悲喜爛々24「決断まで」

 

1、約束

 

「五年間は埼玉を離れません。約束します…」

俺は、珍しく真摯な態度をとりながら、義父と酒を酌み交わした。

真摯にならざるを得ない、その状況は、嫁・道子をもらうため、春日部のご両親へ挨拶に出向いた『その時』であった。

着慣れないスーツで身を包み、義父になる『その人』と正対した俺は、手に汗をたっぷりと握りながら、

「結婚させてください…」

その言葉を放った。

義父は狼狽する様子もなく、義母と何やら目で意志の疎通をはかると、いつものように抑揚のない話口で、

「認める…」

言い、続けて、

「だが…、時期が早すぎるなぁ…」

ボソリと付け加えた。

確かに、義父の言う事も頷ける。

俺と道子は五月に出会うや、その翌月から付き合い出し、年度内には結婚の約束を交わした。

そして、この『親への挨拶』も年度内に済ませようとしているのである。

義父は言う。

「姉ちゃんも出て行ったばかりだし、続けて道子にも出て行かれると寂しくなるよ…、ちょっとだけ…、半年でいい、待ってくれんか…?」

俺と道子が提案した結婚の日は、これより四ヵ月後となる四月であった。

道子の姉は十一月に結婚している。

つまり、この家からすれば、二人っきりの娘が半年の間に出て行くことになるわけだが、俺にしても、

(引くに引けない事情が…)

あったのである。

これは後々、自分に文章力がつき、

(今なら書ける…)

そう思った時に書こうと思っているのであるが、今の俺では書くに足りないため、この話の中では伏せておく。

さて…。

この問答の末、結婚式の日は五月末から六月頭という事に決まった。

当然、雑多な約束事を義父と幾つも交わし、その中で、

「福山君は、いつまで埼玉にいるつもりかね?」

そういう質問があがった。

義父は、俺と会った瞬間に、

(こやつは埼玉に残る人間ではない!)

と、看破したに違いない。

俺は、

(え…!)

動揺しつつも、表は冷静を装い、五年間は離れないという前述の回答をするに至った。

この五年という期間には、根拠も予定もあったもんではない。

単に、

(それくらいは、いるかな…?)

思って吐いた一言であった。

義父は何度も何度も頷くと、俺にビールを注ぎ、

「五年か…」

呟きながら、チラリ、義母を見やった。

少しの沈黙が流れ、俺は、冷えたビールをくいと一息で飲んだ。

ストーブで生温くなった空気が、何ともいえない重みをもった。

と…。

義父の口が動いた。

「福ちゃん…、道子を、よろしく…」

俺は、一瞬だけ道子と目を合わせると、すぐに義父へ視線を戻し、

「こちらこそ…」

深く、平伏したのであった。

 

 

2、年月

 

義父の命日は五月七日となった。

実に…。

結婚式の二十日前という日であった。

前章で述べたように、この事に深く触れはしないが、俺の人生の中で、この時ほど自分自身を叱咤した瞬間はない。

(動きが鈍い、馬鹿か俺は、こんちくしょー!)

泣くよりも、怒りでその身を震わせた事を、今でも鮮明に記憶している。

とにかく…。

義父不在で、俺と道子の結婚式は執り行われた。

それから…。

安寧たる日々の暮らしが続いた。

その詳細は日記や悲喜欄欄に書き綴っているが、実に有意義なもので、

(時間を無駄に使った…)

そう思う事が極めて少ない。

サラリーマン生活も、変わらず平社員ではあるが、確実に、

(駄目なところも良いところも含め、何かが分かってきた…)

その実感がある。

時は…。

入社して丸五年が経っている。

ちなみに、同期は三十人強いるのだが、環境が何一つ変わっていないのは俺一人となっていた。

うちの課が俺を放さないのか、それとも貰い手がないのか、それは定かでないが、俺は『不動の席』に座っている。

今年も来年も、それは変わりそうにない。

「九州に行きたい」

「営業に行きたい」

別に強い希望ではないのだが、

(三年に一度くらいは変化が必要だろう…)

思い、呟くが如く上司に投げた。

もし、これが通れば、義父との約束を反故にする事となるわけだが、申し訳ないことに、

(会社の都合で転勤なら、道子も義母も了承するに違いない…)

そう思っていた節はあった。

ゆえに、出し続けた。

が…。

それは通らなかった。

半年に一度、道子と結婚してから計六回、上司に出した希望は、その耳に留まる事なく流され、毎年毎年が同じ席で同じ仕事で始まっていった。

「あー、今年も飛ばされんかったー、ちくしょー!」

言うが、別に今の仕事に不満があるわけでもない。

むしろ、

(やり甲斐のある仕事…)

と、さえ思う。

内容は、製造ラインの設計・調整、生産設備の設計、設計部門と現場の橋渡しであるが、実におもしろく、手に職も付く。

特筆すべき点は、設備というものは製品と違い、『いたずら心』もふんだんに盛り込めるというところにある。

例えば、全自動旋盤の電機設計を担当したのであるが、それなどには秘密スイッチを設け、それを押してしまうと電源を落とすまで『俺と道子の馴れ初め』が操作画面に流れ続けるようにした。

また、この旋盤は俺の誕生日の日とクリスマスの日には『特別モード』で動くように設定されており、その日は電源を立ち上げると特別な動作で動き出す。

最初、俺の誕生日に『その動作』を目の当たりにした作業者は、

「機械が暴走した!」

焦り声で、緊急の一報を入れてきた。

駆けつけたところ、ハッピーバースデーの曲に合わせて踊っているそれであった。

現場は困惑したが、これほど自己満足できる仕事はなかろう。

「うんうん…、これは、俺の誕生日を設備が祝っているんですよ」

俺は、誇らしげに笑ったものである。

また、設計開発部門と現場の間に立った職場のため、頻繁にもめる二つの言い分が、

(なるほど、よく分かる…)

立場でもあった。

両者とも、自分の組織のエゴを通すため、躍起になって奔走し、ひどいところになると裏工作まで始める。(自分の職場も含め)

その脇では、その争いを腕組して傍観し、

「勝ち残ったところに組するのが得策じゃ」

と、言わんばかりに両者に通ずるところもある。

俺は、何食わぬ顔でそれらを見ながら、

(まるで、戦国時代みたいやね…)

そう思った。

毎日のように、どこかしらで小競り合いが勃発し、誰が集めるでもなく自然と派閥・学閥ができあがる。

織田信長が倒れた時のように、大きな人物の挫折がキッカケで、それらの構成は大きく様相をくつがえす。

その規模が大きいか小さいかは別にして、

(人間って、それの繰り返しやね…)

そう思うと、何だか情けなくなった。

が…、それらがないと組織というものが成り立たない事も重々承知している。

二年ほど前からであろうか、

(ならば、俺くらいは…)

俺に、その思いが生まれた。

それから…。

首切り覚悟で、組織人らしからぬ仕事のやり方に取り組み、事実、

「俺は、ひとには味わえないサラリーマン生活を送ってきた…」

人様がどのように思っているか知らぬが、現在に至っても『その自負』がある。

当然、

「社会人として恥ずかしくないのか!」

と、ほうぼうから怒鳴られる事となる。

これに、

「はい、まったく恥ずかしくないです!」

俺は、胸を張って返すよう努め、自らが愛してやまない『釣り馬鹿日誌・浜ちゃん』を目指し、邁進した。

そんな中…。

俺は、文章学校へ通い始めた。

一年半前の事である。

元々、文章を書くというか、話をする事が、

(飲む事と同じくらい好き…)

だった俺は、そこへ入り、先生から教えを受ける毎に、

(なんとか、モノになるかもしれん…)

その思いを高めた。

試しに小さなコンクールなどに応募してみたら、ちょこんと賞もとった。

学校の前半は講義形式で、色々な先生が現れる。

学校が終われば、そのまま飲みへ流れる。

そこで、先生が先生と呼ばれるまでの過程を聞くわけだが、その大半が、

「夢を捨てきれずにしがみつき、やっとこさ咲いた遅咲き…」

であった。

そりゃ中には天才がおり、ドーンと一発で成功の人間もいる事にはいるが、そういう人間の話は心に染みない。

その代わり、前述の先生達の言葉は、胸の奥まで染み渡るものがあった。

この中にあり、暴れん坊将軍の元脚本家(現在は小説家)をやっていた先生が、

「君は、一つ間違えば、超大物になるかもしれんなぁ…」

呟くが如く、言ってきた。

その時、

「ポンッ!」

俺の中で何かが弾けた。

俺は、先生の手をきつく握り締めると、

「先生のその言葉、信じて突き進みます」

そう言った。

先生は酒を飲みながら笑っていたが、俺の真顔を見るにつけ、

「あ、いや、そんな甘い世界じゃないし、一筋縄ではいかんだろうが、間違えればという話だからな!」

急に俺のやる気を制し始めた。

「福山君、君の文章は目線が人と違っていて、どことなく特徴的だから間違えはあるという意味だぞ!」

「む! 特徴的ですとな!」

「特徴はあるが、それが人様に受け入れられるためには並々ならぬ努力がいるし、それに強力な運がいる。俺は絶対にいけると言ったわけではないぞ、間違えがあれば行けると言ったんだからな」

「頑張ります!」

「なんか、お前は、すぐに動きそうで怖いなぁ…」

「でも、動かない事には道は開けんでしょう」

先生はその後も、この業界の門口が狭まっている事、あまり金にならない事などを言いながら、俺の奮い立ったそれを静めようとしたが無駄であった。

「金はいいんです。ただ、最も燃える仕事がしたい」

言う俺に、

「そうだな…」

先生は、焼酎を飲みながら何度も頷き、

「俺もそういう時期があったな」

そう言ったのであった。

 

 

3、道子の説得

 

人が短所と言おうとも、俺は長所と思っているのだが、

「思い立ったが即行動」

この時期、これが顕著に出た。

俺は、文章学校の卒業と同時に会社を辞めて、

(書きまくる!)

この思いを決めると、道子に見られないように毎度の計画表を作った。

学校が終わるのが五月であったため、

(ま…、年内…、それも早いうちに会社を辞めて…)

そういう計画である。

が…、書きながら、

(そういえば…)

と、思い出した。

亡き義父との約束を…、である。

入社してより丸五年は埼玉を出ないとの約束であったため、来年の三月まで動けないのである。

(これは、道子を説得する以前の問題だな…)

さすがに亡くなった義父と『道子を貰い受ける条件』として約束した事なので、

(文章を書くという理由で反故にするわけにはいかん)

それは思った。

ゆえに、その場で計画表を破り捨て、翌四月に会社を辞める計画を再度練った。

時は、まさに夏、去年の七月であった。

それから俺は、道子に退社を臭わせはするものの、正式に話をするわけでもなく年内をやり過ごし、今年に入ってすぐ、一月に相談をもちかけた。

相談といっても俺の中では決定事項で、

(辞める報告をしよう…)

そういう類のものであったが、道子に話す時点で相談になるのであろう。

俺は道子と膝を正して座り合った。

深夜である。

「俺、三月で会社を辞めるけん」

切り出すと、道子は意外にも冷静に、

「そう」

と、返した。

(あらっ…)

俺にしてみれば、まさに吉本新喜劇風にズッコケタわけだが、前々から臭わせていたのだが効いたのであろう。

冷静に話を進める事ができた。

道子の反論は一点。

「三月という時期が早すぎる」

それであり、確かに義父との約束を果たす事になる『その時』が三月ではあるが、

「せめて、ボーナスを貰う六月までは会社にいようよ…」

との事であった。

俺は、道子の説得に相当に骨を折る覚悟であったため、

「それくらいの妥協案は飲もう」

という事で快諾し、これにて六月二十日に辞めるという事で決定した。

道子にしても、

「福ちゃんが、長々とサラリーマンをやれるはずがないとは思っていた」

との事であり、

「俺の器がサラリーマンでは収まりきらぬほど大きいから…、という意味か?」

問うたところ、

「毎日毎日、五時で帰って、会議も便所へ行くと言って抜け出したり、会社の機械にイタズラをしたり、そんなのでよく会社が雇ってるなと思うよー」

との事であった。

ガッカリ…。

さて、それからの話し合いが実に長かった。

辞める事が決まったならば、芋づる式に『決めねばならぬ事』が発生する。

それは、

「その後はどうするか?」

その事である。

もちろん、前々から辞める事を決めていた俺は、しっかりと計画を練ってある。

道子にチェックしてもらう形で、それを語った。

まず、今より月給はグッと減るが、出版社へ入る道がある。

地方の出版社である。

もちろん、社員ではない。

最初は、仮契約というバイト待遇からスタートである。

クリエイティブな仕事というものは、たいていが一年間のお試し期間を経て、それから契約という運びらしく、その期間は、極めて安い月給で死ぬほど働かされるらしい。

つまり、ふるいにかけるのだ。

ゆえに、俺も家族も一年間は節約生活を営まねばならない。

この入り口に乗る足掛かりは確保してある。

が…、その足掛かりの人が言うには、

「出版社へ入ってしまったら、そりゃ文章は巧くなろうけど、小説なんて書けないよ」

そういう事なので、

「失業保険が出終わるまでの期間、ひたすら文章を書かせてくれ!」

つまり、一時は、仕事もせずにプー太郎の状態でいさせてくれと、道子へお願いしたわけである。

俺の中では貯金も少なかろうから、この期間は、

「共に、貧乏生活の中で幸せを見出そう」

それを願うものであったが、道子は何食わぬ顔をしている。

もっと、

「えー、勘弁してよー!」

「うそー、死んじゃうよー!」

なぞ言うかと思ったら、へっちゃらの様子で、

「うん」

首を縦に振った。

聞けば、貯金がないと思っていたのは主人だけで、俺から言わせれば、

「一年は楽に暮らせる」

貯金がそこにはあった。

道子は、俺にその残高を見せながら、

「じゃあ、来年の四月には就職するって事だね」

言いながら、何かを考えている素振りを見せた。

俺からしてみれば、道子がコソリと貯め込んでいた貯金は『地獄に仏』『棚からぼた餅』である。

「あああああ! すげー!」

叫ぶと、

「よしっ、これをもって旅行にでも行こうや!」

言ったものであるが、堅実家の道子は、

「今から物入りなんだからダメー!」

と、その堅実ぶりを発揮してくれた。

(やはり、嫁というものは、日頃、腹がたったとしても堅実家にかぎる…)

つくづくそう思った。

さて…。

次の話題であるが、思案顔の道子の先にあったものがフワリと形になったようである。

「福ちゃんは、いつまで文章家を目指すの?」

その事である。

いつまでも『夢追い人』では困るという、現実家である女なら誰もが案ぜずにはいられない先の事に話題が移った。

これも、俺の中でまとまっている事であった。

春が生まれてすぐに、俺の中で一つの危惧が生まれていたからだ。

(春が小学校へ上がる前までには、どこしらの地に土着せんといかんだろう…)

さすがに、小学校へ上がった娘を連れ、フラリフラリと日本中を旅して回るわけにはいかない。

(後五年以内には、しかるべき地へ腰を据えんといかん…)

この思いがあり、当然、その時には、

(ある程度、安定していないと…)

さすがに、それは思う。

従って、道子の問いかけに、

「俺が、三十になるまでやらせてくれ!」

間髪入れず、そう返した。

道子も、この思いは同じであった事だろう。

表情を変えずに「ふんふん」と小さく頷くと、

「で…、七月からはどこに住むの?」

当然の流れで問い掛けてきた。

(やはり…、そうきたか!)

思う質問ではあったが、これだけが、俺の中で漠然としていた。

まず、前提として、

(関東というか、都会を離れる…)

この思いは、春が産まれた時点であり、それさえ満たせれば、

(まぁ、どこでもいいっちゃ、どこでもいい…)

そんな感じであった。

「子供は田舎でのびのびと育てるもの」

この念が俺の中に、いつの間にか植え付けられていたようだ。

俺のジジババが植え付けたのか両親が植え付けたのか、それは知らぬが、春が産まれた瞬間に、

「田舎で育てんといかん!」

DNAがそう言っており、行動派の宿命からか、瞬間にウズウズしはじめている。

そこへきて、

「文章家を目指す!」

そういう目標をもったものだから加速した。

とりえあず、道子にその思いを伝えた。

結婚してすぐの道子は、

「田舎は旅行で行くもの。住むところではない」

ぬけぬけとそう言っており、事実、

「阿蘇って素晴らしいー!」

涙ながらに叫んでおきながら、

「住むか?」

たずねると、

「えぇー、住むには田舎過ぎるよぉー」

嫌面で返してきた。

だが、結婚して三年、涙ぐましいほどに北から南の田舎へ連れ回し、田舎で育った人間を見せ、田舎の素晴らしさを懇々と説いてきた俺の努力の甲斐あって、やっと、

「うーん、山鹿くらいなら住めるかな…」

言い出してきたのである。

山鹿は人口三万人強の温泉街で、言わずと知れた俺の実家である。

中央は飲み屋街もしっかりしており、大規模なホームセンター等も林立し、熊本市まで三十キロとまぁまぁ近い。

俺に言わせれば、

「山鹿は都会にあたるぞ」

そういう思いであるが、道子がここまで折れた事に感激せざるを得ず、

「そうかぁ、道子!」

と、熱くその手を握らずにはいられない。

この道子が、

(さて、どこへ住みたいと言い出すか?)

非常に興味がある事であった。

そりゃ道子にしてみれば、金もかからず家事も楽になる春日部に住み暮らす事がベストであろうが、それは結婚前からの約束、

「俺は絶対にマスオにならない」

それに反すし、先ほどの前提からも逸れる事になる。

「春日部がいいけど、それは無しとしてぇ…」

道子は、そう呟きながら俺をチラリと見、思案に耽った。

道子の回答はいつまでも出ない。

ゆえに、俺の思いを『提案』として道子に投げかけた。

「俺は、高知か鹿児島がいいと思ってるけど…、どうや?」

文章家(雑誌のライターとかは別)の素晴らしいところは、サラリーマンと違い、田舎でも悠々と仕事ができるところにある。

ネット発達の恩恵ともいえる。

「ダーツで決めるというのもいいねぇ!」

俺は、景気良くそう言った。

「高知かぁ…、鹿児島かぁ…」

道子は唸るような声で提案の地を何度も呟くと、

「高知はカツオでしょ、鹿児島は黒豚…、うーん、どちらかというとカツオがいいなぁ」

意外にも明るく、まんざらでもない口調で目を輝かせ始めた。

「まず、私の中でね、雪国は却下なの。だって、大変じゃん。北に行くんだったら南がいいと思うよぉ」

「うんうん、だったら熊本でもええじゃにゃー」

「それでね、高知も鹿児島もいいけど、二人目もいる事だし、熊本の方がいいと思うんだ」

当時…、道子の腹には二人目がいる。

この翌月には流産しているなど、今の道子が思うわけがない。

ノリノリで言い放った。

「そうだよ、二人目もいるし、熊本がいいよ!」

俺は、道子の実家・春日部で『嫁姑・恐怖の読本』みたいな漫画を読まされ、

(女というものは、男の実家で住む事を極度に恐れている…)

そういう先入観があったため、この道子の発言を、

(実家の近くでアパートを借りるという意味…)

だと思っていた。

が…、道子の話に耳を傾けると、

「だって、アパート代も馬鹿にならないし、福ちゃんの実家だと庭も広いから、春ちゃんもノビノビ暮らせそうじゃん」

何やら、実家へ住むような口ぶりである。

「なんや、お前は俺の実家がええんや?」

聞くと、

「義母さんとだったら嫁姑の問題も起きそうにないし、福ちゃんの就職が決まるまでお世話になった方がいいんじゃない?」

と、意外に恵美子のポイントが高い。

「じゃあ、そう決めるか」

これにて夫婦会議が終わり、第一案がまとまった。

簡潔にポイントを述べると、

・ 退職日は六月二十日

・ 来年の四月には就職する、それまでは無職でよし

・ 七月から熊本に住み、その期間はバリバリと文章を書く

・ 文章家になる夢は三十までとし、その時点で先が見えなければ堅実に生きる

たった一日でこれだけが決まり、例により、その晩に計画表をつくった。

春日部の実家は元より、七月から住むと明言されている熊本でもこの事を知らない。

誰知るところなく、勝手に案は出来上がった。

道子は、午前一時過ぎには床についた。

が…、俺は、計画表を書き終わっても興奮が冷めやらず、

(燃えた! 燃えてきたぞぉー!)

と、その瞳から炎を発しつつ、うっとりと星を見たりして過ごした。

七月からは、坪単価三万円だが三百坪弱ある山鹿へ帰り、書斎として一部屋をあてがってもらい、

(書いて書いて、書きまくるぞぉー!)

鉛筆をクルクル回しながら、その様な事を思った。

しかしながら…。

今、これを書きながら思うに、

(あの晩、四時間も燃えているくらいだったら文章でも書けばよかった…)

そうなるが、あの時は書けなかったし眠れなかったし、燃えている俺に満足していた。

結局、午前五時、新聞配達のおじさんから手渡しで新聞を受け取り、

「早朝より、ご苦労さんです!」

爽やかにそれを言ってから床についた。

行動派の俺は、この時既に今週の予定を決めている。

(すぐ、辞表を提出する!)

足取りは…。

非常に軽いのであった。

 

 

4、年休闘争

 

灼熱の晩に書き上げた予定表の大部分を成しているのが、

「執筆予定表…」

である。

これは、退職する六月二十日までの執筆予定と年休消化を一枚の表に載せたものであるが、書きながら、

(ま…、この予定表通りにはいかんだろう…)

そう思った。

残っている年休を全て『消化年休』として組み込み、四月中旬から五月いっぱいまでは年休消化で出勤せず、バリバリ執筆活動に従事する計画だったからだ。

まずは、会社の規約を読みあさった。

(うん…、いちおう休みは消化して良さそうな感じで書いてあるな…)

思うものの、上司との相談に一任するという臭いもある。

(交渉し、できるだけ多くの年休を頂き、限られた期間に多くの書き物を残さんといかん…)

俺は、その事を思い、夕刻には辞表を包む和紙を購入し、筆ペンまで揃えた。

二月頭に入った。

準備を万端に整えた俺は、重量感のある和紙を抱え、課長の元へ飛び込むべく席を立った。

既に、和紙を購入してから三日が経過している。

課長と会う事が朝礼時以外になかったのだ。

俺は五時で帰るし、課長は定時内には、ほどんど席にいない。

ゆえに、渡さずじまいで引き出しに辞表を眠らせており、ふと、その課長の姿を見た瞬間、

(あ、そういえば!)

眠っていた辞表を取り出したのである。

「話があります」

俺は、流れるように言い放つと課長席前に飛び込んだ。

課長は、瞬時に訝しげな表情をつくった。

俺から課長に話し掛ける事など、飲み会の時以外にはないからである。

間髪入れずに俺の口が動いた。

「俺、会社、辞めます! よろしくお願い致します! これ、辞表です!」

声がでかかったため、周りの同僚が俺に視線を集めた。

課長は、その反応を見渡すと、露骨に『あわただしさ』を面上に浮かべ、

「ちょ、ちょっとお前、こっちに来い!」

と、密室である会議室へ俺を連れ込んだ。

課長の第一声は、

「お前…、そういう事をいきなり言うなよぉ…」

であった。

その後、お決まり事ではあろうが、

「考え直す気はないか?」

社交辞令ではあるかもしれないが、そう言ってくれ、

「え! 俺を引き止めてくれるんですか?」

俺が笑顔で聞いたところ、

「も…、もちろんだとも…、お前がいなきゃ、なぁ…」

苦しそうにそう言ってくれた。

正直、それは嬉しかったが、課長の額に浮き上がる汗を見るに、

(いっぱいいっぱいの世辞だな…、だが、世辞でもありがたいものだ…)

そう思った。

結局、その時、辞表は受け取って貰えなかった。

立派な和紙に包んだ辞表を用意したのであるが、A4紙切れ一枚の決まったフォーマットがあるらしいのである。

組織が何でも標準化されるのはISO始まって以来の常だが、最期の辞表まで標準化されていようとは思いもしなかった。

(味気のない事よ…)

つくづく、そう思った。

その後、俺は総務へ走り、その紙を取り寄せ、その日の内に書き上げて提出した。

小さな社会から飛び出す、その『宣言書』は、実に呆気なく俺の手元を離れた。

辞表受理の瞬間である。

それから、雑多な決め事を行わねばならなかった。

この章の冒頭に書いた、年休消化の決め事や引継ぎの話である。

窓口は係長であった。

係長は、俺が提出した年休消化予定表を見るや、

「話にならん…」

そう罵倒すると、

「この計画表は、社会人としての資質が疑われる」

そこまで言い放った後に、あめと鞭の『あめ』なのであろう。

「そもそも、福山君には辞めて欲しくない」

そう言ってくれた。

が…、あまりにも前の言葉が高圧的で有無を言わせぬものであったため、腹がたち、

「じゃあ、総務を入れて話しましょう!」

と、こちらも喧嘩腰になった。

醜い話ではある。

が…、俺が、

「話し合う余地があるでしょう。正直、俺もこの予定表通りに取得するつもりはないです。話し合いで妥協点を見出したいんです」

言っても、

「話し合う土台に乗ってない!」

という返答だったため、仕方なく課長を交えて総務へ駆け込む運びとなった。

総務の回答は、

「年休は付与された時点で使う権利が発生する。そういう問題は、上司と部下で仕事の折り合いを見ながら解決してくれ」

という当たり前のもので、俺も、

(まさしく、その通りだ…)

他人を巻き込む問題ではないと思った。

非常に恥ずかしかった。

が…、それなりの効果はあった。

俺は、この極限状態の前に、何度も何度も表を訂正し、

「これだけ取得日を減らした、どうだろう?」

と、相談している。

上司は、これを頑として受け付けず、結果、総務へ駆け込む事態となったわけだが、この後に提案した最も消化日数の少ない予定表で、

「承諾しよう…」

そう言ってくれたのだ。

それは、最初の予定日数の半分にも満たない、俺にとっては『寂しい結果』に終わったわけだが、

「お前の粘り強さには負けた負けた!」

と、最後は明るく決着するに至った。

途中、

(うわぁ…、遺恨を残す形で終結したら嫌やなぁ…)

思っていただけに、まぁ、結果オーライというところだろう。

とりあえず、結果を報告すると…。

四月から六月まで『基本的に三連休』を勝ち取った。

それに、ゴールデンウィークと引っ付けて、二十三連休という中規模スケールの休みを頂いた。(消化十日)

本来の予定では、退職までに五本は書きたいところであったが、十日で小説一本として、六月までに長編小説三本は書き上げたいところである。

これを全てコンクールへ出し、もし全て賞が取れれば、

(俺の年収くらいはいくな…)

その思いは過ぎるほどに楽天的なのであるが、こういった踏ん切りをつける時というのは、

(それくらいの方が丁度いい…)

妥結した年休予定表を見ながら、そう思うのであった。

 

 

5、血

 

悲喜爛々23でも書いたが、春の誕生日会という事で、富夫と恵美子が埼玉にやってきた。

無論、熊本からである。

「七月から熊本で住もう」

これを決めた俺と道子は、それを伝える日を、春の誕生日会の日と決めた。

もちろん、伝えてもいないのだから、これは俺達が勝手に決めただけで、

「来るな!」

と、富夫に一喝される可能性はある。

だが、

(多分、大丈夫だろう…)

そう思っているし、

(駄目だといわれたら、それこそ話を鹿児島や高知へ移そう…)

軽いノリで、そうも思っている。

富夫と恵美子が埼玉は俺の住む社宅に来たのは、三月十四日金曜日であった。

この日、俺は六本木で文章学校がある日で、会社から帰り、親と三十分ほど話すと、すぐに六本木へ出かけた。

学校の後は前述のように飲み会があるのだが、

「今日はちょっと…」

と、珍しくキャンセルし、ダッシュで埼玉へ戻った。

社宅へ帰り着いたのは、午後十時丁度くらいである。

春だけが眠ってい、他は全員起きていた。

俺は、遅い晩飯を頬張りながら、実父である富夫とビールでカンパイし、おもむろに、

「俺、会社、辞めるけん」

そう口走った。

富夫の食いつきは浅い。

が…。

これに、烈火の如く食いついた女がいる。

実母・恵美子である。

「んなこんね? んなこんね?」(本当ね?という意味)

台所にいたくせに跳ねるように居間に飛び込んでくると、俺の話に全身全霊を傾けた。

俺は、既に辞表を提出した事を語り、それから一時は文章を書きまくるつもりである事を手短に説明し、続けて、

「これにあたって、熊本に帰ろうと思うんばってんがよかろか?」

と、問うた。

情熱のリアクションを誇る恵美子は、俺の話にいちいち、

「きゃー! んなこんね!」

とか、

「あー、たまがったぁ!」(驚いたの意)

などと、仰け反る様相などを呈していたが、最後の質問をぶつけると急におとなしくなり、

「お父さん、どぎゃん思う? 私は、来てもらって嬉しかばってん…」

と、濡れた瞳で富夫を見つめた。

富夫は無言で俺の話を聞いていたのであるが、恵美子に寄られると、

「裕教が決めた事だけん…、なぁ」

そう言い、一呼吸置いて、

「うちに住む分は一向に構わん。ばってんが、春日部のお母さんは、お前が職を持たんじゃ不安だろ?」

言いながら、

(こらぁ、明日の『春・誕生日会』では義母さんと話さにゃいかん)

その思いからか、遠くを見つめるのであった。

ところで…。

義母へは、ここまでハッキリと事を告げたわけではないが、何度も会う内に、会社を辞める事も熊本へ行く事も自然と伝わった。

当然、義母と義姉からは、

「大きな会社を辞めるなんて…、もったいない」

道子伝いにその言葉が伝えられたものだが、文章家を目指すという事は特に問題ではないらしい。

むしろ、義母に至っては賛成の方向らしく、どこまで夢が膨らむのか、

「直木賞の授賞式にはステキなドレスを着て、パーティーに参加するんだわさ!」

恥ずかしいから人前では言わないで欲しいが、そう言ってくれ、夢に対して好意的である。

それよりも、

(道子と春が埼玉を離れる)

それが二人にとっては問題なのであった。

結婚する時点から、必ず九州へ行くと宣言し、徐々にその現実味を増す布石を打っていても、孫、または姪という愛すべきものが生まれてしまっては、

「行ってしまうのねー!」

その叫びは露骨に俺達家族の元へ伝わってくる。

例えば、家に送られてくるメールの最後に、

「熊本行かずに埼玉にいれば…」

露骨を通り越して直球でそう書かれていたり、言動の節々にそれらが顕著に表れていたりと、何だか、

(日に日に、俺が悪者になっている…)

嘆かざるを得ない。

春の誕生日会の時、俺と道子が和哉カップルの馴れ初めを聞くために外出した事は悲喜爛々23で述べたが、その時、富夫は義母と接触している。

後に、義母から聞いた話であるが、必死になって、

「裕教は食い潰しが利くから安心してください!」

それを言っていたらしい。

富夫の好意はありがいたし、普通なら間違いなく『俺の助け』になるものだ。

が…、富夫は、義母との付き合いが浅いために、義母が何に苦悩しているのか、それを量りかねたのだ。

義母の不安の中に、確かに親父の思うところも少しはあったであろう、だが、その大部分を占めるのは、

「遠くなっちゃ春ちゃんと会えないだわさー!」

その事なのである。

幸い、義母は旅行が趣味で、海外にも国内にもバンバン足を運ぶ行動派である。

ゆえに、

「熊本なんて近いもんじゃないですか」

言った事があるのだが、

「気も使うし、気分的に遠いと寂しいだわ…」

呟かれたものである。

道子にしても、

「残り少ないんだから春日部に行くからねー」

とか、

「最後に最高級の旅館に泊まって、名残を惜しまなきゃ」(義母の奢り)

なぞ毎日のように言うし、社宅の奥様衆に、

「みっちゃん、いなくなると寂しくなるねぇ」

言われると、聞こえよがしに、

「だって、福ちゃんが…」

と、道子は言う。

(まいったなぁ…)

残り三ヶ月弱もあるのに、そのプレッシャーはキツい。

今から、ますますキツクなる事であろう。

が…、一つだけ言わせて貰うと、

「熊本がいい」

そう言いだしたのは道子だし、流産してから確認した時も、

「うん、流れたけど熊本へ行こうよ」

笑顔で言い放ったのも道子である。

ま…、これが高知であろうと鹿児島であろうと風当たりは変わらないであろうが、参考までに愚痴ってみた。

しかしながら…。

田舎で育ち、田舎を愛している義母は、春が田舎で育つ事に、

(賛成だわさ…)

そういう思いであろう。(推測)

が…、いかんせん、姉が近くにいるとはいえ、住宅街の一人暮らしゆえに、

(寂しい…)

この思いが先に立ち、言動がそれをはっきりと伝えてくれている。

結婚した男が、最も悩むところに、

「嫁と義母が離れないで困っている」

これがあるという。

一昔前の、

「敷居は跨ぐな!」

そんな言葉は、この時代に見る影もないし、必要もないのであろう。

俺ができる事は、熊本の家、その門口を大きく開け、来てくれる者を気持ちよく受け入れる態勢をつくる事だと思う。

幸いにして、富夫も恵美子も俺を育てただけあり、そこは重々承知しているようだ。

気兼ねせず来て頂きたいと思い、

(こんちくしょー!)

と、俺を恨んでいる方々については、この辺で許して頂きたいと切望する。

ところで…。

俺が辞める事を恵美子と富夫に告げた時、恵美子は衝撃の情報を漏らした。

奇しくも、富夫が大手のタイヤメーカーを辞めた時と、俺の辞める時が同じだったのである。

富夫はご存知の通り、何のあてもなく会社を辞めると、貯めた金を元手に小さなプラモデル屋を始めた。

あてはなかったが、その器用さと社交性で見事に俺と弟を成人させ、現在も夫婦でその小さな店を切り盛りしている。

場所は、山鹿市の国道325号線沿い、松野明美の出身校・鹿本高校の前で、

『シオザキ模型店』

という。

俺は、そんな二人を見て育った。

サラリーマンではない、小さな店を二人で切り盛りする姿を見て、である。

「おー、お前も丸五年で辞めるか…」

昔を思い出しながら感慨深い顔をつくる富夫、

「んー、あの時の選択が正しかったのかどうかは分からんねぇ」

こちらは、苦い顔をしながらも笑顔を見せる恵美子。

俺にも、両親がとったその選択がどうだったのか、それは分からない。

が…、二人を見ながら、

(最もやりたいと思った事があるならば、やらんと後悔する…)

それだけは思った。

福山家の血は、俺の中に脈々と流れている。

(道子と春…、この二人が、後々にこの選択を何と言ってくれるのか?)

それを思うと、何やら楽しげな気持ちになるのであった。

 

(終わり)