悲喜爛々45「奈良から想う」

 

 

1、前段と船路

 

正倉院展が今年も開かれるというのを知ったのは初秋の頃だったろうか。

読売新聞の広告で知った。

俺は新聞をいつもネットで読んでいるのだが、そこに正倉院展の広告が載っていた。

聖武天皇の崩御にあたり天皇遺愛の品々を東大寺に献納、これを納めた場所が正倉院で、その中身は勅封によって守られている。

勅封によって守られているがゆえに人の手に触れられる事がなく、世界でも類を見ないほどに良い状態を保ってきた。

聖武天皇が崩御されたのは手元の資料によると756年。

つまり、正倉院に眠る宝物は最低でも1300年くらいの時を重ねている事になる。

また、聖武天皇は在世中に遣唐使を二度派遣し、唐の文物、制度を採用したというから、あの時代にあってなかなか広い目線をもっておられたようだ。

当然、その嗜好品もシルクロードを流れてきた中国の逸品ばかりで、正倉院がシルクロードの終着駅といわれるのも頷ける。

読売新聞の広告はそれらを簡単に説明した後、宝物の説明というコーナーへ移る。

クリックすると動画を交えて展示物の説明が始まった。

聖武天皇遺愛の碁盤、象牙を研磨した碁石、貝殻などをまぶした煌びやかで悪趣味な鏡…、

「む! むぅん!」

会社の昼休み、時間を忘れ、それらに見入ってしまった。

そして、昼休みが終わる頃には、

「たまらんっ! 行くっ! 行く事に決めたっ!」

そういう運びとなり、会社の同僚十人程度に誘いの声をかけた。

「正倉院展に行くばぁい! まぁ、まぁ、そう言わんとホームページば見てばい! どぎゃん! たまらんどがー!」

猛烈な熱をもって誘うが誰も興味を示さず、唯一山もっちゃんという喜怒哀楽の変化が少ないさっぱりした顔の25歳だけが、

「ちょっと行きたいっすね」

さり気なく興味を示した。

俺という人間はご存知の通り猛烈な寂しがり屋である。

一人で奈良へ行く事は極めて厳しい。

山もっちゃんをターゲットに定め、何度も誘いをかけてみた。

が…、

「やっぱ奈良は遠いっすよ、せめて福岡なら」

と、断られた。

奈良は遠い、確かに遠い。

阿蘇から車で行くにしても十時間以上、電車を使うにしても八時間以上、飛行機を使っても五時間以上かかる。

それに移動にかかるコストも極めて高い。

山もっちゃんを誘うと同時に奈良へ行く交通手段を探し始めた俺であったが、とても上の交通手段にかかる金が道子の財布から滑り落ちるとは思えなかった。

最近は超格安高速バスが出回っていて、それに乗れれば5000円弱で京都へ行ける。

即刻電話をかけたがやはり金曜の便も土曜の便も満席で、空く気配はないという。

ちなみに、高いと書いた上の交通手段でゆけば往復4万円弱かかる。

片道5000円が如何に素晴らしいか分かってもらえるだろう。

格安高速バスの次に素晴らしいのだが船である。

こちらは奈良へゆくまでに17時間もかかるが、往復16000円程度におさまる。

船に乗っている時間だけで13時間もかかってしまうのであるが、そのほとんどが夜のため、しっかり寝れれば苦にならない。

ただ、時間がたっぷりかかるため土日で帰ってくるのは不可能で、土曜に出、日曜に正倉院展、月曜に帰ってくるというプランを組んだ。

むろん、会社は休まざるを得なかった。

(後は一緒に来てくれる人を探すだけ!)

そう思い、社外の友人にも声をかけた。

現在、葬儀屋で働いているKという友人がいる。

彼は俺の誘いを受けると間髪入れずにこう言った。

「ショウソウイン? それ、どこのキャバクラや?」

彼を誘う事は間違いなくエネルギーの空費であった。

即刻諦めたのだが彼の一言から京都で「へ・いやん・京」という名前のキャバクラがあった事を思い出した。

どうでもいいが風俗業界もなかなかどうして、よく考えているという事だろう。

次に九州にいる親族をメールで誘ってみた。

6人ほど誘ったが誰からも返事がなかった。

仕方がないので関東関西にいる友人を誘ってみた。

返事がないか、あっても断りの返事であった。

ホームページの掲示板でも誘ってみた。

(俺が知らん人でもええけん誰か一緒に行ってばーい!)

その思いであったが誰も書き込んでくれなかった。

俺という人物に徳がないのか、それとも俺が思っているほど正倉院は人々の心を揺さぶらないのか。

よく分からぬが、背に腹は変えられぬので、

「最終手段!」

という事で娘の春に声を掛けてみた。

「おっとーと一緒に遠いところへ行くか?」

「行くー!」

「船に乗って、ずーっと、ずーっと行くんぞ」

「ボート乗りたい、ボート!」

「幼稚園も休まんといかんぞ」

「はるー、おっとーと一緒に遊びたいもーん」

「そうか、そうか」

何と無邪気な娘であろう。

メールや口頭で断られまくっているだけにこの反応は極めて嬉しかった。

嬉し涙か悲し涙か分からぬが、ちょっぴり虚しいその涙を拭いつつ、俺は春と二人で奈良へ行く事を決めた。

春は船代も電車代もかからない、それに道子にとっては春がいなきゃ手がかからないという事で何かと大助かり、

「是非、二人で行ってらっしゃい」

父娘二人旅の承認も受けた。

ただ、正倉院展の会場である奈良国立博物館でだけは春を誰かに看て欲しい。

そういう思いはあったので大阪に住む伯母に子守りをお願いしたところ、二つ返事で了解してくれた。

ちなみに正倉院展は期間限定の企画展で二週間しかやらない。

俺が観光日として定めている13日は終了の二日前で更に日曜。

混む事が予想されたが、まさかここまで混んでいるとは思わなかった。

ま、それは後に書く。

とりあえず上の流れで12日の昼に春と二人で阿蘇を出た。

春は車に乗った瞬間にグッスリ寝てくれ、それから大分港までの二時間弱、一度も起きなかった。

寝起きの春にフェリーを見せ、

「ほら、これが今日乗る船ぞ」

説明したが、どうも春が思い描いていた船のイメージと違うらしく、

「これはやだ! ボートじゃない!」

そう言って暴れ出し、フェリーの隣にちょこなんと漂っている小さなヨットを指差し、

「あれがいい」

真っ赤な顔に涙をいっぱい溜めてそう言った。

春はどこで学んだのかは知らないがボートという英語(外来語)を知っていて、それが日本語で船を指していると思っている。

当たらずとも遠からずであるが、

「色々なものが違う」

その事を説明したいのだが、どうも春が分かるようには説明しにくい。

とりあえず大きいのは船、小さいのはボート、そういう区分けにし、

「あのちっちゃいボートは風が吹いたら倒れるぞ。この寒い中、春は泳げるか? おっとーは泳げん、それは胸を張って言える。 ボートが倒れた時、春がおっとーを助けてくれるならちっちゃいボートに乗ってもよかぞ」

そう言ったところ、

「おっきいのがいい」

ピタリ泣き止んでくれ(諦めてくれ)、足早にフェリーへ駆け込んでくれた。

キップはむろん二等船室・雑魚寝であり、まずは場所を確保する必要があったが足早な春が「海が見たいー!」と突き進むので船室へ寄らず甲板へ出た。

大型フェリーの甲板だからその広さはしっかりしたものがある。

春はギャーギャー叫びながら楽しそうに甲板を走り回っていたが、カモメが餌をねだりに寄ってくると「助けてー!」と泣き出した。

出港の時、

「手を振る港の人にサービスをしろ」

春にそういう注文を投げてみた。

春はコクリ頷いた後、海に向かってペロンと尻を出した。

手を振り返す、もしくは投げキッスを求めたのであるが、尻を出すのは過剰サービスであろう。

が…、甲板にいる幾人かの老人たちが腹を抱えて笑っていたため別に止めはしなかった。

大きな大きな海に向かって、まだモウコハンの残る尻を出し、オモチャのチャチャチャを歌う我子を見た時、

「うん、大きく育ってる」

その事を感じる父なのであった。

さて…。

それから船室へ戻るかと思えばそうでもない。

風呂へも入りたくない寝たくもないという春に手を引かれ、甲板から食堂へ移動した。

「カレーが食いたい」

と、春は言う。

食堂の人に聞いてみたがカレーはないらしく、カレーっぽいものがどこかに売ってないかと聞いてみるとカップラーメンのカレー味が自販機で売っているという素晴らしい回答を得た。

春はスイッチがカレーモードになっているらしく、「カレー」を連呼しては床に転がって暴れ出し、

「何でカレーがないのよー!」

食堂の人にまで絡み始めた。

仕方がないので自販機でカップヌードルのカレー味を買い与え、俺はおでんをつまみに一杯やった。

喫煙席はトラックの運ちゃんによる酒盛りで大いに盛り上がっていたが禁煙席は静かなもので春はそこを「運動会」と言いながら走り回った。

長椅子の上に立ち、そこを壇上として、

「モモ組の福山春です。最後まで頑張ります」

何やら選手宣誓のようなものをした後、腹を出してはキャッキャ笑っていた。

禁煙席の客は先ほど甲板で出会った老夫婦だけ。

どうやら春のファンになってくれたらしく、飴などを与えてくれ、

「すいません、騒がしくて」

頭を下げる俺に「いやいや、気持ちがいい子供さんですね」と、実にいい笑顔を返してくれた。

春の運動会は夜が更ける毎にエスカレートしていき、ついには床を転がり始めた。

道子がいれば「何やってんの!」と怒鳴るところであろうが俺は止めない。

求められるがままに飴を与え、俺は優雅に船上のビールを楽しんだ。

一重に、

(早く疲れて寝てくれ)

その思いであった。

それからはゲームセンターでスロットをしたり、船室で寝る事を試みたりの繰り返しで約三時間を過ごし、

「ああ、駄目! 疲れた!」

俺がバタリと眠った後、春も寝たらしい。

十時くらいに起きた時、春は俺の横ですやすや寝ていた。

春の寝顔は本当に可愛かった。

本当に、寝顔だけは仏様のように見えた。

そうそう。

仏様といえば今回の奈良への旅は「仏教」がテーマである。

正倉院の宝物はシルクロード流れであるから仏教色が濃いし、奈良近辺は仏教のメッカでもある。

奈良時代という平城京を首都においた仏教文化にも興味がある。

遣唐使が初めて出され、新しい文化が日本という国に流れてきた時、そこに住む人々がどういう反応を示したのか?

遣唐使というものが空海や最澄といった大思想家を生み出し、どうもそれが日本人というものの思考、考え方の原点になっているのではないか?

仏教というものは果てしなく広い。

チベット仏教も浄土真宗も広義には仏教だろうが、その質は丸っきり違う。

が…、古いのはチベット仏教で、漫画で読んだ「ブッダ」のように、

「無になれ、無になれ、そうする事で人間らしい豊かな営みがおくれますよ」

最初は日本にもそういう仏教が流れてきたはずだ。

が…、何か大きな変化があり、現在のお経や仏様を神聖視し、それに祈りを捧げる事で「救われますよ」という方向へ変わったはずだ。

その変わり目が空海や最澄で、奈良時代や平安時代だったと思うのである。

司馬遼太郎はその著書「アメリカ素描」の中で文化と文明の違いをこう書いている。

文化は普遍性を持たない個々の風俗・風習で、文明は普遍性をもったもの、つまり、考え方の違う人たちにもスルリと溶け込めるもの。

そして、こうも書いている。(書き方は俺流だが)

「文化は他とは違う独特なもののために、その中に溶け込んでいる人間からすれば安心できる(愛すべきもの)ものらしい」

これらを踏まえ、俺の考える仏教の流れなのだが…。

チベット仏教が日本に流れてきた。

しかし、それは五体投地で示されるように極めて文化的で普遍性の薄いものだった。

チベット仏教では誰もがブッダにならねばならず、猛烈な修業を要す、これではなかなか日本には浸透しない。

そこでもっと取っ掛かり易いようにと空海・最澄あたりが思考を凝らした。

彼等が言うに、

「一人一人がブッダになる必要はない」

ただ、悟りを開いた人が造った「物」や「念仏」に救いを求めなさい、と…。

ここで異国の「文化」だった仏教が馴染み易い「文明」へと変化を遂げた。

仏教が日本に根付くのはこれからである。

空海にしろ最澄にしろ遣唐使経験者だから大陸へ渡った時、似たような思想を目の当たりにしたのかもしれないし、そういう話を聞いたのかもしれない。

しかし、彼等がいなければ日本の思考は各々の氏神を主とした勝手気ままなものだったろう。

そういう意味で空海や最澄がやった事は極めて大きいし、その時代、奈良・平安は日本の思考、その原点を形づくった時期だと思う。

ちなみに、文明は浸透性こそあれ、飽きられやすいし嫌われやすい。

その後、極めて複雑に枝分かれし文化を形成しているが、その内容を読んだり調べたりしてもさっぱり意味が分からないし、そこを勉強しようとも思わない。

奈良へゆくのは正倉院の宝物や東大寺を見、その時代の雰囲気を味わいたい、何かボンヤリとしたものでもいいから掴みたいというだけである。

しかしながら…。

春の寝顔は本当に可愛い。

仏教がこれだけ浸透したのは仏様の顔に「子供の寝顔」を採用した事が大きいのではなかろうか。

「ありがたや、ありがたや」

子供の寝顔は、まさに生き仏に違いない。

フェリーは漆黒の瀬戸内海をゆっくり進む。

目が覚めれば、そこは神戸である。

 

 

2、正倉院展まで

 

六甲アイランドに着いたのは定刻の午前五時過ぎであった。

俺は早寝早起きを日課としているので、それが三時だろうが四時だろうが大した苦にはならなかったが春は苦しかったらしい。

眠った状態で船を降り、そのまま連絡バスへ乗り込んだ。

六甲アイランドは瀬戸内海に浮かぶ小さな人口島である。

連絡バスはその人工島と本土を繋ぐ立派な橋を渡る。

橋の上からは煌々と輝く神戸の灯りが見え、その光は瀬戸内海沿いを伝って延々と続いている。

連絡バスはそんな光の洪水の中をゆっくりと走り、約20分後にJR住吉駅に着いた。

時計を見るとちょうど六時くらいで、東の空がやっと白み始めた頃であった。

春はバスを降りると同時に目覚めた。

電車に乗るや、

「ぶら下がるー!」

と、叫び出し、寝起きなのに手すりにぶら下がり、

「いち、にぃ、さん…」

大声で数え始めた。

一ヶ月ほど前に幼稚園で体力測定があったらしく、その際「ぶら下がり」がクラスで三番目の成績だったという話で、その実力を俺に見せつけたいらしい。(他は平均以下)

早朝ゆえ電車は混んでない。

しかし、ここは関西圏、すぐにおばちゃん達が春を取り囲んだ。

「頑張るわぁ、朝から元気やわぁ」

「ま! おじょうちゃん、肌ツヤツヤやん! おばちゃんにも分けてぇなぁ!」

必死にぶら下がっている春のホッペを触りながら、おばちゃん達は「羨ましいわぁ」を連発した。

春は20秒ほどぶら下がった後で落ちてしまった。

「ほんとはね、もっともっとできるんだよ」

取り巻きにそう言い、後にもチャレンジしたが記録は同じようなものであった。

大阪駅で環状線に乗り換え、鶴橋駅で近鉄線に乗り換えた。

環状線に乗っている時、大阪城が見えた。

大阪城は今でこそ大して広くもない公園の中に建っているが、昔は超広大な敷地を誇っていたらしい。

大阪冬の陣の後、外堀だけを埋める約束だったのが家康に内堀まで埋められてしまい、ついには夏の陣で滅んでしまう大阪城、その外堀がどこにあったのか。

よく分からぬが、冬の陣の前線にいた真田家の奮闘ぶり、それを描いた小説を見ていると「城内なのに天守閣が豆のように見える」と書いてある。

よほど広かったのであろう。

さて…。

近鉄線に乗り換えた後は終点まで同じ電車に乗っていればいい。

ラグビーで有名な花園を抜けた辺りから山が見え始め、電車は上り坂に差し掛かる。

そこを登り終えると生駒であるが、その途中、後ろに大阪の街が見えた。

高台から見ているのでその全容が見渡せるのであるが、起伏のない広い広い平野に隙間なく建物が詰まっている。

「こういうところには住めんなぁ」

嘆こうとしたその時、春が先手を切った。

「水が不味いよねぇ、山がないもんねぇ」

春のその一言に「阿蘇に住んだ価値」が見えるような気がした。

そうそう、ちょっと前にも春に関する「いい話」がある。

乗り換えの鶴橋駅でホームにゴミを捨てている中年がいた。

春はその中年に走り寄ると、

「こらっ、駄目でしょ」

叱責し、続けてこう言った。

「そのゴミは捨てちゃ駄目、でもね、梅干の種は捨てていいの、土にかえるから」

中年は「ごめん、ごめん」と言いながらゴミをポケットに入れたのであるが、梅干の種のくだりには「は?」と疑問の色を浮かべた。

だが、遠めに見ている父親の俺も、そのセリフを放った春も大満足であった。

(うん、うん、地球を愛し感じる心が育っている)

それは俺の満足で、

(みんなが「おー」と言ってくれる事を言っちゃった、おっとー見てるかしら)

それが春の満足であったろう。

福山家は地球人を目指している。

そういう目で見ると、鉄筋で埋まった大阪平野は寒々しい以上に何か息苦しく、

「住んでる人は大変だぁ」

そうなるのであった。

ちょっと話が逸れるが、最近、超田舎者の友人に面白い話を聞いたので書いてみる。

小井出という小学校時代からの友人、そやつの話である。

彼は19で子を産み、現在三児の父なのであるが、山の中から出た事がない。

いや、出た事はあるのだが、

「息が詰まる」

そう言って山に帰ってきた。

彼が言うに鉄筋の中にいると寂しさが倍化され、そして息が苦しくなるらしい。

彼は本当に山の中に住んでおり、「人工的なものが極めて少ない世界」という極々稀な環境で暮らしている。

そういう小井出が友人の結婚式のため、東京へ出たらしい。

式は鎌倉であったらしく、羽田空港から電車で移動というルートだったそうな。

友人三人(同じような境遇の者)で熊本を出、羽田に着いた瞬間、不思議な息苦しさを覚えたという。

友人三人の間にそれから会話がなくなった。

なぜか分からぬが苦しくて苦しくて、いつもは饒舌な小井出の口も回らなかったらしい。

彼は自動改札に投入したキップは必ず戻ってくるものだと思っていたらしく、改札を出る時もひたすらキップの戻りを待った。(関東へ行った思い出としてアルバムに貼るつもりだったらしい)

すると、後ろの人から、

「早く行けよ!」

強い口調でそう言われた。

息苦しさを覚えているところに、なぜか分からない怒りの声。

「怖いところばい、東京は」

「住めん、住めん、こぎゃんところには住めん」

三人で震え合ったという。

だが、羽田を出て横浜を通過し、鎌倉に近付くと山が緑が見え始めた。

それから口数が多くなったそうな。

小井出は言う。

「山がないと俺達は生きられん、その事に気付いた」

彼の言葉には経験から出た何ともいえない切実さがあった。

天然の緑、それを構成する山、それらが彼の体の一部になっていて、失った時にその大切さを感じ取ったらしい。

「おらぁもぉ山から離れられん」

山を熱く語る小井出の目に薄っすらと冷たいものが見えたように思えた。

さて…。

奈良国立博物館の最寄の駅・近鉄奈良駅に着いたのは八時前だったろう。

開場が九時だったので時間はたっぷりある。

伯母も開場に合わせて来るという事だったので、駅前のパン屋で朝飯を食う事にした。

幾つかのパンをチョイスしてレジに並んだ。

春は俺の隣にいる。

そして、何やらモジモジしている。

「どうしたんや?」

聞くと、

「うんこ」

だそうな。

急ぎ支払いを済ませ、春を便所へ連れて行くべく、そのパンの置き場所を探していると、春はよほど我慢できないレベルまで達していたのだろう。

店員を捕まえ、

「うんこ、うんこ」

大声で連呼した。

店員は中年のおばさんであったが、俺が駆けつけるよりも早く春を抱えて便所へダッシュ。

俺が駆けつけた時には便器にしゃがませてくれていた。

店員はニコリ笑うと、

「だてに子供を三人も育ててないよ」

そう言うや便所を出たのであるが、出る間際クルリ振り返り、

「座った瞬間いい音がしたよ、危機一髪」

実にスッキリしたセリフを残していった。

ちなみに、便所から出ると他のお客さんが、

「どうでしたぁ? 間に合いましたぁ?」

と、聞いてきた。

「間に合いました」

そう応えると、

「そりゃ何より」

「朝からいいもん見たわぁ」

「他人事だけど良かったわぁ」

変な具合に盛り上がった。

「うんこ」を連呼していた娘が店員に抱えられて便所へ駆け込んだ、それが間に合ったのか間に合ってないのか、そんな事に興味を抱く関西人が素晴らしいと思った。

(いいパン屋へ入った)

しみじみそう思った奈良の朝であった。

さて…。

朝飯を食った父子は国立博物館へ移動した。

その距離は凡そ1キロあるのだが鹿がたくさんいて飽きない。

春からすればカモメで泣き叫ぶほどであるから鹿ならば尚更である。

寄ってくるたびに断末魔の叫び声を上げ、猛烈なスピードで逃げた。

それが俺には面白く、何度も鹿を呼んでは、

「おっとー嫌い!」

思いっきり叩かれた。

博物館に近付くたび、人は増えていった。

そして博物館を目の当たりにした時、俺は唖然とした。

「なんじゃ? この人は?」

開場30分前だというのに長蛇の列ができており、博物館の前は黒山の人だかりである。

「入館まで約30分でーす!」

そのアナウンスが辺りに木霊している。

博物館といえば空いている時にしか行った事がなく、こんなの初めてであった。

伯母はちょうど九時頃に来た。

入館待ちの列は博物館前で幾つかの往復をした後、博物館の横にまで伸びていた。

「正倉院展って、いつもこんなもんですか?」

旅行が趣味の伯母に問うたところ、いつも多いけどここまではないという話で、日曜だし終了間際だし仕方がないとの事であった。

とりあえず並び、博物館が列を消化するのを待った。

春は予想通り暇で暴れた。

が…、そこは子供二人を成人させている伯母の事、バックから菓子をサッと取り出し、春に与えてくれた。

その後も伯母のバックからは色々なものが飛び出してきた。

「喉が渇きましたね」

俺がそう呟くと日本酒のワンカップが出てき、

「お腹すいたぁ」

春がそう呟くと高級ホテルのクリームパンが出てきた。

ドラえもんのポケットのようなバックであった。

列に並んだ時間は予告通り30分くらいだったろう。

入って展示室へ行き、そして愕然とした。

どの展示物の前にも人間の壁ができていて、それがまたブ厚いのだ。

「見れるんですか?」

「見るのよ」

「見れますか?」

「春ちゃんは私が看といてあげるから、思う存分見て来なさい。わざわざ九州から来たんでしょ」

確かにその通り、これを見るため九州から出てきたのだ。

「よしっ!」

気合を入れて前に進もうとした俺の横を何か黒い影が走った。

大阪のおばちゃんであった。

おばちゃんはモグラのように手を突き出し、重心を落とし、人壁目掛け真っ直ぐに突き進んだ。

「どいて、どいて! 私にも見せてぇなぁ!」

「なんや、あんたっ!」(人壁の声)

「減るもんやないやろ、見せてぇなぁ」

ここは関西、こういうのが山のようにいると思うといささか前に進む気持ちが落ちてしまうが、モグラにならねばいつまでたっても見れないだろう。

「ちょっと見せて。あいたたたたた、痛い、痛い、あ、ちょっと見えた」

ありがたい展示物もこういう風に見てしまえばありがた味が失せてしまうが状況が状況ゆえ仕方ない。

それにしても大阪のおばちゃん達のエネルギーは凄い。

モグラ式に人の壁を突き破り最前列まで行くと、そこに集団で陣取り、

「綺麗やわぁ」

「癒されるわぁ」

「うっとりやわぁ」

心の底から楽しんでいる。

それでいて、後ろからモグラが現れると、

「痛い! もうちょっと待ってぇな!」

大声で暴れ出す。

さすがであった。

ま、それは見習えないにしてもそれに近い強引さを持たねば見るものも見れない。

春を伯母に任せ、ピョンピョン跳ねたり潜ったりしながら会場を移動した。

(これならインターネットで見た方がしっかり見れる気が…)

ふと、そう思ったがそれを言ってしまっては何のためにここまで来たのかという事になる。

伯母と子守りを交代しながら、約二時間、宝物と人の濁流を楽しんだ。

正倉院展のメインである聖武天皇遺愛の碁盤はさすがに良かった。

ここだけは大阪のおばちゃんに負けじと前に突き進み、たっぷり時間をかけて見た。

中国の宝物というのは精巧さを競うようなきらいがあるが、これもまさしくその流れで、実に精巧。

小さいところを見れば見るほど凄まじい細工が見て取れた。

また、碁盤とセットの碁石もいい。

象牙を研磨し着色した後に鳥のような絵が掘り込んであるのだが、その絵が何ともいえぬ味をもっているのだ。

そうそう、この正倉院展、10時までに入場した人には抽選券が与えられ、当たると碁石のストラップがもらえる。

三枚貰ったので休憩中に銀色の部分を削ってみると、一枚だけではあるが当たっていた。

何か救われたような思いがした。

ちなみに…。

(絶対に開封せず大事に持っておこう)

そう思っていた碁石ストラップ。

阿蘇に帰り、思い出話をしている横で八恵(次女:1歳)がビリビリ開封し、気付いた時にはその口の中にあった。

「あー!」

叫ぶが、時既に遅し。

「八恵ちゃんだからしょうがないよねぇー」

最近、ませてきた春に励まされるが、ちょっぴり意気消沈の俺なのであった。

正倉院展の次は東大寺へゆく。

 

 

3、奈良観光から

 

こんなに早く正倉院展を後にするとは思っていなかったが、人ごみが苦手ゆえしょうがない。

あそこにもう一時間いたら発狂していただろう。

俺、春、伯母の三人は約二時間で正倉院展の会場を出ると、次に常設展の見学に移った。

常設といえどもさすがに国立の博物館で、国宝や重文揃い、退屈する暇がない。

どこかで見たような仏様が次から次に現れ、どっぷりはまってしまった。

これを言っては悲しくなるが、人が少なくなったぶん、正倉院展の何倍も楽しめただろう。

春も人が少なくなって仏像をゆっくり見れるようになると興味を示し始めた。

「この顔がいい」とか、「あの顔は怖いからやだよぉ」とか、いっちょまえに選り好みをしている。

この時点で道子(母)を超えたのではなかろうか。

道子と博物館に行っても道子の中には何も残らない。

「どうだったや?」

博物館を出、すぐに感想を聞いても、

「歩いてお腹すいた。あ、博物館の感想ね。えーと、えーとねぇ、暗かった」

それが関の山である。

国宝のにっこり笑った仏像を指差し、

「八恵ちゃんみたいだねぇ」

「妹に似てる」という感想をもらす春は道子からすれば超一流の博物館好きとなるのではなかろうか。

それにしても常設展は良かった。

もし俺一人ならばたっぷり三時間は見たいところであるが、さすがに春が耐えられないだろうという事でインパクトのある東大寺に場所を移した。

インパクトいうのは、むろん大仏の事である。

とにかくでかい。

人の血でつくられた大仏という事で聖武天皇の評判を落としてしまった大仏であるが、現在は奈良県の象徴のようになっているし、天平文化の象徴も間違いなくこの大仏であろう。

ある意味、青函トンネルと同じようなもので、

(あの時代、血を流してでも造らねばならなかったものなのかも…)

と、現在の繁盛ぶりを見て思うのだが、どうだろう。

先人が流した血はあれから1300年弱経った今でも奈良県、延いては日本に大きな利益をもたらしている。

正倉院展だってそう。

まさに後世から避難囂々の貴族文化、その恩恵である。

貴族文化というのは確かに後世の歴史家が評するように「民族における質の低下」を招き、いずれ破滅を招くが、モノとしては多くの優秀な遺産を残す。

そういう文化が隆盛を極めては破壊され、また隆盛を極めては破壊される。

日本史においても世界史においてもその繰り返しであって、現在の日本における状況はまさにその隆盛を極めている状態ではないか、近い将来に壊れる運命にあるのではないか、そう思ったりもする。

ちなみに俺と大仏が初めて出会ったのは修学旅行の時で、今回はそれ以来の再会という事になるのだが、そのイメージは変わっておらず、

(相変わらずインパクトの方が先に立つ大仏だな…)

その思いで全容を眺めた。

春にしても「おー」と言っただけでコメントを言う余地はなかったらしく、

「ママみたい」(その巨大さから)

という爆弾発言を期待したのだが何も言ってはくれなかった。

伯母はこの東大寺でカメラを買ってくれ、

「さぁ、撮るわよ、撮るわよ」

と、大仏を前に5枚も写真を撮ってくれたが、大仏殿の中は暗く、背後にはただ闇が映っているのみであった。

その代わり、大仏殿の前で撮った写真はちゃんと背景が映っていたので下に載せる。

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以下、写真付きで書いてゆく。

次に観光したのは東大寺の裏手にある正倉院である。

正倉院は先ほど見てきた数々の宝物が入っていた蔵で、

「宝物を保存するには最高の造り」

一般的にそれが常識であったが、最近の研究で大して良い環境ではないという事が分かったらしい。

歴史は研究により覆されるものだが、得意気な部分が覆されると何やら悲しい。

宝物の状態が世界でも類を見ないほどに良い原因は「勅封」という日本独自の文化によるもので、俺達が学生時代に学んだ事、

「正倉院の高床式がいいっ! ネズミ返しがいいっ!」

それが実はどうでもいい事だったというのは悲しいを通り越し、だまされた感じがしないでもない。

ただ、湿度の高い日本において高床式がある一定の効果をもったという事は信じたい。

そんな事を思いながら初めて正倉院を見た。

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それは思った以上に巨大で威圧感があるドーンとした建物であった。

写真を見てもらえば分かるように、これ以上は立ち寄れないようになっているのだが、これだけの距離を置いてもシルクロードの終着駅に相応しい、そう、喩えるなら鹿児島本線上りの終着駅が門司港駅であるように、

「うん、終着駅っぽい!」

そういう印象を与える建物であった。

また、旅行好きの伯母も正倉院は初めて見たらしく、

「予想より大きいわぁ」

俺と同じような感想を述べていた。

文献というものから得るイメージが如何にぼんやりしたものであるか、その事であろうし、これは仕事で使う「三現主義」につながるところであろう。

「事件は会議室で起こっているんじゃない! 現場で起こってるんだ!」

そういう事。

ちなみに下の写真に映っているのが伯母である。

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うちの親父(富夫と書いた方が分かりいいかもしれない)の姉で、

「お前の親父と同じ顔じゃにゃー!」

そのツッコミを受けそうであるが、俺も伯母と久々に会った時、

(ますます親父と同じ顔になってきている…)

そう思ったので、あえて否定はしない。

ウチの親父方は三人兄弟で、うちの親父が末っ子である。

この三人兄弟を見ていると、兄弟の思想の成り立ちというのが何となく見えてくる。

いや…、これほど分かりやすい兄弟の縮図はないように思え、典型的なかたちではなかろうかとも思ってしまう。

自由奔放な弟と大きな看板を背負って立つ兄、それを冷静な目で傍観する真ん中、いずれにも役割があって家というものは成り立っているのだろう。

ちなみに俺は二人兄弟の長男で親父はプラモ屋をやっているが継げと言われたこともないし継ぐ気もない。

弟もその分野に全く興味がない。

この原因として親父の「末っ子気質」が挙げられようが、それとは他にプラモが楽しいと感じられなかった幼少期の影響が大きい。(弟の事は知らぬが)

その、楽しいと感じられなくなった決定的な瞬間を俺は今でも憶えている。

それはガンダムの友達に「百式」という黄色のロボットがいるのだが、そのプラモを作っている時に訪れた。

プラモは組む前に色を塗り、それから組むというのが通例らしいのだが、まず俺は組んでから色を塗った。

そして、金属感を出すため下地に銀を塗らねばならないらしいのだが、それをしなかった。

その事で、

「ばかもーん! プラモ屋の息子がそぎゃんこっでどぎゃんすっかー!」

親父に猛烈な叱責を受けた。

この事が「プラモへの興味」を霧散させた。

が…、それが悪いと言っているわけではない。

むしろ、それが良かったと思っている。

プラモ屋は手先が器用でなければ勤まらない職種なのだ。

俺の手先に関する不器用さは半端じゃない。

継いでも半年以内に店を潰す自信がある。

また、プラモ屋は親父が好きで始めた家業で歴史や伝統といったものとは無縁である。

好きなだけやって好きな時に畳めばいいと俺は勝手に思っているし、親父もそういう気楽さを愛して脱サラしたのではなかろうか。

親父には末っ子らしい生き様を貫いて欲しいと勝手に思う。

ただ、借金だけは残さないようにと注文をつけ、閉店祝いは山鹿のパーティー会場を貸し切って豪勢にやってやりたいとも思う。

ま、フルマラソンをやっているような親父なので御年八十くらいまではやりそうであるが…。

話が大きく逸れた。

しかし、もうちょっと逸れる。

福山家で唯一の都会人・伯母とのやり取りに触れてから次にいきたいと思う。

正倉院展の会場で春が眠ってしまった時、伯母が着ている服をそっとかけてくれるという一齣があった。

その服の手触りが実に良かったものだから、

「こらよか生地でしょ? こぎゃんよか生地に春のヨダレが付いたら大変ですよ」

そう言ったところ、伯母に褒められた。

「よくこの生地の良さが分かったねぇ」

と、言う。

聞くと、その生地は結城紬であった。

結城紬といえば服飾メーカー・リーバイスしか知らない俺でも知っている有名な(高級な、伝統的な)紬で茨城県結城市の産物である。

伯母が言うに結城紬の偽物が日本中に出回っている、しかし本物は触れば分かるそうで、それで俺の直感を「凄い」と褒めてくれた。

伯母は今、一流の着物を扱う仕事をしているそうで、福山家の血には珍しく、そういう布や気品ある食器集めを趣味としている。

「結城に泊まった事がある」

俺がそう言うと、伯母は当然のように紬を見に行ったものだと思ったようだが、実は水戸で歴史見学をした後、水戸の宿が高かったため、

「結城市もキャバクラくらいあるだろう、そっちに泊まろう」

そう談合し、友人と泊まっただけの街であった。

そんな事が言えるわけもなく、

「いやぁ、いい街でした」

と、話を濁してしまったが、真実は以上のような事であると、この場を借りて告白しておく。

話の筋とは関係ないが、気になっていたのでちょっと書いてみた。

さて…。

東大寺の次は近鉄奈良駅方面へ足を向け、興福寺へ立ち寄った。

東大寺は華厳宗の大本山であったが、こちらは法相宗の大本山である。

京都にしろ奈良にしろ大本山がやたらと多く、その宗旨を読んでもさっぱり意味が分からぬが、分からないのがありがたい、分からないのが宗教だと俺は思っている。

変に分かるがために融通がきかなくなり、他を受け入れられずに戦争になってしまうというケースが多い昨今、日本の意味不明な感じは安心でもある。

日本の宗教は紐を解いていけばいくほど複雑も複雑、「複雑そこに極まれり」という感じで、それを詳細に語れるのは日本に百人もいないだろう。

ゆえ、前に書いたように、

「分からんでいい!」

と、開き直っているし、勉強しようとも思っていない。

ただ、これも前に書いたが現在の日本人の思想、その源流は気になる。

(思想の源流を時代の遺物が微かにでも教えてくれないか?)

そこに期待して遥々奈良まで足を運んできたのである。

さて…。

興福寺であるが、国宝館というのが本堂の離れにあり、そこだけは有料である。

「本当にオススメの像がここにある」

伯母はそう言ってキップを買ってくれたのであるが、なるほど、本当に良かった。

国立博物館、東大寺、興福寺と見所の規模はだんだん小さくなっていったが、ここにあるものが一番良かった。

伯母オススメの三面像は教科書にも載っている超リアルな表情をした国宝像であったが、伯母がオススメするだけあって実にいい顔をしており、吸い込まれるような力を感じた。

ちなみに、ここで学んだ事であるが、如来と菩薩の違いは前者が悟りを開いた人で、後者が如来になるべく頑張っている人らしい。

その見た目の違いは奈良の大仏みたいに頭にボツボツがあるのが如来で、菩薩はそれがないらしい。

また、菩薩の中でも地蔵菩薩はつるっぱげであるが(他の菩薩は頭にかぶりものをしているそうな)、それは如来にならず菩薩のままで世の人を救いたいかららしく、

「最も庶民的な仏様が地蔵菩薩なのです」

そう書いてあったが、いまいち意味が分からなかった。

如来になったらどういうメリットがあるのか、そして地蔵菩薩が菩薩のままで世を救いたいのはなぜなのか、そこを書いて欲しいと思うのだが、それを聞く事は野暮なのかもしれない。

また、チベット仏教という異文化が日本に到来し、ある時期に文明性をもった、その瞬間を探りたいと前に書いたが、その文明性を猛烈にアピールしているのが千手観音ではなかろうか。

この興福寺には巨大な木造の千手観音像があるのだが、千手というだけあって、無数の手が背中から生えている。

その手は全ての苦しみをありとあらゆる手段をもって救ってくださる手らしい。

大きな苦行を伴うチベット仏教に対し、何と手軽で分かりやすい千手観音の教えであろうか。

昔の人ならずとも、

「そりゃいいや!」

千手観音に傾くのは自明の理であろう。

また、興福寺には鎌倉時代の名作も多いのだが、時代背景を受け、作風がガラリと変わっているところも面白い。

天平文化は前に書いたように貴族の文化である。

それに対し、鎌倉文化は武士の文化である。

柔らかい天平文化の像に対し、鎌倉文化の像は実に荒々しい。

有名な金剛力士像(国宝)の「阿」「吽」を見ていると思わず「あ」「うん」と言いたくなる。

他の観光客を見ていても「あ」「うん」の口真似をしている。

「阿」が始まりを意味し、「吽」が終わりを意味するらしいが、だから何なのかはよく分からない。

しかし、像に力があり、誰もがその表情を真似してしまうところに出来栄えの素晴らしさがあるのだろう。

また、鎌倉時代の像はその肉体のラインが素晴らしい。

「俺」という昭和後期の産物における腹のラインもある意味で素晴らしいが、全く別次元なのでどちらかというと貴族文化の彫刻向きであろう。

(痩せねば…)

副産物としてその事も思った。

国宝館を出た後、

「せっかくだから」

という事で本堂へ参りに行った。

興福寺は何が良いって名前がいい。

この名前を聞いて素通りできる人は、たぶん世の中に何の不満もなく、心から幸せな人であろう。

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広々とした境内をゆっくりと歩きながら五重の塔を見たり、春と追いかけっこをしたり、なかなかステキな時間を過ごした。

本堂で春と共に頭を下げ、

「おっとーが元気でいますように」

「春が元気でいますように」

お互いにその事を祈るのが通例なのであるが、奈良という土地の力か、何やら今回ばかりは目頭が熱くなった。

ところで…。

(明治初年における奈良という街はどういう状態に陥ったのだろう?)

ふと、その事を思った。

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)である。

政府の神道国教施策に基づいて行われた仏教の抑圧・排斥運動の事であるが、奈良という仏教漬けの街がどういった状態に陥ったのか、その事を考えると街全体が燃えていたのではなかろうかと思ってしまう。

現に興福寺も廃仏毀釈の流れを受けて瓦解寸前になったらしく、どこもそういう状態になったのではなかろうか。

「仏を拝まず天皇を氏神様を拝みなさい!」

廃仏毀釈運動のスローガンはそれであるが、人間の思想というものが固まってしまい他を受け入れられなくなった時、そこには必ず破壊が起こる。

この、ほんのちょびっとしか続かなかった廃仏毀釈による日本の損失は計り知れないものがある。(俺が大好きな城も全国各地で壊された)

思想がガチガチに固まった時の恐ろしさ、その一例であろう。

さて…。

色々と考えさせてくれた仏教都市・奈良を後にしたのは午後三時を過ぎた頃ではなかったろうか。

帰りの観光客でごった返す近鉄線に乗り、一気に大阪・難波まで移動した。

寝るかと思われた春であるが何やら興奮して寝ず、御堂筋では創作ダンス大会が開かれていたため春の興奮はピークに達した。

伯母は春の子守りを買って出てくれた。

おかげで俺はゆっくり大阪の街を楽しむ事ができた。

伯母には本当にお世話になった。

この難波で夕食までご馳走になり、何とその内容が人生初のアワビであった。

難波で伯母と別れたのは午後七時くらいだろうか。

お互い電車で帰ったのであるが、俺は神戸へ、伯母は住まいのある豊中市への移動である。

伯母は30分くらいで着くが、俺はそうはいかない。

神戸まで1時間弱、それからが超大変。

バスに乗って六甲アイランドのフェリー乗り場へ、六甲アイランドから大分までは長い船旅、大分から阿蘇までは車での移動である。

その時間なんと17時間。

往復34時間以上をかけ、奈良にいた時間はたったの7時間であった。

帰路も疲れる事が予想された。

特に長い船旅で春が暴れ出す事が最も恐ろしく、神戸で有名メーカーのブロックを買ってあげた。

が…、それがアダとなった。

ブロックを買ってあげた数分後、春は俺の腕の中でグッスリと眠った。

重い子供を抱きかかえ、背中にはリュック、そして小指には伯母から貰った土産、そして親指には買ったばかりのブロックをぶら下げなければならなくなった。

運動不足の体にたまらない激痛が走った。

(痛い…、だが、娘だけは落としちゃいかん…)

春は起こしても起こしても起きる気配すら見せず、結局、船に乗るまで寝続けた。

その時間、2時間強。

フェリー乗り場の待合室で座る事もできず、ずっとずっと立ち続け、腕がパンパンになり、足はガクガクになった。

船に乗ったらすぐに風呂へ入るつもりだったが乗船と同時にゴロリと横になった。

横になり春の寝顔を見ながら、これだけ辛い思いをして奈良へ来た意味を考えた。

(日本人の思想、その源流は天平文化にあるのではなかろうか?)

今回その事を「ぼんやり」とでも確かめるべく奈良へきた。

そして、実際に「ぼんやり」とした手応えを感じた。

仏教というものが文明性をもったのは間違いなくこの時代であろう。

春と一つの布団で向かい合っていると、何だかその寝顔が本当の生き仏のように思えてきた。

死んだら仏様になるとか何歳までは仏様だとか宗派によって仏様における定義の違いはあろうが「子供の寝顔が仏様に似てない」と言い張る宗派はあるまい。

思想は「ぼんやり」でいい。

「ぼんやり」がいい。

それが神仏混淆(しんぶつこんこう)、日本という国における思想の源流ではなかろうか。

色々と宗旨を読んだが、何が良いって、それらが超複雑に展開している日本の文化が素晴らしい。

仏様に手を合わせたからといって仏教徒ばかりではなかろう。

娘に似ている「ありがたい顔」に手を合わせている人も多いに違いない。

思想に関して結論を出そうとすると頭が痛くなってくる。

「やめた!」

それ以上、考えないのがニッポン流、そして我が宗教であった。

船はゆっくりと西へ進む。

 

 

4、帰路

 

春が目覚めたのは午前6時であった。

場は二等船室である。

グッスリ眠っている人たちが足の踏み場もないかたちで敷き詰められており、寝息だけが薄暗い部屋に木霊している。

そこに春の声が響いた。

「おっとー、起きてー!」

見事な声量で、幾人かの人がビクリと跳ね起きた。

「もうちょっと寝るぞ、それに声がでかい」

小声で言うが聞くはずもない。

「起きてー! 起きてー!」

結局、早朝から船内のゲームセンターでパチンコをするハメになってしまった。

昨日買ったパンを頬張りながら眠そうにパチンコしている父娘を周囲はどういう目で見ただろうか。

「道子、ちょっと春ば見とって」

それが言えない土日月、三日間の旅がもうすぐ終わろうとしている。

ぼんやりしていると目の前の台がファンファーレを鳴らしながら光った。

パチンコ屋では当たらないのにゲームセンターでは当たりまくるのが悲しかった。

この朝も「海物語」というパチンコ業界では一世を風靡した台で確率変動の大当たりを引き、商品を二個もゲットした。

商品はアニメが描かれた布製のサイコロと船のキーホルダーで、笑えもしないつまらない物であったが、春にあげると何となく喜んでくれた。(後に捨てられたが)

ゲームセンターを離れた二人は、それから朝風呂に入るべく大浴場へ向かった。

フェリーの風呂はあなどれない。

そこら辺の銭湯より綺麗で大ぶりな造りで、船が揺れる度に湯船の水がわっさわっさと揺れるのも良い。

「すっげぇー! おっとー、すっげぇー!」

春は大喜びであった。

筋肉痛の腕を湯に浸けつつ外の景色を見ていると、ちょうど松山港に着岸しているところで、遥か先に大都会が見えた。

松山には有名なボイラの会社があり、阿蘇の会社に転職するタイミングでそこへ行こうと検討した事もある。

あの頃は、

「一度でいいから四国に住んでみたい」

それが俺の口癖で、道子は、

「雪国と四国だけは嫌だ」

オウムのようにそれを繰り返していた。

今でも俺は高知に住みたいという思い(四国から高知になった)を持っており、その事をたまに口にするのだが、

「四国は不便で水がなくて台風がいっぱい来るっていうイメージしかないのっ!」

道子はうんざりした調子で絶叫するばかり。

確かに昔の高知なんかは島流しの場所で、北は山に囲まれてて南は大きな海に囲まれてて、どこにも行けないというイメージだったが、今は空港もあれば立派な港もあるし、高速道路だって通っている。

「そう不便じゃないぞ、カツオだって美味いし」

道子の剣幕に押されつつそう返すのであるが、「絶対に嫌」を連呼されると、それを打ち払ってまで高知に住みたいと思っているわけではない自分に気付く。

ただ、日本という島国において特殊だと思える場所は薩摩と土佐、それに尽きるところがあり、歴史好きとしてはどうしても一度住んでみたい。(薩摩はいずれ住めると思っている)

薩摩も土佐も徒歩が交通の主流だった一昔前においては極めて不便で、中央からすれば意味不明なところだったが、幕末、革命の時期になるとそこから逸材がニョキニョキと湧いて出ている。

両者に共通するのは前述した不便さ、それに身分制度がハッキリしてるところ、それに藩内における男女の理想像。

男は酒好きで細かい事を気にしない豪快なタイプ、女に至っては芯のある強い女が愛される。

男の理想像は「薩摩隼人」「いごっそう」と名付けられ、女の理想像は「薩摩おごじょ」「はちきん」と名付けられている。

理想像に名を付けてまで固有の文化を持とうとしたところに何ともいえぬ魅力を感じるし、それに極めて近い肥後出身(肥後もっこす、火の国の女)としては、

(是非一度住んでみたい!)

そう思うのは無理もない事なのだ。

ちなみに…。

友人の中には鹿児島出身の者もいれば高知出身の者もいる。

誰もがそのタイプかというと、そういうわけでもない。

封建制が崩壊して早130年、日本国民は各県だけでなく世界中へ行き来、滞在できるようになり、様々な文化を取り込めるようになってしまった。

方言を含め、色々なものがこれから薄れていき、色々なものが均一化されていくだろう。

「だから! 今のうちに! 今の高知に住みたいのだ!」

俺が声高に叫んでも、

「だから? 何で? 意味分からん」

道子にそう言われるのが関の山だ。

「肥後もっこす」の看板が遥か彼方で泣いているように思えるが、道子は察してはくれまい。

世論においては更に避難轟々、道子が「寛大」と呼ばれている事は俺も分かっている。

フェリーの風呂から松山の街を見下ろしつつ、俺も世の流れに乗っている「均一化された男」その一人である事を思うのであった。

さて…、それから何をしただろうか。

この第四章だけ、かなり時間を置いて書いているのですっかり忘れてしまったが、たしか神戸で買ったブロックを春と一緒にやった。

風呂から戻ると二等船室の人達が起きていて、春は色々なおばちゃんに愛想を振り撒き、あちらからミカン、あちらからチョコレート、色々と貰いつつブロックで何かを作っては見せていたように記憶している。

大分港に着いたのは午前11時過ぎであった。

美味い魚でも食って帰ろうと思っていたのであるが、

「お昼ご飯は阿蘇で食べよぉ」

貰ったお菓子で腹いっぱいなのであろう、春がそのような事を言っていたので、

「どこにも寄らず真っ直ぐ帰る」

道子に電話を入れ、車に乗り、真っ直ぐ阿蘇を目指したのであるが、途中、黄色い看板ジョイフルを見付けると、

「ジュースが飲びだいー、ドビングバー(ドリンクバー)に行きだいー」

春が暴れ出したため、結局ジョイフルに寄った。

更に峠道を走っている時、

「おしっこー」

ジュースの飲み過ぎであろう、その事を訴えてきたため山でオシッコをさせた。

ティッシュがなかったので、その辺の葉っぱで拭いてやったところ、

「駄目だよー、葉っぱじゃ駄目だよー、おっかーも駄目って言うよー」

神戸に住むお嬢様みたいな事を言ってきたので、

「たわけ!」

一喝し、父親がどのような生活を営んできたかを懇々と語り聞かせた。

一度や二度ではない葉っぱで拭いた野グソの話、ある荒野で野グソをした時、葉っぱがなく、仕方なく転がっている石で拭いた話、などなど。

「すごいねぇ」

春は車の助手席でそう言ってくれていたが序章の段階でグッスリ眠ってしまった。

退屈な話をしているつもりはなかったが、いつの間にか寝ている娘を見てしまった時、

(まだ時期的に早かったか…)

そう思ってしまった。

阿蘇に着いたのは午後二時前だったろう。

道子と八恵はそろそろ着く頃だと思ったのか濡れ縁に出て待っててくれ、八恵は俺を見るや両手を広げて抱っこを求めてきた。

移動時間17時間、それも子連れ。

このお疲れの俺に道子がどういった言葉をかけてくれるか、かなり期待した。

道子をチラリと見、八恵の愛らしい顔に視線を戻した。

道子は春と三日ぶりの再会をたっぷり喜んだ後、表情を消し、次いで俺の方へ顔を向け、

「土産は?」

そう言った。

ちょっとビックリした俺は、

「あ、そうそう、…土産ね」

困惑しつつ、いつもより多い土産の説明をした。

道子は俺の説明を聞いていたのか聞いていなかったのか、よく分からぬが、それを制すかたちで、

「たっぷり楽しんできたんだから今日は家族サービスでしょ」

滞りなく見事なセリフを吐いてくれた。

一昔前…。(回想している)

三日会わねば、

「会いたかったー!」

花柄の背景が似合う、見事な笑顔を見せていた彼女は遠い幻。

巨匠・遠藤周作は大ヒット作「それ行け狐狸庵」の中でこう書いている。(長いが胸に沁みたので、そのほとんどを書く)

 

マックスハーバーという心理学者によると女の中には女、妻、母の三要素があるが、彼女達は結婚した翌日から女を捨てて妻に早変わりできるそうな。そして子供ができれば、その瞬間から妻を捨てて母に早変わり。

ところが男性はグータラというか怠け者だから、いつまでも男が残っていて夫にもそう簡単になれない。父にもそう早変わりできぬ。彼は最後まで男なのである。

困るのは女はまるでサナギが一夜にして蝶になるか如く妻に早変わりできるため、

「あんたも早く夫に変化して頂戴」

己の変化スピードを男に要求するから、それが男性には重苦しい重圧になり、恐妻心理をやがてつくりあげていくのだそうな。

 

「なるほど」

その一言に尽きるし、この話によると、子供を生めば生むほどその溝が深くなっていく事を暗示しており、何やら悲しくもなってきた。

ちなみに…。

17時間の移動を終えた俺、その後50キロ離れた山鹿に移動し、友人の開店祝いに出席している。

友人の店は、たぶん10年以上前からあるのではなかろうか、山鹿の旧一等地・ボーリングセンター前に「好感度レストラン・オントレ」という店があるのだが、東京で修業していた彼が店を継ぐ事になり、リニューアルオープンした。

そのオントレで、

「もう食えない」

というまでフランス料理を夫婦で食い、山鹿の実家に戻ったのが午後八時くらい。

阿蘇に戻ったのは深夜になってしまった。

恒例ではあるが、夜、真っ暗な部屋で、

(奈良観光で得たものは何か?)

その事を考えてみた。

一つは前の章で書いた日本人の思想に関するぼんやりとした手応え、そして猛烈に人が集まりそうなところには近寄らない方がいいという教訓、そして子供というものの与える影響、その深さ。

特に最後のものに関しては嫁に与える影響も然る事ながら、姿かたちを仏に変え、信仰というかたちで歴史を色々な方向に変えてゆく、その力が何ともいえず凄まじい。

子は世の中の宝というが、まさに今の世を映し出す鏡であり、無表情にしても飢えに苦しませてもいけない、むろん保護が過ぎてもいけない。

(では、何を参考にすべきか?)

そうそう、興福寺にあったような仏様をもっともっと眺めなければならないのかもしれない。

もっともっと眺めていると、何かポーンと弾けるものがきっとある。

「駄目だー! 今の世の中は元気がなーい!」

「人間はこの仏様みたいに活きた表情をしてなきゃ駄目だー!」

そうなるに違いない。

現に俺はこの奈良観光から帰った後、楽しげに料理をする友人を見た時、奈良で見た仏の顔がダブった。

そして、その二日後にモジモジ懐に入れていた辞表を提出している。

「活き活き仕事がしたいー!」

まさに仏が与えたワガママ爆発、その瞬間であった。(超責任転嫁)

俺だけでなく、春にとっても奈良という場所は何か身に沁みるものがあったのだろう。

一週間は仏のポーズがマイブームであった。

あ、そうそう、話はコロリと変わるが、

「なぜ平城京から別の都へ移る必要があったのか?」

その事を奈良の人に聞いたが誰も答えてくれなかった。

が…、年末に読んだ司馬遼太郎の本にその答え(推測)が書いてあった。

天平文化は仏教に手厚い文化だったため、平城京内に坊さんや寺が増えすぎ、そして、その坊さんが調子に乗りすぎたらしい。

政治にも口をはさむようになり、何かと高慢ちきになったそうな。

それで、

「ええいっ、面倒臭い! 引っ越しちゃえ!」

「そうなったのだろう」と愛すべき司馬遼太郎は書いている。

なるほど、たぶん当たってるだろうし、それは良い「後世への教訓」になるのではなかろうか。

長々書いてしまったが、題目、奈良から想う。

「明日を考えて生きねば…」

物として残っているのは聖武天皇遺愛の碁石、そのストラップしかないが、得たものは多いように思えた奈良観光であった。

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次の「悲喜爛々46」は退職までの過程を書く。

 

〜 終わり 〜