第156話 酒場で聞いた夫婦の話(2023年8月)

嫁子供が帰省して僕一人の生活が2週間も続いた。
暗い家に帰るのは嫌なので人の家に泊まったり呑み屋に泊めてもらったり、努めて家に帰らぬようにしてたら一人の中年につかまった。行き付けの呑み屋でたまに会う人で歳は僕より少し上、50歳くらいか。大企業に勤める課長さんだったと記憶するが酒場の約束として深い事は知らない。
その人が、
「隣いい?」
カウンターを滑り寄り、がっつり身の上話を始めた。
「おれ今年離婚してね」
「は?」
これには呑み屋の女将が驚いた。僕はその人が既婚者って事も知らなかった。ゆえ一切驚かなかったけど女将につられて驚いた。
その人は二つ隣のカウンターで僕の話を聞いてたらしい。嫁がいなくて寂しい。寂しいから呑み歩いてる。家にぜんぜん帰ってない。そういう話だ。それを黙って聞いてたら辛抱たまらず隣へジャンプ。女将も知らないフレッシュな情報をいきなりぶち込み「君は正しい」と言い始めた。
「夫婦は互いに依存すべきだ」
その人はその言葉を繰り返し、
「カラクリくん、君に話す」
その後悔を語ってくれた。

離婚なんてものは書類上の話で夫婦としての生活は5年前に壊れていたと言う。
結婚生活は22年、大恋愛の末に一男一女、子供二人を授かり、中寄りの大企業に勤めてるから金銭的に苦労させた事はなく、休みも多いから団塊の世代みたいに全く子育てしなかったという訳でもない。むしろ休日はほぼ家族サービスにあててたそう。給料は全額ちゃんと渡したし年2回は家族旅行も行った。時々呑みに出るのが楽しみなぐらいでタバコもやらない。ギャンブルしない。
「まぁどこにでもいる善良なサラリーマンです」
らしい。
歪み始めたのは子供が小学校に上がるぐらい、結婚10年目に家を買った頃だそう。
「カラクリくんの家は狭いて言いよったろ?」
「はい狭いです、MAX6人暮らしですが2LDK63m2です」
「そんくらいがいいとよ」
これは色んな人が言うけど広いと逃げ場ができる。親も子も逃げ場はない方がいい。嫌でもギューギューしていると喧嘩しても別の話題や関心が出てきて上書きされる。家はギュッとしてるに越したことない。
「キングサイズの立派なベッドも買ったけど、子育ての時期で妻は触ると怒るし、触らなきゃ隣からイビキが聞こえるだけ、嗚呼うるせーってなって自然と寝室は別に、キングサイズはジャマで廃棄、子も大きくなるとみんな部屋にこもって段々干渉しなくなる、そうなると業務連絡しか話さなくなる」
そういう時期がダラダラ続き、ある日いきなり離婚届を突き付けられたそう。
「あんた私がいなくても生きていけるでしょ」
女の変化は激しい。少女から女、女から母、母から女、女から少女。女の時期に知り合う訳で、母への極端な変貌に男は付いていけず必ず一度絶望する。
「そん時よ、そん時あきらめんなら夫婦は壊れんとよ」
母になった妻は子の成長で女に戻った。が、戻った時には寒々とした個の空間のみ広がってて「今更何を話す?」互いにそういう感じで5年が過ぎたそう。
「奥さんの母から女に戻ったサインもあったでしょうに?」
「あったかもしれんけど夫婦ってのは一度でも無気力を肯定すると取り返しがつかん、そうなった時の口癖は一人の方が楽」
ドキッとした。その口癖、方々から山ほど聞いてる。確かにその言葉を発端にガラガラ崩れる家庭が多い気がした。
「組織もそうだけど、どこか依存するところを残さんと夫婦は続かん、一人でいいや、一人が楽ってなっちゃう、だけんカラクリくんが寂しい寂しいって叫ぶの聞いて反省したと、夫婦は依存せんといかん」
その人はマジメなビジネスマンだから人間の信用にうるさい。人生最大の任命責任は結婚で離婚する奴は任命責任を果たさない奴、ビジネスパートナーとして信用できない奴、そんな奴とは仕事するなと部下に言ってたら、まさか自分がそうなった。
「笑っちゃうよな」
「はい、確かに笑っちゃいます」
「キッカケは些細な事なんだよ」
「何でしょう?」
「あきらめた、そして隣で寝なくなった」
「確かに些細」
「些細だけど嫌でもたまに触れてたらこうはならんかったと思う、人様と妻の違うところはそれくらいしかなかろ、そこをないがしろにしてこのザマ」
「肝に銘じます」
「カラクリくんはすごいよ、結婚何年目?」
「23年です」
「23年で妻に会いたいと酒場で叫ぶ奴は他におらん」
「そうでしょうか」
「はぁ…おれもあん時…」
あきらめたら試合終了ってのは有名な漫画の言葉だけど漫画より100倍沁みた。つい先日離婚した人が「無気力を肯定したら終わり、あきらめたら試合終了」と言い切った。
「いい話を聞きました、今日は僕におごらせてください」
その人は首を振った。
「悪い話を聞かせたね、今日は僕におごらせて」
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