第141話 嫉妬した死に様(2019年1月)

男はつらいよ、寅さんファンのお父さんが亡くなった。
同級生の父親で学生時代からお世話になってるから四半世紀の付き合いだ。
その家は常に門戸が開いていて、家人不在であろうと勝手に上がって先に呑んでもよい家で、ハッキリ言って自宅より居心地よかった。
お父さんが仕事を終えて家に帰る。学生時代の僕がいる。目が合う。もの欲しそうにしている。アルコールをすすめられる。呑む。はしゃぐ。友達が帰ってくる。「またお前おるとやー」友達あくしゃ打つ。むろん今日も泊まる。
とんでもない学生と、それを許してくれた家という組み合わせが始まりだった。
「おっ福山くん、呑むか?」
目が合ったらアルコールをすすめてくれたお父さんが懐かしい。隣にはいつもお母さん(奥さん)がいて、お父さんの大好物スーパーの鳥刺しがスッと出た。
お父さんが言うに、
「最初の肴は生に限る」
お母さんはそれを心得ていて必ず何かしら生が出た。魚、馬、鳥、時にはダチョウも生で出た。
お父さんは典型的な九州男児で家の事は全てお母さんに任せっぱなし、お母さんがいないと何も分からないらしく、いなくなるとオロオロした。
「お母さーん、おーいお母さーん」
呼んで来ないとムッとして無口になった。
お父さんは六十数年の人生で何万回お母さんを呼んだだろう。自慢じゃないが僕も嫁を呼ぶ回数は他の追随を許さぬところがあって、いないと悲しくなってイジけるところもお父さんを手本としている。

そんなお父さんがガンだと分かったのは二年ぐらい前だったと思う。お父さんの家に変な機械がたくさん運ばれ始め「これ何?」って聞いたら免疫力を高める装置と説明を受けた。結構大がかりな装置もあって親族総出で戦うという決意表明だった。
「お父さん幸せですねぇ」
笑いながらそう言うと九州男児はハニカミながらウンと言った。
それから筋肉質でビールっ腹のお父さんは徐々に痩せてったけれど医者の予想を遥かに超えて生きた。
僕は数ヵ月に一度、出張帰りにふらり寄り、お父さんと男はつらいよの話をした。己の美学を語る事はやっちゃいけないし恥ずかしい事だけど好きなキャラクターや気に入ってる映画のシーンがピタッと合う時、人は美学の共鳴を感じる。
ある日二人はピタッときた。それは互いに寅さんファンだと分かった日で、最初にこう聞かれた。
「何作のどこが好き?」
寅さんは全48作ある。僕はその中で17作最後のシーンを挙げた。その瞬間二人の美学が通い合った。
「ぼたん(ヒロインの名前)か」
「ぼたんです」
「最後って、東京どっちて祈るとこ?」
「祈るとこです」
「そうか」
「そうです」
熊本地震の時もそうだけど人間ここだという時にすがるのは己の美学しかない。お父さんは寅さんの名場面を借りて己の美学を示してくれた。美学それ即ち生き様で、寅さんがふらり寄れるような風通しのいい家を目指し、俺に付いて来いって言えるような親分肌と人情味に焦がれた。
「美学に沿う最期は何か?」
病床のお父さんは考えたに違いない。が、じたばたしてもしょうがない。積み上げたものが最期に出ると吹っ切れたんじゃないか。

お父さんが亡くなる一ヵ月前、同級生の息子がお父さんを囲む会を開いた。突然の誘いだった。むろん仕事はキャンセルした。その夜、バイクに乗り、30キロ極寒の道を寝袋持参で駆け付けた。
馴染みの顔がたくさんいた。みんな僕をバカにした。バイクで来た事も、こんな状況なのに泊まるつもりで来た事も酷く滑稽だと笑った。が、僕には僕の信じるところがあって、お父さんにおける僕はタコ社長みたいな役どころで、常に貧相な乗り物で現れ、全く遠慮しない貧乏経営者のはずだ。ちゃんとしたらお父さんをガッカリさせてしまう。
その時のお父さんは歩く事も困難になっていて、とても辛そうだった。が、オンボロの三輪バイクで来た、泊まるつもりで来たと言ったら笑ってくれた。
「らしいな」
嬉しい言葉を頂いた。らしさというのは美学そのもので、お父さんもお父さんの美学を貫こうと必死だった。
お父さんは娘に支えられ寝床を出た。
「あそこの棚にあの日本酒があったはず、出して」
そう言って秘蔵の封を開けた。
お父さんは一口舐めた。「うまい」と言ったがむろん味など分かるはずない。美学が言わせた日本語で拍手したい気分になった。
それから写真撮影が始まった。お父さんも家族も今日集まった客もこの撮影の悲しみを知りつつ笑顔を作った。この笑顔もまた美学、その辛さが分かるからお父さんは長くなりそな撮影会をピシャッと制し寝床へ去った。痛いほど男前だった。

それからもう一度だけ家に寄った。
お父さんは病院が嫌だと言って自宅療養を望んだ。僕も間違いなく望む。望むのは勝手だ。大変なのは家族。特にお母さんは付きっきりだった。
症状が末期になればなるほどお父さんはお母さんを呼び続けた。娘もいるけどやはり娘じゃダメらしい。
「ちょっとでも離れるとお父さんが呼ぶからゴメンね」
お母さんは見送りできない理由をそう言って説明したが、その間にもお父さんはお母さんを呼び続けた。
「分かります」
お父さんの気持ちが痛いほど分かった。娘じゃダメ。僕も嫁を呼び続ける自信があった。だから嫁と一緒に最後の見舞いに寄った。
この現場を見て嫁は考えた。そしてこう言った。
「私にあれを求めてもムリだかんね」
意図は通じた。拒否された。

その数日後お父さんは亡くなった。
お父さんとの約束があった。いつだったか忘れたけど、お父さんが持ってる寅さんグッズを全部僕にくれた。笑いながら「もう必要ない」と言われるので僕も笑いながらこう言った。
「お父さんが亡くなったら香典の代わりに何か作って持ってきます」
約束は必ず守る。が、一晩で、今ある材料で何が作れるだろう。
お父さんとの思い出をかき集めた。お父さんは僕と一緒でスマホが嫌いだった。「ペターンとしたボタンは押した気がせん、カチッと押さんとボタンじゃない」そう言ってた。それと辛気臭い感じが嫌いだった。お父さんの母親は今も健在で仏壇に向かって熱心に経を唱えておられる。それに向かって「南無南無チーンが大嫌い」と言ってた。
「よし!カチッていうスイッチ押したら男はつらいよが流れるチーンの代わりを作ろう!」
そういう訳で急ごしらえだけど一晩でカタチを作り、足りない部品は翌朝ホームセンターで買って仕上げた。



通夜は夕方らしい。が、僕は吞み友達の悲しい式典には出ないと決めていて、お父さんにもそういう話をした事がある。よって葬儀場へ移される前、自宅へ顔を見に行った。
事情を察した嫁が香典袋と喪服を用意してくれた。が、
「そういうのいらない」
作業着のままバイクで行った。
家は移動直前で大騒ぎだった。たくさんいた身内は喪服チェンジの真っ最中、僕はその中から息子を探し、案内を乞い、お父さんの横に座った。
お父さんはスーツを着ていた。定年まで勤め上げた自慢の一着らしい。
「僕も作業着、これが技術屋の正装です、一緒だ」
息子に香典代わりの音が鳴る箱を渡し簡単に経緯を説明した。怒られるかと思ったら息子も娘も喜んでくれた。
息子が音が鳴る箱をお父さんの手元に運び、お父さんの指でボタンを押した。小さな音でお父さんのテーマソングが鳴った。
「これ絶対喜んどる」
息子がお世辞を言ってくれたが音量小さ過ぎて正直恥ずかしかった。アンプがなくて増幅できず貧弱な音になった。
息子は何度も何度もお父さんの手でボタンを押した。それをBGMに死に際を語ってくれた。
「あんな幸せな死に際はない」
親族総出で看取ったそう。それこそドラマように事切れる瞬間を全員で見守り、みんなでわんわん泣いた後すぐ宴会が始まったらしい。それから亡くなった報を受けたお父さんの親分・子分・同僚、皆一斉に集まり昨日は寝ずの宴会だったと言う。
恥ずかしい話だが僕はその死に様に嫉妬した。美学の結果が死に様であるとすればこれ以上の死に様はない。
お父さんが隣でグッスリ寝てる。僕が作った頼りないBGMが流れてる。息子が父親の誇らしい最期を語る。
ふと僕に置き換え最期の日を想った。
「くそー!負けだ負け!」
美学勝負、完全に負けた。
憎らしいほどいい死に顔だった。

 
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