第147話 めくらのおっちゃん(2019年11月)

ふと思い出し、ムダにイライラしている。
小学校の頃、通学路に「めくらのおっちゃん」と呼ばれる目の不自由なおじさんがいて飴をくれるからしょっちゅう遊びに寄った。それがなぜか地域の問題になって学校でビンタ三発打たれた。
一発目は「めくらのおっちゃん」と呼んでる事。めくらは差別用語だとぶん殴られた。そんなの知らない。地域の人がそう呼んでるから「めくら」という家のおっちゃんだと思ってた。
二発目は知らない人から学校帰りに飴をもらうなという事。知らない人じゃない。雨の日も風の日も毎日通学路に立ってるから知らない人は誰もいない。たまたま話しかけ、初めて仲良しになった小学生が僕だというだけだ。
三発目は飴をもらえるからと言ってひょいひょい人の家に行くな、更に友達を誘うなという事。僕はそんなに軽くない。むしろ人見知りが激しいから通学路で毎日飴をもらいながら毎日観察した。そして数ヵ月のやり取りを経て大丈夫と判断し、まずは一人で遊びに行った。そしておっちゃんも、おっちゃんの家族も「次は友達と一緒においで」と言うから友を引き連れ大挙伺った。確かにそれが10人超えていたのは反省すべきかもしれない。が、おっちゃんは間違いなく嬉しそうで畑の野菜を土産にくれた。
思い出しながら本気で後味が悪い。
とにかくそれが問題になって学校から次のような指示がでた。
まずは「めくらのおっちゃん」は「目の不自由なおじさん」と呼ぶよう名称変更の指示が出た。次に「毎日すれ違っても挨拶程度の会話で済ます事」って言われた。「飴も絶対貰うな」って言われた。更に「こいつみたいに家に行くなど言語道断」って僕の事例を紹介された。
その日を境にみんなおっちゃんと話さなくなってポッケの飴も減らなくなった。
むろん、おっちゃんから話しかけてくる事もあった。挨拶から立ち話になり何度か飴をもらう事もあった。そのたびに退礼という土曜の通報儀礼(友達の悪いところを告発する会)で、
「福山君がまた目の不自由なおじさんに飴をもらってました」
女子が通報し、先生に殴られ、皆の前で謝罪するというバカみたいなルーチンを強要された。
あの教育は何だったのか。本当に意味不明だ。
おっちゃんは段々通学路に立たなくなり、やがて姿を消した。思い出すほど分からない。あれは何だったのか。みんな不幸になって終わりじゃないか。
時代は積木だ。過去を積んで今ができてる。何だか今のこの時代がこの一件のせいで悪いような気がして実に気分が悪い。
「結果として何で先生の言う事を聞いたのか?何でめくらのおっちゃんともっともっと遊ばなかったのか?」
寂しがり代表として、おっちゃんの心を察すに悔しくてしょうがない。
重箱の隅を突っつくように粗を探し、言葉が良いの悪いの表現だけ改め、建前重視で本質をないがしろにすると結局すべてが嘘っぽくなる。だから今そういう時代じゃないか。
あの積木を変えたい。が、その積木はずっとずっと下にあり、手が届かず悔しい。
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