次にフェイスブック。原則実名登録というのが気に入ったが、やってみるとそうでもない。ぜんぜん偽名で登録でき、そういう人も多い。書いた文章はフェイスブックに登録した人でないと見れない。ツイッターでフォローにあたるものが友達という枠。これは申請から承認という手順を踏まねばならず、知らない人から承認を求められるケース多し。基本ねずみ講と同じ仕組になっていて、友達のルールを決めねば延々広がっていく。
次にブログ。色んな人が「生きる醍醐味をブログに載せろ」と言うのでアメーバというブログに載せてみた。ブログと手作りホームページで何が違うのか。未だによく分からぬがブログもフォローみたいな事ができるらしい。検索エンジンの引っかかり方も違うらしい。よく分からんので放置中。
とりあえず「一年は続ける」と決め、ツイッターとフェイスブックをやってみた。で、先頃フェイスブックをやめた。良い悪いというより合う合わないがあって私には合わなかった。
感想だが、フェイスブックはねずみ講の仕組だから不特定多数に告知する場合に間違いなく使える。が、その繋がりを「生きた状態」で維持するにはマメな時間が必要で、意図せぬ膨張も時として恐ろしかった。
恐ろしいといえば、私にとって致命傷だったのが「他人を知人に変えてしまう魔術性」である。
先日フェイスブック呑み会に参加した。私だけフェイスブックと関係ないところの参加で、ほぼ全員初対面であったが、他のメンバーも初対面同士という事であった。が、そういう感じが全くなかった。話を聞くと皆それぞれネット上でお見かけしている「友達」で余計な時間なく「リアルな友達」になれたという。
余計な時間は趣味を聞いたり家族構成を聞いたり生い立ちを聞く時間であろう。モジモジしながらそれを聞く。直に触るとヤケドするので最初はおっかなびっくり。様子を見ながらゆるり進む。ヤケドしそうなバリケードは次第に溶けてぬるま湯となる。その繰り返し。それを地道に繰り返すうちに二人の中に血が通う。
「それはそれで楽しい時間じゃないですか?」
問うたがそれは「余計な時間」らしい。
私は遅れているのだろう。前段なくズブリ中段へゆく会話に猛烈な違和感を感じてしまった。ある営業マンは「フェイスブックのおかげで営業がやり易くなった」と言った。さもあろう。が、それでいいのか。いいのだろう。いいに違いない。手軽こそSNSの骨頂でフェイスブックはそうなる事を期待している。
今現在、私はツイッターのみやっている。ツイッターは本来つぶやくべきツールで、短く「おはよう」とつぶやけばいい。が、そのつぶやきに私は意味を感じない。だから上限140文字をフルに使い日常を語ろうとしている。一年これを続けると段々楽しくなってきて、もはや日課となってしまった。日常の記録を私や家族のためにつぶやいている。
ツイッターは更にもう一年続ける。手間暇かからず読者が分からないという点、私は実に気に入っている。初対面の恥じらいを害する心配もない。読んで知ってる人は思うところあるかもしれぬが、こちらは必ずモジモジできる。そしてツイッターに書いた事を初めての口ぶりで語れる。現に生きる醍醐味の読者から「その話は読んだ」とよく突っ込まれる。いいではないか。私にとっては初対面である。
私はわさもん。しかし古い。そして何より恥ずかしがり屋の日本人である。手軽なコミニケーションが世界中を席巻してもヘンなところはこだわりたい。それに気付けただけでもフェイスブックの一年は実に有意義だったと言える。
手軽はモノだけでいい。
人間は会って呑んで手を握り、また会って呑んで喧嘩して、また会って呑んで共に泣く。面倒臭くていいじゃないか。人間だもの。
類稀に見る寂しがり屋は今日もアナログな出会いに焦がれている。
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