薩摩の光
【加久藤越え】
大畑(おこば)という人吉郊外の集落に入った。国境である。
緩やかな登りが続いていて、古い時代からの幹線である。飫肥街道というらしい。
国境の街道筋には、普通、簡単な出城か何か築かれていたように思うが、この辺にそういったものがあるのだろうか。国道から周囲を眺めたが、そういうものが見当たらなかった。が、これを書きながら調べてみると大畑城があるらしい。大畑麓町というところが近辺の中心で、そこに郷士の集落があったという。
国境までは、かなり登らねばならない。鳩胸川に沿った道である。
それにしても鳩胸川とは面白い。どの辺りが鳩胸っぽいのか、地図を見、本気で考えたが鳩胸らしい緩やかな膨らみが見当たらなかった。川の名を付けた人が凄い鳩胸だったのだろうか。
長い登り道、アソカラ号は車に抜かれまくった。田舎道を走ってきたから車とのせめぎ合いを免れていたが、さすがに幹線ともなると車が多い。二十キロも出ないアソカラ号に車は苛立っているようであった。
熊本ナンバーの他に鹿児島、宮崎ナンバーも同数程度含まれてきた。いよいよ国境の色が濃くなってきた。
国道は人吉ループ橋で高度を上げ、加久藤トンネルで国見山を貫いた後、今度はえびののループ橋で高度を下げる。つまり完全無欠の文明道である。むろん私は文明道を通る気はない。旧道を行くつもりである。が、行けるかどうかは行ってみなければ分からなかった。歩きの場合、綿密に調べて臨まねばならぬが、バイクゆえ、どうにかなると思っている。
ループ橋の途中から左に曲がった。曲がった後、更に曲がり、砂利道に入った。手元の地図は2002年発行のもので、縮尺は1/100000であった。細かいところを行くには適さぬが、これがなくては前に進めない。分岐路の選択はほぼ山勘に頼った。
狭い砂利道を進むと広いところがあった。巨大な石が転がっていて「千年の森林」と書いてあった。平成17年の碑である。新しい。行政が何かやってるらしいが、何をやっているのかはよく分からなかった。
未舗装の道を更に登った。せめて周囲が見渡せれば方向感覚も湧くのだろうが、周りを杉に囲まれているから、どっちへ行っているのか検討がつかない。とにかく先へ進んだ。すると朽ちた看板が現れた。「宮崎県」と書いてあった。朽ちてはいるが立派な看板であり、かつての幹線に違いない。
番所か関所の跡がないかと見渡した。が、そういうものは一切見当たらなかった。杉があるばかりで、鹿がピョンピョン跳ねていた。
肥後という国は清正以降、薩摩を仮想敵としてきた。熊本城という巨大な要塞は薩摩の北上を押さえるためのものだし、薩摩街道、人吉街道、そしてこの飫肥街道、これらの国境を両者とも実に警戒した。その点、肥後と薩摩は隣国だが遠い国であり、これらの国境は他の国境と雰囲気が違ったであろう。
当時の気分がよく分かる薩摩隼人の詩がある。
「肥後の加藤が来るならば、焔硝肴に弾丸会釈、それでも飽かずに来るならば首に刃の引出物」
薩摩側の国境で詠われたものだろうが、両者共そういう感じでピリピリしていたと思われる。
ちなみに薩摩で捕まった余所者はスパイ容疑で容赦なく斬られた。薩摩は日本という国の一つでありながら半ば独立国のようになってしまった。独立国として密貿易を繰り返し、財を貯め、その金で明治維新という革命を成した。が、革命を成した後、薩摩は自らの特異な体質に苦しまねばならなかった。
変わっているという体質は革命を成すには打ってつけだが、それから社会を安定させようと思った時、邪魔になるものらしい。薩摩は薩摩が起こした政府によって押さえ付けられた。
明治以降の薩摩は極端な変貌を遂げた。遂げねばならなかった。権力の辛いところは手本を示さねばならないところにあって、その点、悲惨であった。。明治政府の施策を世に通すため、薩摩は別人にならざるを得なかった。
他国人に会話を悟られぬよう意図的に分かり難くしていた薩摩弁が標準語っぽくなった。このおかげで今に残る鹿児島弁は極めて分かりやすい。が、口を開けないという雪国っぽい発声法だけは変わらなかったらしく、思いっきり訛った。
神社を尊び仏門を排すという廃仏毀釈の徹底ぶりも凄い。他県はボチボチやったが、薩摩・大隅は手本として片っ端から寺を壊した。ゆえ鹿児島県には古い寺がない。
私がこの旅を車でなくバイクにしようと思ったのは加久藤越えの力による。図書館で西南戦争の本を読んでしまい、加久藤越えをしたくなった。加久藤越えは薩軍の一斉北上でも出るし、人吉攻防戦でも出る。退却の時にも出る。加久藤越えの細かい道は分からぬが、この近辺を歩いた事は間違いない。
峠に加久藤越えとは違う名が付いていた。堀切峠という。頂上は宮崎県である。トンネルの名は堀切トンネルでなく、加久藤トンネルで、その点、天草の福連木トンネルと似ている。こちらの頂も堀切という。古い時代、峠を指して堀切と呼んだのではないか。しかし、それだと全ての峠が堀切峠になってしまう。人の行き来が頻繁でない時代はそれで良かったかもしれぬが、人が流れるようになると地名を指すのに不便が出たと思われる。地図を見ながら、そういう想像をしてみた。
加久藤という名前も面白い。何も調べず勝手な想像を繰り返しているが、加藤が久しく離れている。肥後加藤家を両断してやろうという薩摩側の強烈な意思表示ではないか。堀切峠が通称として加久藤越えに変わったのは、そういうタイミングかもしれない。
学者の非難を恐れず、旅人として勝手な想像を繰り返した。想像が偏ってしまっただけに難なく国入りした事に歴史的違和感を感じてしまった。が、違和感は吹っ飛ぶ。思いっきり迷ってしまった。三叉路があって中央を選んだところアンテナ基地に出た。行き止まりだったので引き返した。今度は左の道を走ったら今にも消え果てそうな林道に出た。巨石が至るところに転がっていて、走るに走れなかった。走れないところは押して進み、段差がひどいところはバイクを持ち上げた。時々看板があったが、意味不明な林道線の説明書きで全く役に立たなかった。
(戻ろうか?)
そう思った時、「左、国道」という看板を発見した。道は酷かったが、とにかく国道目指して突き進んだ。国道に出た。なんと人吉ループ橋であった。
私は一時間以上も山中を彷徨い、県境も跨いでおきながら入口に戻ってしまった。考えようによっては加久藤越えを楽しんだといえるかもしれぬが、また林道に戻る気はせず、今度は国道で通過した。国境の歴史的パワーであろう。恐るべき加久藤の因縁であった。
えびので幾つか史跡に寄った。寄りたいと思って寄ったのではなく、尻が痛くて悶絶し、休憩として寄った。時計を見た。午後四時であった。七時前に出たから九時間もアソカラ号に乗っている。椎葉の休憩を除けば、ほぼ走りっぱなしで昼飯も食っていなかった。
(飯でも食うか?)
痛い尻をさすりながら前後左右を見渡したが、えびのの盆地は狭かった。アッという間に通り越し、また登りに差し掛かった。
今度は霧島越え、尻は痛いが最後の峠であった。

【霧島越え】
霧島というと、私はキセルの旅を思い出す。
十九の夏であった。Oという学校が誇る天才と霧島縦走をしたのであるが、その帰り、金が足りない事に気付いた。理由は私にあった。前の晩、酒を呑み過ぎた。幾ら持っているかも考えず、ノリノリで呑んだものだから、スッカラカンになってしまった。
金はない。しかし熊本には帰らねばならない。
「無人駅で降りよう」
私の提案で短距離キップを買い、とりあえず電車に乗った。何事もなければ良かったが、
「キップ拝見」
車掌が回ってきた。逃げるのは怪しいので即座に路線図を見、近くの駅を告げて追加の金を払った。車掌の目があるので然るべき駅で降りた。次の電車に乗って熊本を目指した。
この二人、明らかに怪しい。捕まらないのが変であるが、なんと目的地の無人駅に無傷で辿り着いた。二人は喜んだ。ハイタッチで喜び、駅に飛び降りた。が、あまい、あま過ぎる。相手は二人を泳がせていた。降りた瞬間、車掌に捕まった。さすが相手はプロであり、こちらはニキビ面の学生であった。非を認め、諸手をつけて謝った。
ろくな思い出ではないが、時間が経てばそれなりに味のある思い出になるらしい。時速十キロ、急な坂を登りつつ、キセルの旅を思い出し、一人ニヤニヤした。
霧島の山々は見えなかった。道の先に韓国岳が見えるはずだったが雲しか見えなかった。
この道は霧島バードラインというらしい。終点はえびの高原で県道一号線にぶつかる。
道に鹿の集団がいた。野生の鹿は一目散に逃げるが、観光地の鹿は奈良の鹿みたいに逃げない。寄ってきたので、叫んで威嚇したところ、冷たい目であしらわれた。嫁と向かい合ってるみたいで何だか悲しくなった。
えびの高原はミヤマキリシマが満開であった。鮮やかだったので少し歩いたところ、カップルの写真を十枚くらい撮らされた。日曜という事もあって観光客が多かった。
霧島の尾根を境に宮崎から鹿児島になる。日向と大隅の国境であるが、こちらは比較的良い関係だったのではないか。今もこの近辺は霧島という観光資産を共有し、仲良くやっているように思われる。
薩摩に入った。入った瞬間、私はアイドルの事を思い出した。山口百恵ではない。Mちゃんの事である。十一年も会ってないが、彼女はどういう人生を送っているのか。
NとMちゃんは、たまに会っているらしい。Nの情報によると今も独身で何も変わってないという事であるが、Nの変わってないと私の変わってないは違うだろう。私の中のMちゃんはカタチが消え、青春の光と化している。せっかく鹿児島まで来たなら会いたいとも思うが、会う事は恐ろしくも思える。その点、雑誌に載った山口百恵を見なかった事と何ら変わりはない。
道は長い下りである。左に大浪池や新燃岳の火山湖があるはずで、霧島の美しさは火山湖にあるだろう。馬鹿と煙は高いところへ行きたがる性質があって、私は登山が大好きである。全国各地色々登ったが、新燃岳から見た火山湖がベストオブ火山湖に思える。むろん道から火山湖は見えず、山のカタチすら見えない。
一気に下った。下りながら硫黄の匂いを感じた。硫黄の香りに仙酔峡を想った。仙酔峡に阿蘇を想った。故郷の匂いであった。
故郷というものは上書きされるものらしく、私の里は山鹿という温泉街の外れであるが、その風景が薄れ、阿蘇に上書きされつつある。
(消え果てるかも?)
そう思うが、やはり原風景は根深いものはあるらしく、幼少を共に過ごした不動岩という巨岩が全く消えない。巨岩を見るたび不動岩が浮かび、それをトリガーとして山鹿の風景が想い出される。ただ、その風景と実際の風景は違っていて、二十年以上の開きがある。今の時代、十年一昔だから故郷が変わるのは当然であって、変わっているから新しい風景を欲すのかもしれない。その点、山深い手付かずの山村を故郷に持てば一生モノになるだろう。
霧島神宮に着いた。大隅の一の宮かと思っていたが、そうではないらしい。が、社格は官幣大社となっているから、格付け大好き神道の目線でゆくと超大物である。
章の冒頭で書いたキセルの旅で、十九歳の私は霧島神宮門前に泊まった。十三年ぶりだが何も変わっておらず、その時の宿もその時のまま、ちょこんとそこに座っていた。
記憶というのは勝手なもので、官幣大社の記憶はないが、呑み屋の記憶は鮮明にある。歴史の格付けは記憶に無縁らしい。
十九歳の私は食堂のような呑み屋で焼酎を呑んだ。今でこそ芋焼酎は全国を席巻しているが、当時の熊本では芋を呑むのは邪道とされた。肥後と薩摩の関係が時代のフィルターを通し、蒸留酒の争いに飛躍したのかもしれない。米と芋の争いは実に熾烈であった。
「芋だけは呑むな!」
大人も先輩もそう諭し、私も後輩にそう諭した。県境の人吉では更に熾烈であって、球磨焼酎の製造元として街を挙げて芋焼酎に喧嘩を売った。芋焼酎はスナックにも居酒屋にも置いてなかった。それは鹿児島も同じ事であって、若い私は普通に焼酎を注文した。米のつもりであった。むろん芋が出た。
「うっ!」
出てきた瞬間、臭いに圧倒された。一昔前の芋焼酎はもっと臭かったように思われる。半径一メートル以内にそれが近付いてきた場合、すぐに分かった。
「米はなかですか?」
若い私は馬鹿であった。その言葉を鹿児島で吐いてしまった。店がチェーン店ならいざ知らず、よりによって食堂風の古い居酒屋であった。
「ないっ!」
物凄い形相で叫ばれた。その後、二人は放置された。が、二人の熊本弁を聞いていると我慢できなくなったらしい。店主と客が若い二人を取り囲んだ。
「肥後から?」
熊本と言わず肥後と聞くところに深い怒りが滲み出ていた。店はオゴリという事で芋焼酎を出してくれた。夏なのに熱燗であった。日本酒を呑むかのように白い徳利が出てきた。徳利に「薩摩」と書いてあった。
(やばい!)
そう思ったがもう遅い。既に友人は挙動不審であり、逃げ出すタイミングを窺っていた。
猪口を渡された。薩摩猪口というらしく、下が丸くなっていた。置けないため、次々に返杯し呑み続けなければならない。芋焼酎が稀な上に熱燗という飲み方も稀であった。
「すいません、じゃあ一杯だけ」
「そう言わず何杯でも」
薩摩の老いた二人は肥後の若い二人を酒のつまみにした。店主と客は裏で話し合ったに違いない。私の友人Oは秀才だが酒が弱い。すぐにダウンした。
夜は長かった。結果として、この夜のせいでキセルという青春の汚点が生まれるのだが、その陰には意外に美味い芋焼酎があった。かなり呑んだ。更に話し込んでしまった。二人の薩摩老人は話せば良い人であった。こちら肥後二人も気に入られたに違いない。両者とも根深い教育によって身構えていたが、蓋を開ければ合うのは合うし、合わぬのは合わぬ。結局、人の問題らしい。
それから数年後、断固として受け付けなかった芋焼酎が国境を越えてやってきた。芋焼酎は肥後を通り越し、日本全国に行き渡り、薩摩だけの飲み物ではなくなった。モノが発する原理に勝るものはないらしい。何百年も芋を拒否した肥後人が今では普通に芋を呑んでいる。製造元の人吉だけは違うだろうと思ったが、当たり前のように芋と米が並んでいた。均される時代の象徴かもしれない。
私は回想と共に境内を歩き、霧島神宮の本殿に達した。
霧島神宮の由緒を読めば色々書いてあるが、それは後世の後付だろう。古くは山岳信仰の象徴だったと思われる。以前はもっと高い場所にあったらしい。それは阿蘇に関する信仰も同じで、古い信仰は危険な場所を望んだ。が、人が立派なものを欲しがり、建てるようになると安全な場所に下りてきた。確かに霧島神宮は立派である。本殿も社務所も煌びやかなまでに立派で、こういうのは噴火口近くに建てるべきではない。
賽銭を投げ、赤い本堂を観察していると写真を頼まれた。女性三人組であった。鹿児島弁であり、まろやかであった。焼酎も言葉も薩摩は実にまろやかで、角が立った肥後の心を大いに癒す。
Nは肥後に住んだ上で「肥後の女性が合わない」と言った。私は薩摩おごじょを嫌いと言えない。知れば知るほど好きになっているが、それは住んでないからだろう。地に溶けた瞬間、息苦しさを覚える可能性もあって、そういうのは根を張ってみらねば分からない。
霧島神宮から国分までは県道60号線が延びていた。地形を見る限り、古い時代の道であろう。緩やかに下り、日豊本線を越えた辺りで小さな峠があった。霧島峠というらしく、景色が見事であった。
海というものの最も美しい姿は峠越しに見るそれではないか。霧島峠の場合、眼下に国分の街があって、その先に錦江湾がある。錦江湾には桜島が浮かんでいるはずだが霞んで見えなかった。
Nは国分のどこにいるのか、それを聞かずに飛び出したため、国分の街を見下ろしながら電話を入れた。話を聞きつつ地図を追った。国分寺のそばであった。出発前に調べたところ、今現在国分寺跡は住宅街になっていて、国府の余韻はないらしい。律令制の名残など期待する方が馬鹿だが、それを潰した住宅地にNの住まいがあるというのは、旅情を盛り上げるには打ってつけである。
霧島の余韻というべき緩やかな下りで錦江湾に向かった。街に入った。街の中で見覚えのあるスーパーを発見した。クッキーという地元のスーパーで、それを見た瞬間、鹿児島の思い出が噴き出してきた。
Nは何度か鹿児島コンパを開いてくれた。キャンプをした事もあり、その買い出しをこのスーパーでやったように記憶している。鹿児島の女性は右も左も可愛いと思ったが、決してそうではなく、やはりアタリ・ハズレもある事をこのキャンプで知った。
ちなみに鹿児島コンパは合計三回である。初回は冒頭で書いたMちゃんコンパである。これに味を占め、Mちゃんにフラれてからも鹿児島開催を頼み続けた。が、二度目の記憶が私には薄い。キャンプに行ったが、Iという友人が酔った女性に絡まれ、耳をカプカプ噛まれていた。そういう思い出しか残っていない。
三度目の印象も薄い。Nに新しい彼女ができたので埼玉から見に行った。暇だったのだろう。ついでにコンパを開いてもらったが、その記憶が全く残っていない。しかし一つだけ鮮明なものがあって、国分に天降川(あもりがわ)という流れがある。呑んだ翌日、その川を上って滝を見に行ったが、その時に見た天降川の印象が強烈で、まさに霧島という神のエキスが流れている感じであった。
時計を見た。午後六時を回っていた。寄り道をする時間はなかった。一直線にN宅へ向かい、表に出ていたNに発見された。
Nは笑っていた。手にはカメラを持っていた。
「カブとは聞いてたけどミカン箱も乗ってるねぇ! むふふ、笑える!」
笑いながら写真を撮り、撮った後、私とNは共に技術屋の端くれとして本田宗一郎の素晴らしさを称え合った。二万円で買った二十年モノのバイクが四リットルのガソリンで九州山脈を縦走したのだ。何が凄いってバイクが凄い、一日を捧げ、尻の痛さを我慢すれば誰でも阿蘇から鹿児島へ行ける。
「さ! 行こう!」
Nは私の呼吸が分かっていた。私を捕まえるや、間髪入れず街へ飛び出した。
「何が食べたい? 肉、魚?」
「魚」
「じゃ、焼き鳥屋へ行こう」
意味不明だが、国分の焼き鳥屋には美味い魚があるらしい。
歩きながらNが言った。
「Mちゃん呼んだけど来れないんだって」
Mちゃんという響きに、私の足はうっかり止まってしまった。永遠のアイドルゆえ、礼が必要であり、直立不動の姿勢で霧島に一礼すべきであった。が、来ないという。ガッカリした。ホッとした。でも少しガッカリした。
午後七時、阿蘇を出て時計が一周していた。疲れていた。三十路を二つも越えた既婚者として、サッサと呑み、サッサと寝るべきだったが、鹿児島という場所は深酒を誘うらしい。この日も午前様になった。
続きを読む
【大雑把な地図】を見る