第152話 K老人と葬式(2021年9月)

テニス仲間のK老人が亡くなった。78歳だそう。
高校まで南阿蘇で過ごし、それから製鉄の仕事で北九州や大分を転々とし、定年後に南阿蘇へ帰ってきたらしい。
それからは軟式庭球の老人として有名だ。地元に恩返しがしたいという事で中学校のソフトテニス部コーチになり、たぶん15年ぐらいやられたんじゃないか。
僕は7年前に会った。「一緒に軟式庭球しないか」と誘われ、中学時代やってた事もありヒョイヒョイ乗って毎週テニスする仲になった。
K老人は古かった。言い回しがとても古く、中学生の娘たちに「耐えがたきを耐え忍びがたきを忍べ」とか「欲しがりません勝つまでは」とか言ってた。
スポーツの呼び名も今はソフトテニスと横文字名が付いてるにもかかわらず軟式庭球と叫び、自身の事も「軟式庭球の男であります」と叫んでた。
声がでかいという事でも有名だった。K老人が近付くとみんなK老人の接近が分かった。とにかく叫ぶ。製鉄の仕事で身に付いた習慣らしく腹の底から声を出さないと相手に届かないと語ってた。
また製鉄マンは死ぬまで製鉄マンと言われるように会話の節々に「ご安全に」という絶叫が付与され、何か作業する時はどんな軽作業でもヘルメットをかぶってた。
僕はK老人が好きだった。官営八幡製鉄所の名残が色濃く残る人なんてそうそうおらず、老人から明治大正昭和の軍人を想像したりした。何て言うのか、日本語が簡潔で、ちゃんと韻を踏み、背筋を伸ばし、気持ちを一々口にした。口数が多いから名言も多かった。
「三度の飯より軟式庭球」
「君は紅に染まる夜峰(集落の裏山)を見たか」
「ゆけ我が血潮」(ボールに言ってる)
そういう人だから道具とコートも大事にし、コートに関しては雨が降りそうになると必ず重いローラーをかけつつ「雨降って地固まる」と叫んでた。網が破れちゃ網を縫い、草が生えりゃ草を刈り、イスとか備品の修理まで一人でやった。人には一切求めなかった。そう、あのコートはK老人のコートだった。
そこでポツンと逝ったそう。
いつものようにコートの整備を終え、学生が来るのをベンチで待ってた時らしい。老人もビックリしたに違いない。不意にその時は訪れた。第一発見者の学生が見た時K老人は眠ったように倒れ、少し泡を吹いてたらしい。慌てた学生は先生を呼びに行った。それから救急車が来て病院へ運ばれた。
僕は出張中だった。色んな人から電話があった。集落で一番の仲良しはテニス仲間の僕だとみんな思ってて詳細を聞かれた。が、寝耳に水で意味不明だった。
病院には入れなかった。コロナ蔓延の時期だし、状況が状況ゆえ念入りな検死が行われたらしい。
病名も結局分からなかった。病名を確定させるためには体を切らねばならず、それは遺族も求めなかったそうで、分からない方がK老人らしくていい。とにかく手塩にかけたコートで不意に逝った。何ともうらやましい。見事な往生じゃないか。
自宅に遺体が搬送された後K老人を見に行った。申し訳ないけど少し笑った。ビックリ顔だった。「いつ死んでもいい」と言ってたけどホントにいきなりでビックリしたのだろう。そういう顔の脇に愛用のラケットが2本置いてあった。
「うちの父はどちらを使ってたんでしょう?」
娘さんが尋ねられた。よく知ってる。傷だらけの一本は普段使いで、もう一本、義理の息子さんから貰ったものは予備だった。「使うと傷付く」そう言ってた。その話をすると「形見に一本如何ですか」と言われた。遠慮なく普段使いの一本を頂いた。もう一本のラケットは棺桶に入れて一緒に燃やすらしい。
テニスはだいぶやってなかった。腰を痛めて以来ご無沙汰だったけど形見のラケットを貰ってしまったゆえ久しぶりにK老人のコートでテニスをした。一つのイスに花が乗ってた。そうか、このイスで倒れたんだ。主人を失った静かなコートは今後どうなるんだろう。荒れてゆくのだろうか。
先週までK老人が振ってたラケットはガットが手張りで緩かった。今は機械張りが主流だけど昔ながらの手張りにこだわるのはK老人らしく「それしか知らん、他は知らん、機械は嫌」と言ってた。
思い出すほどに何と個性が立った人物だろう。K老人らしい、らしい、らしい、K老人発のらしい話が山ほど出てきて嫉妬した。
通夜も葬式もコロナの時期ゆえやらないという話だったけど結局やる方向になった。学生たちから最期のお別れをしたいという声が多数寄せられたそう。
思うところあって葬式は極力行かないと決めてたけどK老人の葬式だから渋々行った。行って直ぐ行かなきゃよかったとやっぱり思った。
作業着で行った。歩いて行った。知り合いの先生や保護者と会った。ヘラヘラしてる喪服を着てない男が近付くと露骨に逃げる人がいた。不謹慎だと叱る人もいた。
僕は知ってる。そういう人に限ってK老人の事を何も知らない。何となく知り合いだから葬式に来た人だ。そういう人に僕を責める資格があるのか。僕はK老人と全力で付き合ってきた。
K老人が酒を呑む時いつも背広で来る事を僕は知ってる。ラケットを振る時ラケットに語りかける事も僕は知ってる。奥さんが亡くなった事を知らなかったけど知った後は直ぐ呑み会を開いた。カーナビと喋るK老人も知ってる。古希のお祝いもウチの家族みんなでやった。区長をジャンケンで決めるとなった際、男気出して「俺がやる」と言ったけど翌日不安になって落ち込む姿も見た。弱い酒に真っ赤になって「軟式庭球に救われて生きております」直立不動で叫ぶ姿を何度も見た。
生きてる時にどう接したかが全てであって、このカラスみたいな黒い集団が神妙なフリをする儀式に何の意味があるのだろう。が、それで社会が成り立ってる事も重々知ってる。
受付に香典を置いた。顔なじみの先輩が、
「カラクリ、お前が一番さみしいのぉ」
そう言ってくれた。そうだ、たぶん集落で一番仲良かった自分が集落で一番さみしい。上がっていけ。奥へいけ。焼香していけ。周りの声を振り切って場を去った。分かってる。僕が喪服を着ればK老人に「らしくない」と叱られ、着ないと儀式に叱られる。社会は半ば儀式だ。
生きてる間は一対一だ。死んでしまえば一対社会。大事な人には生きてる間に何かしなきゃいけない。帰る足、呑み友達に電話した。
「今から呑もう、死んでしまわぬうちに」

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