第82話 呑みに合う人アホな人(2013年1月)

好みに寄る話だが呑みに合う人がいる。私の場合、兎角アホがいい。
アホとは何か。その言葉を手元の辞書で引くと、

(形動)知能が劣っているさま。また、そのような人、行動。おろか。たわけ。ばか。

つまり最強のけなし言葉として君臨している。が、それは辞書の世界であり、運用に至っては親しみと優しさが溢れ、褒め言葉になったりする。
「アホの坂田」という天才がいる。彼はアホを冠する事で日常から完全に離れた。
「アホ♪ アホ♪ アホの坂田♪」
彼がフニャフニャ横歩きするだけで非日常の世界へ突入できる。日常の世界で坂田さんを発見したらどうするだろう。石を投げるだろう。通報するだろう。バカにするだろう。が、アホという前置きで我々は非日常で坂田さんを見る事ができる。非日常であれば彼の挙動は正道であり、「オホホー!」という面白くない決めゼリフも安心して見ていられる。
(アホとは非日常の事を指すのではないか?)
そう思ったのは、ある呑み会に因る。マジメな話限定「語ろう会」(仮名)に参加した。仕事の話、将来の話、哲学の話、政治の話などなど痛い話が延々続き、参加した事を瞬時に悔いた。
以下、私の呑み会スローガン、
「マジメな話はシラフでやろう!酔って投げたいバカ話!」
そう、くだらぬ話題に持っていきたいけれど、口角泡を飛ばす勢いで皆が激論を交わし隙がなかった。話を振られては逃げ、また振られては逃げ、ついには端っこに隠れた。
(落ちつくのを待って選りすぐりのくだらぬ話題をブチ込もう!)
身構えチャンスを待った。が、激論は延々続き、私は一人呑み続けた。次第にどうでもよくなった。完全に酔っ払った。酔いながら色んな事を考えた。
(楽しい呑み会とは何ぞや?)
人で追ってみた。古い友達にTという男がいる。Tと呑む酒は実に美味い。Tは会話を欲していない。「おう!」「うぇ?」「ば!」短い言葉を連発し、小刻みに揺れながら呑む。で、間が空くと尻を出す。Tの母曰く、Tは子供の頃から尻を出し、その事で先生から呼び出しを食らったらしく、この子は大人になっても尻を出すのではないかと心配したらしい。Tは大学院を出、立派な大人になった。彼は会話に困ると尻を出した。尻出しのスペシャリストになった。
二十代前半はSという同僚と頻繁に呑んだ。Sは仕事中超マジメな人だったが呑むと本領を発揮した。徹底してシモネタを話した。Sは金の話が嫌いで、金そのものを嫌っていた。財布の中に幾らあるか把握しておらず、会計の際、
「今日は幾ら入っているでしょう!ジャン!」
そう言って開けた。入ってないと居合わせた人に無心し、入っていたら振舞った。財布の中に幾ら入れるかは嫁が決める事で「金の事は興味ない」常々そう言っていた。五時から男の典型で、その人柄が実に楽しかった。
二十代後半はKという同僚とよく呑んだ。Kは気を使うフリが大好きな人で、
「仕事もあるし家族も待ってる!だから一時間だけ付き合う!」
お約束のようにそう言って参加した。で、必ず最後までいた。Kは仕事や家庭を思い出すと揺れる心を語り、都度帰る素振りを見せた。が、手元の酒がどうにも止まらないらしい。
「はぁ、うぅまぁいぃ〜」
桃色吐息の後、Kから何かが飛ぶそうな。Kを不思議なものが包み込み、Kまどろむ。が、日常がKの心を離さず、また帰ろうとする。呑んじゃ飛び、飛んでは戻り、結局最後は飛びっぱなしになるKの挙動が酒のつまみになった。
思い出してる私は会場の端っこにいる。
朝まで生テレビの如く、カラカラ回る激論は止む事を知らない。原発、TPP、災害、コミュニティー、立ち位置、役割、町興し、教育。
「俺たちはどうすればいいのか?」
口角の泡もそろそろ尽きたかと思われたが、彼らにとってアルコールは激論のガソリンらしい。突き上げた拳でジョッキを握り、檄の狭間に流し込んだ。
アルコールは精神に効く。半ば形而上の産物だから怒る人は更に怒り、泣く人は更に泣き、笑う人は更に笑う。これらに共通する事は近い将来覚めた日常がやってくるという事で、振り返れば余計なものが満ちている。だから笑った方が絶対お得で、呑み会では是が非でも笑いたいと願い、努力している。
激論をBGMにアホとは何か酔い心地で何度も何度も考えた。やはり非日常が捨て難かった。
大阪の芸人が「アホか!」と突っ込むが、それを「非日常か!」に置き換えると実にハマった。愛があった。私のアホイメージにピッタリであった。
夕方、カラスは「アホー」と鳴いてウチに帰る。つまり昼という日常が終わり、夜という非日常に入る。酒を呑むタイミングを「アホー」と教えているようで実に心強い。
文言にも立派なこじつけを発見した。アホは阿呆だが、阿吽の中間点に思える。阿(あ)は始まりを意味し口が最も開く。吽(うん)は終わりを意味し口が閉じる。呆(ほ)はその中間。終わりではないが阿のような全力感はない。人生は阿と呆を繰り返し、いずれ吽で終わる。阿呆は人生の脈動・起伏、つまり生きる醍醐味をアホが担っているのではないか。
一番遠くに座っていた著名な先生が人間の値踏みを始めた。資本主義の成功者にありがちだが、どうもこの手の人は値踏みをしたがる。あの人はいい。この人は悪い。先が見えてる。見えてない。夢がある。未来がない。
政治を語るのはいい。社会を語るのもいい。経済を語るのもいい。これは人間の産物。だが、天地の産物である人間の値踏みをして何になろう。神様気分で人の顔をジッと見るのは止めて頂きたい。たまらず猪木のマネをしたら「はぁ」と溜息を吐かれた。絶望的という診断らしい。
激論の傍聴にも少々飽きた。隣のテーブルを見た。芯から美味そうに酒呑むオッサンを発見した。
「うまかぁ!」
オッサン鼻毛抜き抜き駄洒落とシモネタで盛り上がり、次いで靴下を脱いだ。おしぼりで拭き始めた。水虫がかゆいらしい。この日、初めて笑った。
激論はまだ終わらぬ。私は窓際族。端で孤独に妄想散歩。たまにはこういう呑み会もいい。でも早く帰りたい。早く帰って脳味噌コロンの嫁に会いたい。
呑みはやっぱりアホがいい。
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