第87話 瀋陽雑記3(2013年7月)

仕事が終わってしまった。終わったというよりやれる事がなくなってしまった。後の作業は部品を待たねばならず、線引きも「これ以降は現地対応」となっていた。技術担当の中国人に残務を説明し、昼食を食い終わると完全無欠の暇人になった。
「これから何しましょう?」
「そこのテーブルでゆっくりしてて下さい」
性格上ゆっくりできなかった。与えられたテーブルで数分苦しみ、次いで小説を読み始めた。
私は仕事のフリができない人であった。サラリーマン時代から暇になったら全力でアピールするタイプで、こればかりはどうしようもない。色んな人に暇をアピールした。
隣のテーブルは会議中であった。私はカタチとして小説を読んでいたが、耳と心は会議に釘付けであった。会議の内容が面白かった。議題は「なぜ時間を守る必要があるのか?」その事で、会議というより教育であった。日本語で進められているところを見るとリーダー研修かもしれなかった。
時間を守らぬAという人がいて、そのAが及ぼす影響を皆で出し合うという流れで、出し合い、吟味し、それが売上に繋がる事を確認し、会社の存亡はAが時間を守れるかどうか、その一点に尽きるという凄まじい論理であった。
私も入れて欲しかった。意味のない雑談が好きで好きでたまらなかった。課長っぽい人に「俺も入れてくれビーム」を放った。目が合った。確かに通じた。無視された。
約半日ブラブラした。知り合いの日本人を休憩所に呼び出しバカ話を展開した。が、知り合いは挙動不審であった。中国人の目が気になるらしい。指導する立場というのは大変らしく、バカっぽい現場はいけないらしい。足早に去った。
食堂に行ってオバチャンと会話を試みた。ハッキリ言ってオバチャンは得意中の得意であった。オバチャン検定なるものがあれば1級取れそうなほど自信満々であった。が、軽く打ちのめされた。私が日本語を喋った瞬間みんな手を振って逃げた。見た目ストライクのオバチャンゆえ、本気で凹み、傷を負った。
暇は人間を後ろ向きにさせる。日本に帰りたくなった。一日早く飛べないか旅行会社に電話した。電話に出たのは中国人であった。片言の日本語で何か色々言うてくれたが何を言っているのかサッパリ分からなかった。
「アナタ、ワカラナイ」
ワカラナイという日本語のみ分かった。要領を得ず電話を切った。
この半日で私は酷く落ち込んだ。今日という日は良しとして明日一日どう過ごせばいいのだろう。半日でこの苦痛。明日は丸一日。きっと私は死ぬだろう。
「ヘンなところへ行くな」という声が私を縛っていた。ヘンじゃないところは楽しくない。私は普遍性を求める観光が嫌い。非日常。つまりヘンを求めて彷徨うのが旅人というものであった。
朝になった。
前日も遅くまで呑んだが意外に早く目覚めた。体の調子も良かった。仕事だと崩れるくせに暇な日は絶好調。都合のいい中年ボディーが我ながら可笑しかった。
ホテルの朝食を初めてまともに食った。豪勢なバイキングからコッテリ系をチョイスし、
「どこへ行こう?」
地図を広げコーヒーを飲んでいると外国人が話しかけてきた。中国人ではなかった。上にも横にも巨大な白色人種であった。彼は中国語を話した。次いで英語を話した。更に日本語も話した。色々喋って私が分かる言語を探し、私の反応で日本人だと気付いた。
「アハッ!ニホンジーン!」
彼は猛烈に喜んだ。
この中年は世界を股にかける商社マンであった。胸元から素早く名刺を取り出すと自己紹介してくれた。出張中のイギリス人らしい。十数ヶ国の言葉を操り世界中に友達がいるそうで瀋陽でも出会いを求め彷徨っているそうな。彼曰く「中国人は呑むに合わん」そうな。で、異国を求め彷徨っているところに私という日本人を発見した。
「ニホンジン、ダイスキ!サムライ、フジヤマ、セイケンコウタイ!」
知ってる言葉を連呼したくなるほど日本が好きだと彼は言った。むろん日本人として悪い気はしなかった。朝食を共にした。次いで今日一日、彼の言語力にすがり色々なところを回りたいと思った。が、あいにく今日は仕事に出るらしく、夕方から一緒に呑もうと約束して別れた。
今これを書きながら彼の名を思い出そうと努めてみた。が、全く思い出せなかった。名刺も見当たらず彼に連絡する手段もなかった。
「彼が知ったら怒るだろう」
酔った彼を思い出すと笑いが止まらなくなった。彼とは名刺の話で盛り上がった。私が名刺を持ってない事を知ると、
「ソレハ、イケナイ!イケナイヨ!」
名刺について熱く語り始めた。名刺を持ってないというのはワーカーとして存在がないに等しいと彼は言う。
夕方の話になるが名刺の件は尾を引いた。酔った彼は「今後の繋がりを拒否しているのか?」と私に詰め寄った。私は私個人の文化として「名刺に重きを置いてない」と強がった。初対面で誰彼構わず連絡先を告げる行為に強い違和感があると言い、
「私とアナタは酒を酌み交わす仲になった!だから連絡先を告げたい!」
そういう流れで割り箸袋に連絡先を書いた。
「ウーン、サムライ!」
彼は意味不明な表現で私をどこかへ分類したが、こうやって連絡先を探す段になると単なる物忘れの言い訳だったと反省せざるを得ない。白酒という強くて不味い現地の酒を酌み交わし「また会おう」と誓ったのに会う手段がなかった。彼もあの酔いっぷりをみると私の詳細をどこかへ置いたと思われ、後は運命の再会に期待するしかなかった。
話が前後した。
とにかく白色人種の彼と会い、旅人の気持ちが蘇った。よく分からぬが中国を満喫する気になった。白い旅人に触発されたと思われる。財布、パスポート、それに地図を持ち、ふらりホテルを飛び出した。
「風の向くまま気の向くまま、ふらりふらふら古町散策」
いつもの旅のスタンスに薄いマスクを一つ付け、クラクションの街を歩いた。
古町といえば故宮、やはり故宮周辺は外せないだろう。地図で見る限り1時間も歩けば着くように思われた。
道は広かった。歩道も広かった。四方八方飛び出す車両をよけながら東へ歩いた。スリリングで飽きる事がなかった。その反面、排気ガスが近く、ススで真っ黒になった。
歩む道の下を地下鉄が走っていた。これに乗ると数分で故宮に着く。乗ってはいけない。道中、何があるか分からない。歩く醍醐味はそこにあった。
人民政府の前を通った。やたら公安がいた。鬼の形相で何かを守っていた。ここで写真を撮ったらどこかへ連れて行かれるらしい。どこへ連れて行かれるのだろう。連れて行かれたい。が、お客さんに迷惑がかかるのは困る。「それだけは止めて」と念を押されていた。
ボーッと人民政府を眺めた。公安の一人が私を指差した。何か叫んだ。寄って来た。
イギリス人の言葉を思い出した。
「公安から逃げるにはパスポートを出せ」
それが一番手っ取り早いらしい。大抵は面倒臭い展開を恐れ「どっか行け」と言うそうな。その代わり民間人には逆効果。反日感情で殴打される可能性があるそうでパスポートは隠した方がいいと言う。
早速試した。パスポートを出した。
「日本人!旅人!ガイジンよ!」
公安は手を振った。イギリス人が言う通り「どっか行け」と手を振った。
その後も公安は挙動不審な私を止めた。止めて止めて止めまくり、ワンワンギャーギャー怒鳴り散らすがパスポートを見ると手を振った。何となく水戸黄門になった気がした。
「この紋所が目に入らぬか!ここにおわすお方をどなたと心得る!ここにおわすは面倒臭い副将軍ニッポンの旅人にあらせられるぞ!公安、頭が高い!手を振って追い払えー!」
「アイヤー!」
進む。見る。止められる。進む。見る。止められる。何だか楽しくなってきた。
楽しいの連鎖が始まった。テレビ出演も果たしてしまった。
青年大街という広い場所があった。地下鉄の駅名にもなっているその青年大街を通りかかった時、テレビ撮影に誘われた。「中国人も行儀良く交差点を渡れる」というシーンの撮影であった。超美人な公安が交差点の中央に立って誘導。我々横断者はテレビマンの指示で一斉に渡るというものであった。むろんポールポジションに立った。他の中国人は嫌々参加していた。ニセ中国人の私だけノリノリで参加。二度の撮り直しも私だけダッシュで戻り、常にポールポジションを確保した。
気分が良かった。楽しかった。ズンズン歩いた。
瀋陽の顔といえる故宮は街中にあった。入るつもりはなかったが遠目に見ると塀越しに古い時代の中国建築が見え隠れしていた。
古い時代の装飾は人間の時間を塗り込んで作った。「使わせた時間が見える」というのが装飾であって気が遠くなるような時間を中国の装飾は教えてくれる。見れば見るほど時間が見え、更に近付き拡大し、細部の時間にギャフンとなる。そこに古代文明の凄さがあった。
「見たい!」
観光嫌いは世界遺産に寄ってはならぬ。が、チラリ見える装飾が凄まじい。見たい。寄りたい。感じたい。気付けばチケット売り場に立っていて60元の入場料を払ってしまった。
瀋陽故宮といえばヌルハチである。ヌルハチは女真と呼ばれたこの辺りの民族を統一し、金という国を建てた。金の宮殿が瀋陽故宮であり、ヌルハチの息子が明を倒して清を建てた。説明書きには「清王朝の離宮跡」となっているが、つまりは清王朝の実家である。
どこかに実家の雰囲気がないか探してみた。有名な八旗制を現した十王亭があるにはあるが、やはり観光臭と漢民族臭が拭えなかった。私が探していたのはそういうものではなく、蛮地から身を起こしたヌルハチならではの何かであった。が、そういうものは見当たらなかった。厳密に言うとヌルハチが持って来た北のエキスと漢民族の大文明が融合し、目の前のそれになっているのかもしれないが、素人には分かり辛く、ヌルハチっぽさには至らなかった。
とりあえず一通り見た。それぞれに説明板もあって中国語、英語、日本語で書かれていた。日本語の説明は滅茶苦茶だった。翻訳ソフトにかけたものをそのまま印刷したと思われ、チェックしないところに大国の余裕が見て取れた。
博物館の監視員は、ほぼ全員熟睡中であった。酒臭い監視員も数人いて、これも大国の余裕であろう。公有施設に役人の身内を入れ、箱物を税捨て場にする構図は中国も日本も変わらぬが、さすが構図の親元、比類なきダラダラっぷりであった。
故宮を出た。
故宮の何が良かったか。これを書きながら思い出すに袋小路のウーロン茶が良かった。観光客は広いところへゆく。旅人は細路地の先、袋小路へ集った。中国装飾に惚れ惚れし、ふらりふらふら追ってゆくと必ずそこへ突き当たった。寝転がって眺めていると旅人っぽい人間が集まってき、内一人が水筒のウーロン茶を振る舞った。
分からぬ。まったくもって分からぬが、そこへ来る人間が旅人だという事は分かった。誰一人として言葉は通じなかった。同じウーロン茶を飲み、皆でニヤニヤした。不思議な行き止まりと不思議な味のウーロン茶であった。
故宮を出て腹が減った。今日は徹底的に旅人だから中華料理屋で現地のご馳走を食わねばならない。下痢ピー上等。そのためにポケットティッシュを4個も忍ばせていた。
故宮がある場所は中街という。古くから続く瀋陽の繁華街だそうで近代的な街と古い街がゴッチャになっていた。むろん近代には興味がない。故宮北側のそういう街を無視し、西側の古い方を歩いた。
現地人で賑わう中華食堂っぽいところに突入した。食堂にはイメージ通り赤い丸テーブルがあった。店構えも赤かった。中国といえば赤だろう。だから入った。入ってすぐ店員と目が合った。店員はチャイナドレスを着ていなかった。ユニクロを着ていた。どうでもいいがユニクロだけイメージと違った。
すぐさま注文した。
「中華料理ば頂戴」
店員は目を丸くした。むろん私が何を言っているか分かっていない。メニューを持って来た。が、私も分からない。分からないからメニューを見ずに押し通した。
「オマカセ、オススメ、ヨロシク、シェイシェイ」
私は行儀良く待った。日本人代表として行儀だけはちゃんとしなければならない。間違っても目の前の回転テーブルを空で回してはいけない。
料理が来た。肉料理を中心に少量ずつだが18皿も来た。回転テーブル半周が埋まった。
「これ幾ら?」
恐ろしいが、その結果は食った後に聞かねばなるまい。凄く高かったとしても既に手遅れであった。
味は良かった。少量で色々楽しめ、完食こそ逃したが、ほぼ平らげた。ハッカクの臭いも薄かった。
食ってる横で中国人の携帯がパシャパシャ鳴った。隣の客も、その隣の客も私の写真を勝手に撮った。こういう料理は何と言うのだろう。よく分からぬが一人で食べる姿が珍しいらしい。宴会場に一人で行って一人会席料理を食うようなものだろうか。別に珍しくない。
テーブルをジャンジャン回した。子供が腹を抱えて笑った。次いで大人も笑った。よく分からぬが一人で回転テーブルを回す絵が面白いらしい。厨房の奥では料理人も笑っていた。旅の恥はかき捨てなので、笑うだけ笑わせ、回すだけ回した。
会計は拍子抜けの60元であった。1元15円だから900円。あまりの安さに10元チップを置いたら、店員が何かをくれた。「中国情熱」と書かれた赤い筒で万華鏡かと思ったら単なる筒であった。これが何なのか未だに分からぬ。分からぬが全力でバカにされた事だけは分かった。
店を出て西に歩いた。遼寧省博物館なる美しい箱物があった。立ち寄った。異国の人が立ち寄る施設ではないらしく記載は全て中国語であった。が、故宮より見所が多かった。しかも無料。2時間も粘ってしまった。
博物館はトイレも美しかった。お腹の警報が鳴り、それはすぐにやって来た。美しい博物館は何の問題もなく全てを受け入れ洗い流してくれた。
博物館から街が見えた。すぐ隣の建物にヘンな文字が見えた。漢字じゃなかった。故宮でヌルハチの余韻を探したが見付からず、ここに来て怪しいそれを発見した。スッキリの私は博物館を後にし、すぐさま現場へ急行した。そこは回族の居住地であった。
回族は中国における少数民族でイスラム教徒である。ヌルハチとは関係ないが、入口からもヘンな文字とヘンな旗が見えた。入口には鉄扉があり進入禁止のマークもあった。
鉄扉に鍵はかかってないらしい。見た目普通の中国人が普通に通っていた。公安の気配もなかった。さすがに回族居住地への侵入はパスポート作戦も通じまい。どうしようか迷ったが、とりあえず旅の醍醐味なので入ってみる事にした。要は堂々としている事。悪い事をするわけではないから堂々と鉄扉を開け、堂々と入ればいい。
「入ります」
胸を張って居住区に入った。入ってすぐヘンな歌が聞こえてきた。ヘンな旗とヘンな文字を近くで見た。見た事ない新鮮な文字列であった。奥へ進んだ。顔に薄い布を巻いてる女性がたくさんいた。
何だか感動した。異国の閉ざされた居住地で少数民族に会ってしまった。喋ってはいけない。会釈した。老若男女、会釈を返してくれた。
回族の子供は裸足でサッカーをしていた。私は暴れるマラドーナのマネが得意なのでやれば喜んでくれるかもしれなかった。が、やって捕まり、その原因がマラドーナでは泣くに泣けなかった。手を振って退散した。
「行ける!結構行ける!」
調子に乗ってきた。こうやって調子に乗ると間違いなく落ちる。その事は36年生きて重々分かっていた。が、お調子者は調子に乗って落ちるまでの自分を楽しんでいる。乗るから落ちる。乗らねば落ちない。落ちる事を逃げてしまえば一生乗れない。
乗ったついでに北へ歩いた。2時間弱で北稜公園に着いた。ヌルハチの次、清の初代皇帝ホンタイジの陵墓で恐ろしく広かった。
ここで時計の針が16時を回った。17時からイギリス人と呑む約束をしていた。歩いて帰ったら間に合わないので地下鉄に乗ってみた。無理だと思った地下鉄も乗ってみたら意外とイケた。乗り換えもイケた。ホテルで貰ったパンフレットを駅員に見せ、
「ここに帰りたいとばってん、どれに乗るとよか?」
普通に聞いて普通に行けた。言葉が通じない以上、標準語への変換すら不要であった。
瀋陽最後の夜はイギリス人と呑みに出た。十数ヶ国語を話す彼は実に心強かった。一軒目は屋台で呑み、二軒目は露天で呑んだ。違いは屋根のありなしだが、それだけで値段がだいぶ違うらしい。
イギリス人は、よく食べ、よく呑み、よく語った。片言の日本語なので半分以上意味不明だったが哲学の話が多かった。ヨーロッパ人は酒の肴に哲学を愛用する。この人は典型的で、最後は哲学的に倒れた。出会いというのは胸襟開き、ぶっ倒れるまで呑み語るのが彼の美学で、凡そ3時間、嵐のように語り合った。
「アウヨ、マタアウヨ!サムライニッポン、ダイスキヨ!」
最後は抱き合って別れたが前述のように連絡先が消え失せた。
イギリス人を部屋へ送った後、ロビーで人を待った。次の相手は福岡出身の日本人で、現地日本人の会に呼んでくれるらしい。話によると、この人も明日帰国するそうで便も同じ。「ならば一緒に呑もう」と相成り誘って頂いた。約束の段階ではこうも前座で呑むとは思ってなかった。白酒という強い酒の一気飲みで足元が怪しかった。
福岡出身日本人は私を見付けるとバスに向かって走り始めた。「付いて来い」と言った。領事館付近で呑むから少し移動をするらしい。瀋陽のバスは停まらない。バス停付近で入口を開けて徐行するから飛び乗る必要があった。酔った身には辛かった。
バスの料金はどこまで乗っても1元だった。日本円換算15円。乗らにゃ損だが色んな面でザッとしていて、あんまりバス停に停まらなかった。
バスを飛び降り少し歩いて領事館が見えた。日本人が経営する焼き鳥屋で呑むらしい。人が来た。続々来た。現地で料理屋をやっている人。家具のバイヤー。サラリーマン。多種多様な青年が集い、日本語で語り合った。
「日本語で呑めるって素晴らしい!」
現地に腰を据えた人にはこういう場がいるのだろう。芯から楽しむ青年と冷えたビールが美味かった。
ちなみに屋台のビールは常温提供。飲める代物ではなかった。やはりビールは冷えて美味い。酔った体に冷たいそれを流し込みスイッチが入った。追加で一本。もう一本。シモネタトークも最高潮。フラフラに酔ってしまった。
宴会は盛り上がった。途中、隣の中国人に「うるさい」と叱られた。みんな喜んだ。うるさいスペシャリスト中国人に「うるさい」と指摘される喜びは在住でなきゃ分からないらしい。
「中国人に叱られた♪うるさい♪うるさい♪叱られた♪」
皆が陽気になった。終わりが延びた。日本人向け高級クラブへ行こうという運びになった。
ふと明日の飛行機が気になった。が、同じ便に乗る先輩が、
「クラブ♪クラブ♪」
ノリノリであった。「帰りましょう」なんて言えるわけなかった。
私は客人扱いだった。最初に指名する権利を貰い、ズラリ並んだ中国人から一人を選んだ。黒髪が綺麗なウーロン茶っぽい女性を選んだ。黒髪は隣に座ると耳元で「ア・リ・ガ・ト・ネ」と囁いた。次いで私のホッペをチョンと突っついた。一昔前の映画を見ているようだった。
「バカにすんな!」
私は日本人として九州の男として凛とすべきであった。が、キュンとなった。古い演出が私の好みであった。
宴会は延々続いた。男女問わずポールダンスも始まり凄く悪酔いした。二日酔い決定であった。
翌朝…。
例のターミネーターが早朝から迎えに来た。チップを含めた500元の支払いを何度も何度もせっついた。チップはいい。それよりも重度の二日酔いと猛烈運転の組み合わせがいけない。間違いなく吐いてしまう。
「スローリー、プリーズ、スローリー」
懇願した。が、ターミネーターはマシンゆえ聞いてくれなかった。同じようにカッ飛ばし、奇跡のスピードで空港に着いた。着いた瞬間、私は思いっきり吐いた。吐いて吐いて吐きまくり、胃液で口が荒れた。
同行の日本人も完全に二日酔いであった。真っ青な二人は全く喋らなかった。
「ビール呑み呑み楽しく日本に帰ろうゼ!」
「イェーイ!」
深夜二人でハイタッチ。それは数時間前の事であった。
帰路も韓国インチョン経由で飛んだ。インチョンまでは隣の席が取れずバラバラに座った。
私の席は中国人ツアー客のド真ん中。隣は太った女性であった。女性はヒマワリの種のようなものを離陸前から食っていた。食うのはいい。食うのはいいが、その殻を床に通路に投げ捨てるから困った。右も左も同じように床へ撒き、この一角だけ荒れ果てた。それだけなら我慢できた。我慢できないのはタンであった。カーッと溜めてペッと吐いた。床に吐いた。緑のそれが一発ニ発、拭くかと思えば拭きもせず、三発四発また吐いた。
私はババアを注意した。
「タンは止めろ!紙に吐け!」
ババアは何を言ったか分からぬ。分からぬが私の剣幕で喧嘩を売ってると思ったらしい。ギャーギャー叫び始めた。周りの中国人も一緒にギャーギャー叫び始めた。後ろのオッサンが私のシートを蹴り始めた。
「この野郎!」
私は立ち上がった。中国人も全員立ち上がった。多勢に無勢。囲まれてしまった。唯一の日本人に加勢を求めた。が、彼は真っ青な顔で二日酔いと戦っていた。その青さは撃沈寸前であった。
スチュワーデスが割って入った。大韓航空だからスチュワーデスは韓国人であろう。私の日本語を受け止めるとタンを清掃し、中国人を注意警告した。が、嫌がらせは執拗に続き、後ろはガンガン蹴り続けた。ババアもタンを止めなかった。最後はスチュワーデスと中国人がモメ始め、一部中国人がどこかへ連れて行かれた。連れて行かれた後、一同シュンとした。罰金刑でも言い渡されたのかもしれぬが実に腹立たしいフライトになった。
日本に戻った。戻って数日後、また瀋陽へ飛ぶ話があった。今度は夏に飛んでくれと言われた。正直飛びたくなかった。飛びたくないが飛べと言われりゃ飛ばざるを得ない。飛ばねば食えぬ時代であった。
グローバルはどこへゆくのか。どこへゆくのだろう。違いを均すのがグローバルの必須ゆえ、カネだけでなく文化の着地点も探す必要がある。今のところ嫁も子供も私の前でタンを吐かない。が、十年後は分からない。タンを吐き、罵声を飛ばして会話する世の中になっているかもしれない。
吐いてくれるな日本人。捨ててくれるな日本人。ああ日本人。日本人。
「この国に生まれて良かった」
飛んで分かった収穫がある。
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ホテルからの景色。朝靄のようで美しい。実はPM2.5。




瀋陽故宮の十王亭。こっちは表通り。観光客向け。




こっちは日陰の裏通り。旅人はこっちに集う。