第102話 ごめんよ青春!(2014年11月)

子供が好きだ。子供というより、煌いてる人間が好きで、そういう風に人生を終えたいと常々思っている。
煌きは雑念なき本気に宿る。つまり生きものとしての本能や反射であり、そういう溌剌としたものを常に感じて生きていたい。が、娑婆を生きるという事は生きものに雑念を塗り付ける作業で、私も含め、成人に達すと光が薄く、遠くなってしまう。
「光に触れたい!熱くなりたい!光はないか?そこにぼんやり見えている!」
手が届きそうな光、それが青春。
私の青春真っ盛りは中学時代にあった。軟式テニスに夢中であった。長女が中学生になり、部活も体育系に属し、私も保護者として燃えるつもりでいた。が、長女は燃えなかった。
「めんどくせ」
口癖がその方向に統一され、闘争心はゼロ。補欠中央をガッチリキープ。ベンチの端で眠そうにしている娘を見てたらヘンな方向に火が点いた。
「ちがう!それは青春じゃない!ザ・青春を見せたい!」
言葉じゃ伝わらない。こんな時は父親の無我夢中を見せるが一番。輝きを取り戻そう、取り戻したいと思った。気の迷いで即座に動いた。
夏の盛り、地元中学校の女子テニス部に入部した。コーチという立場で入部したが20年のブランクはとても教える立場になく、新入部員から始まった。運動不足のデブゆえに持久力はゼロ、すぐさま呼吸困難に陥った。笑われた。ポールの隙間に腹が詰まって動けなくなった時は呼吸困難になるほど超全力で笑われた。恥ずかしかった。泣きたかった。逃げ出そうかと思った。が、これで逃げたら娘に合わせる顔がない。続けた。本気で続け、少しだけ昔を取り戻した。
夏が終わる頃、やっと教える立場になった。が、私という人間は「裕教」という名前に反し、教える事が極端にヘタだった。他人のやり方を全く気にしないタイプだからほぼ基本を知らず「なぜ?」と聞かれても「なぜだ?」と聞き返す事が多かった。学生時代には家庭教師のアルバイトで受験生5人を受け持ち、何と4人が落ちた。つまりヘタ。伝える事はできても教える事ができなかった。
教えるを放棄し、伝える線で臨んだ。それによると技術はどうでもよかった。とにかくこの世代には青春の素晴らしさ、熱くなる事の煌きを伝えたかった。娘には感情的になってしまうが人様の娘さんなら冷静に伝えられるかもしれない。
玉拾いをダラダラする子に走るよう指示した。追う事を諦める子に諦めぬよう指示した。青春の初動は走る事。まずはダラダラをどうにかしたかった。
「生きる醍醐味は運動と感動!溌剌としようぜ!青春がもったいない!」
所感をそのまま伝えたが全く伝わらなかった。確かに青春は後からほのぼの思うもので、現役世代には分かり辛い。が、おじさんは分かるから伝えたい。ダラダラを振り返っても青春にならない。
色んな言葉を試してみた。全て嫌顔された。言い方が悪いのか。でも「走って下さい」とお願いするのは明らかにヘン。なぜ松岡修三は良くて私はダメなのか。答えは簡単。実績、人格、背中、色んなものが総合的に足りなかった。私自身がもっと走って玉拾いをし、もっと諦めず、もっともっと熱くならねばならなかった。
中学生は私の滑稽を笑い続けた。太身の中年は夢中でテニスをやり続けた。壁に寄りかかったら「壁ドン中年」と笑われた。地団駄踏んだら「床ドンおじさん」と笑われた。スマッシュの際、腹がチラッと見えるのは反則。セクハラとして減点された。服装もダメ出しの嵐。ファッションチェックは常に赤点。みじめであった。
色んな事が分からなかった。思想、行動、言語、今時の中学生を知れば知るほど意味不明に陥った。中学生もそういう風に私を見ているだろう。「昭和の人」と呼ばれ、明らかに一線を引かれた。
こうなったら我慢比べ。コートを走らぬ中学生。コートを転がる中年。どっちに気分が流れるか、本気の勝負、その始まりであった。
私は何も言わぬよう努めた。走らぬ子供に「もーっ!」てなるけど、それ以上は言っちゃいけないのが今の時代だそう。口にチャックをし、猛烈に我慢した。
学生は無気力を装い続けた。こちらが情熱的であればあるほど無気力で受け流した。それがナウいと感じるのは今も昔も同じゆえ何となく私にも分かった。表現は違うけれど、私も尾崎豊を聴いて大人の世界に自由を叫んだ時代があった。
「自由って一体何だーい?」
「黙れクソガキ!」
色んな大人にブン殴られた。大人というものが兎にも角にも息苦しく、嫌な生きものに見えていた。目の前の中学生も私をそのように見ている。たぶん、それは当たっている。当たっているが、そうしなきゃ生きられないのが大人の大人たる所以。だからこそ感情大爆発のその数年を熱く使って欲しいと願い「やり過ごすな!」と叫んでしまう。そして、色んな事を心配し、取り戻そうと躍起になって無様な醜態を晒してしまう。
今を生きる若い身は見苦しい中年が不思議で不思議でしょうがない。
「暇なんですか?」
「お金持ちなんですか?」
「一生懸命やって何になるんですか?」
冷めた瞳で聞いてくる。我慢の中年は御託を並べちゃいけない。言いたい事は山ほどあるが一切言わない。とにかく無我夢中の背中を見せ、笑顔一発、楽しんでる大人を伝えなければならない。
「大人になるってのも悪い事ばかりじゃない」
「いみふー」
意味不明の略ですね。よろしい。分からんでよろしい。が、大人はつぶやく。つぶやきたい。聞こえぬようにそっとつぶやく。
「今燃えよ、今燃えると数十年後に訪れる、それが青春の煌き」
先日、好き勝手に喋りまくる自分の夢を見た。
「一生懸命やって何になるって、そう、熱を持つ喜びを知ってると人生を良い方向に引っ張れる!社会には日本銀行券というまやかしがある!それは社会の得票であって喜びの得票じゃない!喜びは人間に寄り添ってて、社会はずっと遠くにある、大人は遠近法がおかしいから遠くのそればかりをいじって訳が分からんようになる!熱のありかを知ってるってのは人間の居場所を知ってるって事!そこに喜びがある!おい、話を聞け!聞いてくれ!ええい、この際、無気力でもいい!でもな、熱い人間を笑うな!せめて凄いと思えるようになってくれ!笑わずに尊敬できたら、それだけで中の上!まやかしだらけの世の中を曇りなき眼で進め!熱くなれ!青春時代を謳歌せよ!」
目覚めればモゴモゴモゴモゴ、何も言えない。言わなくていい。大人はその程度でいい。
青春が笑っている。ごめんよ青春。
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