天草一つの靴 〜小字をゆく〜
【三日目】本渡〜一町田
予定では四ヶ本寺の東向寺に寄り、鈴木神社に賽銭を投げ、それから福連木へゆくつもりであった。が、東向寺との間に低い丘が挟まっている。
一つの靴は予定より南を歩いている。北へゆくはずが南へゆき、城山を巻くように西へ進路を取った。
本渡の街はすぐに背後へ去った。振り返り、古い景色を想像した。すぐそこに海がある。街の賑わいは埋立地に乗っていて、古くは海、もしくは干潟であったと思われる。古い地形でゆけば昨晩は干潟で眠った事になり、潮が満ちれば溺れていたに違いない。ここまでの道も湿って歩きにくい海岸沿いの道であろう。
急に人気が消えた。いきなり右と左が緑になって、隣には薄緑の町山口川が流れている。一つの靴はこの川と共に高度を上げ、福連木を経由し、下島を縦断する。大半が山道である。
地図を愛し、地図と共に歩んできた旅人は手元の地図を捨ててしまった。後は勘が頼りである。川から離れず西へ進めば山の中で地図が戻ってくるだろう。
左手に形のよい山があった。それが染岳で今日は年に一度の祭らしい。山の中腹に十七世紀から続く染岳観音院がある。
三日目は登山で始まり登山で終わる。平地がない天草の古道は基本坂道である。
隣にいる町山口川は天草島原の乱における激戦の舞台であった。祗園橋という国の重要文化財が賑わいの中に残っていて、その周辺が血で赤く染まったそうな。
溝端という集落に入った。県道を左に曲がった。宿の話だと、ここに施無畏(せむい)という石橋があって、それが染岳の入口らしい。確かにあった。小振りな眼鏡橋があった。触ってみると石の感触が実に良かった。嫁のカカトを触っているようで人肌のぬくもりを感じた。石の隙間からは草が生え出ていた。茶色の絨毯が敷いてあるように見えた。暖かくなればこれが緑になり、橋全体が若返るに違いない。何ともいえぬ生命力があった。
遠目もいい。石橋に詳しいわけではないが、この橋があるだけで風景の腰が据わるように思える。
橋の先に無畏庵なるものがあった。曹洞宗の寺らしく、この橋が参道であろうか。看板を読んでみると、まさにそうであった。普通は参道が本堂を照らすが、この寺は逆らしい。逆もまたいい。禅寺である無畏庵はこじんまりを貫いている。引いて目立たず施無畏橋を引き立てている。
境内を歩いていると袈裟姿の坊さんに会った。本堂の裏に細い道があって山へと続いていたので、染岳にゆくか聞いてみた。この道が染岳の参道であれば、きっと旅情に沿う。が、その道は染岳には行かないらしい。先には墓地があるのみで、杣道もないという事であった。
坊さんが教えてくれた道は二車線の舗装路であった。施無畏橋の隣にコンクリート製の橋が架かっていて、そこから続く硬い道が染岳の参道らしい。
坊さんは慌しく車に乗り込むと、猛スピードで舗装路を駆け登った。宿の主人が言うに染岳観音院は無住の状態が続いているらしい。今は麓の寺が管理しているという事だったので、たぶんこの坊さんが染岳観音院の仮住職であろう。今日は最も忙しい日に違いない。
一つの靴は寺を後にし、舗装路を登った。道に人が多かった。老人が群れを成して登っていた。靴は太り身であるが健脚を誇っているので、倒れそうな老人の群れを幾つも越した。
「山への道が、はぁはぁ、年々きつくなりますなぁ」
「そぎゃんですなぁ、ぜいぜい」
どの老人も息たえだえに登っている。車でも行けるそうだが、それでは意味がないらしい。ある老人の言葉である。
「歩いて登らんと観音さんのはりかかすけん」
「はりかかす」とは熊本の方言で怒られるという意味である。老人の解釈では歩かねば祭の御利益が得られないらしく、車で登るなど言語道断らしい。
それにしても奇妙な光景であった。若者と中年は車で登っているが老人は群れを成して歩いている。体力的にはアベコベに感じるが、生きた時代が違うから当然の風景かもしれない。とにかく奇妙であった。
参道沿いに住む健脚の老人と話した。この道が賑わうのは年に一度この日だけらしい。この日以外は人よりも猪の往来が激しい道らしく、今日は人の気配で目覚めたそうな。老人はギリギリに行くつもりであったが、賑わいの声が聞こえると、どうにも我慢ができなかったらしく、早めに家を飛び出したそうな。
老人の話で祭の時間を知った。老人もうろ覚えであったが「たぶん昼前に始まる」らしい。時計を見た。九時を回ったところであるが、のんびりしている時間はない。この日は最も歩行距離が長く、高低差も激しい。そこに染岳登山という大幅なルート変更があって急がねばならなかった。山で日暮れを迎えては獣に食われてしまう。教良木で道に迷ってから獣が恐ろしくなった。祭の本番は見れないが、宿の人が言う「ホンモノの雰囲気」それが味わえればいい。その点、老人がこうも心躍っている様はホンモノのホンモノたる所以かもしれない。
次から次へ車が舗装路を登って行った。隣の老人がそれを苦々しげに眺め、溜息をついた。
「道ば広くしたけんこぎゃんなってしもうた。昔はね、道のつくりも良かったですよ。二列に並んで狭か道ば登りよった。もちろん舗装のされとらん山道ですたい。狭かもんだけん越したくても越せん。若っか頃はそれが歯がゆかった。ばってん今思えばそれが楽しかったんかもしれん。登った頃には話し疲れてぐたぁっとしてね、坊さんの話が右から左へ流れよった。こん祭は歩かにゃ分からんとだろな。色々変わってしもうた」
一つの靴は考えている。なぜ老人が徒歩にこだわっているのか。単なる想像だが、ここ町山口村では「染岳に歩いて登る」という事が生と死のリトマス紙になっていたのではないか。古い時代から年一回、旧正月に参道を歩き続けた村人は老人と同じ古い行列になったであろう。その中で「あの爺さんはまだ歩きよらす」とか、「今年は駄目だったばいね」そんな話が出たに違いない。登った人、登れなかった人、その顔ぶれと死の具合を見ていれば、おのずと祭がリトマス紙になる。だから老いて尚、まだまだイケるという確信を得たいがため、老人は群れを成して歩いているのではないか。
例えば高野山、例えば比叡山、古い時代の寺は過酷な環境を愛している。過酷ゆえ、その参道は生と死を考えさせてくれたであろう。生と死を考える事は今を考える事に繋がる。今を考える事は明日を輝かす事に繋がる。古い考えかもしれぬが歩いて登るからこそ寺というものが生きていたのかもしれない。が、今となってはどの山にも立派な道が通ってしまった。マイカーやハイヤーで門前に付け、気軽に賽銭を投げる事ができる。道の整備が寺というものの感触を世代で割ってしまったのではないか。時を経て、寺の存在が薄くなっているように思える。ましてや町山口の老人の如く、参道を年一回の勝負と考えていれば、感覚に雲泥の差があったとしてもおかしくない。隣をすり抜けてゆく鉄のバケモノに老人が悪態をついたのも分かる気がする。
登った先に石段があった。石段を登ると笹の葉が売っていて人だかりができていた。この笹の葉、よく見ると赤い金魚の人形が付いていた。老人たちはこれを並んで買い求め、大いにはしゃいでいる。これを買うため歩いてきたらしい。笹の葉こそ今年も歩けた証拠であり、これから一年それを飾って暮らすという。笹の葉は縁起物であろうが、その意味を聞くのは野暮である。縁起物というのは文化の結晶であって、その紐を解いたとしても何かが出てくるわけではない。ただ、解きたくなるのが現代人であって、一つの靴も例外ではない。
「その笹と金魚はどういう意味があるんですか?」
聞きたいが、我慢している。
今日という日は平日で若者は稀であった。が、いるにはいる。そいつがとんでもない奴で、笹の値段を見、
「馬鹿みたい」
そう言った。若者はカップルであった。隣に茶髪のギャルがいて、
「何にもないじゃん、帰ろう」
そうも言った。老人たちはこの若者を冷たくあしらった。当然である。が、若いカップルには分からない。バカップルにとって祭とは出店の連なりであり、普遍的な賑わいこそ祭の本質だと思っている。意味不明な賑わいは納得がいかなかったし、その事で邪険にされる意味が二人には分からなかった。
一つの靴はホンモノの祭に足を運び、たまたまバカップルと遭遇した事によって、自分自身、現代色に塗り潰されている事に気付いた。普遍化した祭が靴の脳味噌を覆っている。その点、バカップルと何も変わるところがない。
祭というのは少し前まで集落の政治であった。神の名において集落の民が決まった日に決まった場所に呼び出され、神事という名の政治に触れる。例えば笹の葉に千円を出すというのは神社仏閣を維持するための政治である。普遍的価値に照らし合わせ、その価格を論ずるのは無知の極みにある。縁起物はそこに住む者の義務として、ありがたく買わねばならない。一年を振り返り、儲けた人は祭に多額の寄付をする。それも義務であって、落ちぶれた人には神の名で救いの手が差し伸べられる。そうして貧富を均しつつ集落は変わらぬ姿を維持していく。
大衆迎合の祭など、ここ半世紀で生まれたに過ぎず、どちらがホンモノかといえば、間違いなく集落の祭である。出店が連なり、花火が上がり、俗化した踊りを「どうだ!」と見せるばかりが祭ではない。バカップルは車でそこへ登ったが、足の悪い老人はその百倍もかけて笹の葉を買い求めている。文化とはそういうものであろう。
境内に石仏が多かった。どれも風雨に晒され風化しているが実に味があった。石仏の下を例の広い道が通り、道を挟んだ反対側に展望台があった。
バカップルを呼んだのは「町おこし」という名の政治である。寺も神社も祭も巨木もどぎつい照明が当てられ普遍性に富んでしまった。普遍性とは何か。余所者に分かるという事である。余所者が行けるという事である。舗装路が通され、展望台が作られ、芝生の公園が生まれ、マスコミに宣伝され、ウケてしまえば更にカネが注ぎ込まれる。つまり土の匂いと風景が消えてゆく。それが町おこしの通例であり、どこの田舎もそれをやった。やっている。喜ぶのは重機メーカーとそれを使う土木業者、不動産屋、便宜を図った政治家である。町おこしを専門に教えるコンサルタントまで生まれてしまった。国からは補助金も出る。官民総出で進められる「町おこし」の悪魔に、文化、つまり古い住人はなす術がない。土足で踏みつけられ、肩を落として泣いている。
一つの靴は染岳観音院を後にした。下山の途についた。車も多いがそれに負けじと歩く人も多い。挨拶が弾んだ。どの人も顔がいい。生き生きしている。この人たちは何の迷いもなく笹の葉を買い、家の目立つところに飾るのだろう。宿の人が熱っぽく叫んだ一言を思い出した。
「行って下さい! 今となっては数少ないホンモノの祭ですから!」
行って良かった。笹の葉が売れるうちはこの祭も続くだろう。が、十年後は危ういように思われる。今のカタチで続いて欲しいと切に願うがどう転ぶかは分からない。後は住民の心が決める。旅人は所詮余所者である。
県道に戻った。広い道が狭い谷を牛耳っているが、すぐに疲れてしまったらしい。人気と共に細くなった。
道連れは町山口川である。平首という集落で平首川と分かれ、中野という集落で黒仁田川と半河内川に分かれた。道連れが半河内川と名を変えた。
山へ山へ進んでいる。半河内の集落を最後に民家が消えた。それから先は杉山しかない。
地図がないので自分がどこにいるか分からなかった。慣れというのは怖いもので、依存していた地図が離れると、我が身が消えたかのような錯覚を覚えた。実に心細い。
学生時代、様々な場所を自転車で旅したが地図など持った事がなかった。辿る地名も今よりずっと大雑把で、例えば四国に行く、そういう風に出発し、日が暮れた場所がその日の目的地であった。当然そこがどこなのか分からない。分かる必要はなかった。要は四国に行きたいのである。これに対し十五年経った大人の旅は恐る恐る小さな集落をなぞっている。大人になるというのはこういう事かもしれず、抱えている日常の雰囲気が旅に出るのかもしれない。どっちもいい。
地図と再開したのは八久保という集落であった。集落とはいいながら人の気配はない。道が分岐している。いかにも古い峠の分かれ道という感じで、ちょっと休みたくなった。勝手な想像をするが、この場所は「八久保の分かれ」と呼ばれているのではないか。呼ばれていて欲しい。
空き家があった。ここに茶店があったとすれば風景として旅情に沿う。茶店に気の強い婆さんがいて、気の弱そうな旅人を捕まえている。
「兄ちゃん、茶でも飲んでいきな! もちろんお代はいらないよ! 寂しいところだから話し相手をしておいき! つれないこと言わず、さあ座って!」
婆さん、旅人を座らせると、黒い盆で茶と団子を持ってきた。
「さあ、食いねい!」
「はぁ・・・」
婆さんも座った。旅人の隣で煙管を吹かし、出てった息子の自慢話を始めた。
こういう絵を想像すれば、峠の分かれが妙に輝く。あくまで勝手な思い込みだが、口の悪い婆さんは江戸から大正にかけ茶店にいたように思われる。昭和は駄菓子屋かタバコ屋にいたであろう。平成はどこに行ったのか、温泉の大広間へ移ったように思われ、夫の悪口と体調不良を訴えている。日本人は寿命が延びた代わりに元気を失ったのかもしれない。
何にもない山道が延々続いている。道連れだった川が消え、緑が濃くなった。光が薄れ肌寒くなった。
静かな山道は個人的に好きである。だからこの道を選んだのであるが、どうもビクついていけない。教良木の後遺症で獣を恐れている。基本的に山村の犬は放し飼いである。靴を見付けると、それらは庭を飛び出し吠えてくる。それだけ人が少ないという事であるが、猛烈な勢いで駆け寄ってくるため冷汗が絶えない。
場貫、寺の尾、小さな集落を越えると堀切に着いた。ここが峠の頂上であり、正しくは福連木峠という。が、土地の人が堀切というらしく、今もその名が残っている。古くはこの堀切に茶店があったらしい。これは想像ではなく、ものの本に書いてある。少し前までこの道は天草の幹線であり、往来盛んであったらしい。地図を遠目に眺めると、この堀切が下島の重心にあたる。下島を横断するにも縦断するにも堀切を通り、堀切で散らばったに違いない。茶店には芸妓がいたそうで、酒食も提供したらしい。戦時中は出征兵士を送る宴が毎夜開かれたとも書いてある。
堀切の下を福連木トンネルが通っている。昭和五十三年に開通したらしい。かつては有料道路だったらしいが、今は無料の県道である。これがために今の堀切は小鳥の羽音が聞こえるほど寂しい。全く人がいない。
堀切から先は下りの道である。福連木トンネルの上を右へ左へ地形に沿って動きつつ、徐々に高度を下げてゆく。峠道を歩いていると、どうにかしたいと思った文明人の気持ちがよく分かる。文明社会の合理主義から見れば、峠道のグニュグニュは許せなかったに違いない。優秀な道具はある。カネがあれば何とかできる。カネは政治が持ってきた。むろん政治家が出したわけではなく、それは日本人の借金であるが、文明人は喜び勇んで重機に乗ったであろう。山に風穴を開ける爽快感は何ともいえぬ良い気持ちに違いない。このトンネルの出現で福連木から本渡まで徒歩で四時間かかっていたのが車で三十分になったらしい。子守唄で有名な福連木もこれができた瞬間は喜んだに違いない。至極便利になった。が、便利が人を変えてゆき、気付けば村が萎み始めた。人が減っている。特に若者が減り続けている。子守唄を歌いたくとも歌う赤子がいない。どこの村も変わらぬが、まずは手近な都会へ人が流れる。福連木なら、まずは本渡に流れたろう。本渡の若者は熊本へ流れ、熊本の若者は都心に流れる。結局、文明の放つ光には際限がない。このままゆけば若者は都会、老人は田舎という合理的住み分けが進むのではないか。恐ろしい。
腹が減った。八丁という集落を越えると二車線の立派な県道に出た。食堂を探したが何もない。左に折れた。この先また山道である。何か食わねばもたないだろう。豆腐屋があった。何でもいいやと覗いてみたが人も豆腐もいなかった。更にゆくとキャンプ場があった。広々とした公園があって管理棟らしきものがあった。こちらも人っ子一人いなかった。
(この村は人が住んでいるのだろうか?)
周囲は公共事業のオンパレードでひどく現代風だが人の気配がしなかった。
それにしてもピンチである。食わねばスタミナが尽きる。尽きてしまえば気力があっても前に進まぬ。旅人はその事を知ってるので否が応でも危機感を覚えてしまう。と、その時、嫁が魚肉ソーセージをリュックに入れていた事を思い出した。「いらん」と言ったが「念のために」と持たされた。あの時は嫁のお節介を苦々しく思ったが、今思えば何とできた嫁だろう。
道沿いに「官山の水」という看板があった。湧水があるらしい。そこで休憩をしようとリュックを開けたが魚肉ソーセージが見当たらなかった。貰った記憶はあるがリュックにない。突き返したのだろうか。リュックをひっくり返して探した。が、それでも見付からなかった。何も食わずに先を目指した。
「官山の水」に触れたが、左の山を角山という。徳川幕府が管理した山で、古くは御林と呼ばれたらしい。何ゆえ幕府が重宝したのか。それはこの山の木が槍の柄に適すからである。槍の柄といえば樫の木である。
樫の木は役人に見守られながら人手をかけて厳粛に触られたらしい。ありがたく切られた樫の木は、下津深江(現天草下田温泉)に運ばれ一週間潮づけにされたそうな。切り口は紙で目ばりされ、一本一本ムシロで包み、大事に大事に運ばれた。民衆は輸送中の木に会うと土下座をさせられた。御林の枝葉を取ろうものなら、牢へぶち込まれたという。
ありがたい官山が隣にある。今も国有林であり天草唯一の自然林である。官山は天草に利益を与えていない。役人に名誉を与えたかもしれぬが庶民には邪魔な存在だったと思われる。が、効能もあった。今も昔も御林ゆえ、自然林が保たれた。御林でなければ全国の山が杉山に変わったように、この山も単なる山と化したであろう。歯止めがなければカネの正義はとどまるところを知らない。そう考えると、御林はいい意味での抑止力に違いない。
きつい登りが続く。上へ下へを繰り返し、今日という日が暮れようとしている。
峠の頂に立った。これから先、銭瓶(ぜんがめ)という集落である。銭瓶という名前がいい。古い時代の貯金箱が出土したのか、それともそういったものを作っていたのか、調べているが由来がどこにも載ってない。ただ調べて分かった事もあって、珍しい名前ではないらしい。全国津々浦々にある。どれも由来はまちまちで、あまり参考にならない。
一気に下った。初日に触れたが天草の山村は石垣に依っている。急な斜面を石垣で押さえ込み、僅かな平地を確保している。段々畑や棚田の景色は美しい。美しいが、それは畑や田んぼだから言えるのであって、それがこの銭瓶のように急斜面の段々集落だと恐ろしさを覚える。記録的な大雨でもあれば集落ごと流されるのではないか。美しさの前に怖さが立つ。
靴の住む阿蘇南郷谷は集落ごと流された歴史を持っている。それも昭和初期という新しい歴史であって、だからこそ怯えているのかもしれない。天草の営みは度胸もある。とてもじゃないが、この傾斜には住んでいられない。
国土地理院の地図を見ている。これに家の分布が黒点で載っていて、それを見ていると人間の多様性を感じてならない。福連木のところで若者が都市に住み、老人が田舎に住む文明的住み分けを書いたが、方向としてそのカタチは進むだろうと思われる。が、完璧なカタチにはならないであろう。人間の多様性がある。地図を見ていると道もないようなところに人が住んでいる。そういう人たちは古い時代の木こりであろう。彼らは当初、必要だからそこに住んだと思われる。が、車と道が整備された今、そこに住む必要がなくなった。合理的感覚に沿えばこういう家は山を下り、麓の集落に入らねばならない。しかし、その大半が空き家になったとはいえ、今も不便な場所に住み続けている人がいる。
木こりの知り合いがいる事は前に書いた。その木こりが凄い所に住んでいるため、戯れに調べてみた。行っても笑うが地図で見ても笑える。凄い場所であった。その一軒のために道があり、電線が通され、郵便物が運ばれている。ただし新聞は来ない。麓へ取りに行かねばならない。災害時の復旧も後回しであり、木こりが言うに大きな台風が来れば二週間ほど停電するらしい。二週間の停電は都会であれば大混乱だが、木こりの生活には大して影響がない。
地図を見て驚いた事がある。この家にも集落の名前があった。黒点を数えるに古くは四軒ほど家があったらしい。集落の名は福土という。古くは木こりの住む場所として福土の名が使われたかもしれぬが、今となっては一軒である。小字は消えたに等しいだろう。その代わり小字が消えて新たな名が付いた。木こりは「山ん上のNさん」と呼ばれている。崖の上のポニョみたいで実に羨ましい。住所(山ん上)と名前(Nさん)が一緒になるというのは何とも贅沢な話で土地を持て余した古い時代の営みを感じる。そういう人がまだまだいて、例えば芸術家などはこういう家を探しているのかもしれない。人間の多様性である。
さて、道が広くなった。峠道が狭く、谷道の直線が広いというのは「いずれトンネルを通してやる」という政治の思惑であろう。露骨である。急に三倍ほど道幅が広くなった。
道沿いに人の気配はない。集落は右の山にあるらしい。桑木迫、奥の中と続き、板之河内に出た。天草にはナントカ河内という集落が多い。そのまま大字になっている地名も多く、天草におけるナントカ河内は山村の栄えた場所を指しているのかもしれない。山村の栄は盆地に尽きる。板之河内も川の合流点にあり、僅かながら盆地のていを成している。盆地から周囲を眺めると神社仏閣が見えた。古い集落であろう。
ここの大字は今田という。靴の隣を今田川が流れていて、ゆけばゆくほど水量が増えている。山村というのは、つまりは川、そして盆地であり、河内という名は稲作文化における地の優越を示しているのだろう。ちなみに商業主義の優越は銀座にあると思われる。通りにナントカ銀座と付けるだけで煌びやかなネオンの想像が生まれる。天草における河内もそういうものではなかったか。
腹が減った。地図を見ると、もう少しで一町田に着く。本渡の街を離れてから一軒も飲食店を見ていない。その時点で今日の道が如何に寂しい道だったか分かる。
何度も言うが一つの靴は古い旅人のつもりでいる。距離の単位も里数で数えるようにしていて、そうする事で硬い舗装路が少しだけ軟らかくなる。
驚く事があった。秋の平という素敵な名前の集落で足を揉んでいると、チャック全開の爺様が現れた。
「一町田までどれくらいありますか?」
寂しさまぎれに聞いてみると、
「一里もなかろ」
奇跡の回答を得た。爺様の開いたチャックから光が差した。何と素敵な会話だろう。秋の平という歌のような集落で、古い時代が舞い戻った。
「かたじけない」
靴の声は爺様に届かなかったであろう。爺様は尻をボリボリかきながら頼りない足取りで去っていかれた。
元気が出た。実は足が限界に近付いていて「もう駄目だ」と座り込んだ場所が秋の平であった。一つの靴は重いリュックを背負うと南へ向かって歩き始めた。風景が百年くらい若返った。実に気分がいい。
今田川は益田という集落で一町田川になった。ここまで来れば目と鼻の先が一町田の街である。
右に折れた。静かな街がそこにあった。期末の工事で賑わっているが、営みの賑わいは薄い。古くは羊角湾と一町田川を伝って人や物がここに集まり大いに賑わったと思われる。有名な伝道師アルメイダもここを拠点に布教活動を行った。
古い時代、一町田は河内浦と呼ばれていた。中世の豪族・天草氏の城下町で、天草氏により一気に栄えた。
栖本氏のライバルが上津浦であったように、戦国の世にはライバルが必要である。この時代、切磋琢磨していない豪族は真っ先に蹴落とされた。天草氏のライバルは志岐氏であった。鎌倉幕府から地頭に任ぜられた天草氏は、同じく地頭に任ぜられた志岐氏と壮絶な喧嘩を繰り返した。本渡争奪戦がそれであって、それを繰り返す事で戦国の世を生き延びた。
ライバルの効能とは何か。その事を考えてみた。そやつに勝つためそやつを真似る。この繰り返しがライバルの妙味であって、相乗効果こそライバルの効能であろう。が、真似を繰り返すために、変な方向へ突き進む可能性もある。
宣教師を最初に受け入れたのは志岐氏であった。切支丹に興味があったわけではない。周辺の大名が切支丹になり、「お前もどうだ」と勧められたからである。志岐から島原は目と鼻の先である。島原を支配していたのは有馬家であり、その有馬家が切支丹になった。長崎の大村家も切支丹になった。
「切支丹とは何ぞや?」
分からぬが、周辺の大名を見ていると切支丹になる事で貿易の利が得られるらしい。分からないまま流行りに乗って宣教師を受け入れたに違いない。これをライバル天草氏が見ている。
「アソコがやるならウチも!」
天草氏も宣教師を受け入れ、河内浦(一町田)を中心に布教活動を行わせた。が、宣教師を全面的に受け入れるというのは志岐氏にとっても天草氏にとっても甘い話ばかりではなかったらしい。当然、神社仏閣が猛反発した。天草氏に至っては殺されかけた。このピンチを救ったのが切支丹大名・大友宗麟である。宣教師ダルメイダの手紙によると大友宗麟が助けてくれたらしい。
切支丹の土地への根付きという点においては、現状を見れば分かるが天草氏が圧勝した。大江天主堂も崎津の教会も紐解けば天草氏の政治による。これに対し、志岐氏の政治は凄まじい。切支丹になったが大して得るものがなかったそうな。志岐氏は仏教徒の反発と島津家の台頭、それらをかんがみ算盤を弾いた。そして迷う事なく切支丹を捨てた。以後、志岐氏の態度が一変する。宣教師を追放し、信者に迫害を加え始めた。そういう性格だったのだろう。
それにしても戦国末期の天草は泣けるほどに悲しい。この時期、豪族も五つに落ちついて天草五人衆などと呼ばれていたが、それら五人衆でドンパチしていられなくなった。竜造寺、大友、島津、それらに虎視眈々と狙われながら、あっちに付き、こっちに付き、色々アタフタしていたが、最後は島津に乗っ取られた。
新盟主・島津は言う。
「大友を攻めよ」
「えっ?」
天草五人衆、身悶えたであろう。大友家はつい先日まで盟主と仰いだ家である。嫌だが嫌とは言えない。暗い気持ちで出兵したに違いない。
悲劇は続く。ライバル手を組んで出陣すると、今度は豊臣秀吉がやってきた。すると今度は薩摩が戦陣捨てて逃げ出した。薩摩の特徴は見事な団結と逃げっぷりにある。それは関ヶ原で証明されている。大友を圧倒していたが、有利なそれをかなぐり捨て、一目散に逃げ出した。地元で秀吉を迎え撃つという。
可哀相なのは天草五人衆である。戦陣に打ち捨てられた。大友衆に囲まれてしまった。五人衆はここで殺されるべきであった。が、運というのは恐ろしいもので寄せ手は大友であり、切支丹であった。
「そこに天草氏がいるだろう。お前は同教のよしみで殺さない。降伏しなさい」
なんと温情が与えられた。天草五人衆は歓喜の声を上げたであろう。志岐氏の声が聞こえてくるようだ。
「天草よ、よくぞ切支丹を捨てずにいた! ラッキー!」
それからも悲惨である。今度は秀吉の命により島津を攻めさせられた。天草という島は盟主と仰いだところを次から次に攻めさせられた。むろんタダでは戦えない。領民は乾いた雑巾を絞るが如く、ありとあらゆるものを絞り取られ、ヤケッパチになったであろう。そういう心を切支丹の詩的世界が癒したとするのは想像に易い。
昨日の敵は今日の友というが、天草五人衆は一連のグダグダで完璧に団結してしまった。手を繋ぎ一緒に滅びた。これには団結というより禁断の愛さえ感じる。
秀吉は肥後の新領主として加藤清正と小西行長を派遣した。天草は小西行長の管轄になった。小西行長は宇土に拠点を置くという。天草五人衆に城造りの加勢をするよう命が下った。これに五人衆が反発した。
「おたくの城造りば何で手伝わんといかんとですか!」
五人衆が言うに、戦の加勢はしても城造りの加勢をする義務はないという。小西行長は秀吉に相談した。
「面倒くせぇ、殺してしまえ」
そういう流れで天草五人衆は仲良く滅んだ。
ちなみに、天草五人衆を滅ぼした加藤清正と小西行長は犬猿の仲である。清正は熱心な法華信者、行長は敬虔な切支丹、合うはずがない。最澄とザビエルに肩を組めというようなもので、二人は味方でありながら敵であった。当初、天草攻めは小西家だけで片付く予定であったが、志岐氏に夜討ちを食らって応援を求めたらしい。
小西行長は文官の典型である。石田光成同様、政治家として優秀だったと思われるが極端な戦下手であった。天草攻めにおいても秀吉の城攻めを真似たのか色々と内部工作をやったらしいが、清正はそういうところが気に食わないらしい。
「モジョモジョすんなー!」
言ったかどうか分からぬが、たぶん言ったであろう。上陸と同時に力で天草を制した。小西行長は裏で色々やっていたに違いない。そういう色々ごと、清正は叩っ切ってしまった。
(こいつだけは合わん)
お互いに抱いているそういう感情が朝鮮出兵のイザコザに繋がり、延いては家康に利用され関ヶ原へと発展していく。歴史なんてものは突き詰めればそういうものかもしれない。
宿に着いた。この日の宿は数少ない一町田の選択肢から名前で決めた。山口屋旅館という。どうせ泊まるなら旅籠屋(はたごや)がいいと思い、この名を選んだ。古くは単に山口屋だった思われる。昭和の高度成長期であろうか、旅館と名乗る事でハイカラに思われる時期があった。その時期に全国の旅籠屋が旅館になった。旅籠屋は今となっては死語だが、古い旅にはそちらが合う。
「ごめんよ」
とは言わぬが、俗な挨拶をし、宿の主人を待った。若い主人であった。一つの靴と同じくらいの年齢あろうか、体型も似ている。丸い体に丸い顔が付いている。奥さんも出てこられた。実に若い。美人である。主人の顔がいい。愛嬌の中に魚貝類が溶けているように思え、どう見ても美味い料理を出す顔である。
建物はお世辞にも新しいとは言えないが、道に沿った部分と玄関だけはリフォームしてあるようだった。外観は見るからに旅籠屋である。
部屋に通された。階段を登ると旅館から旅籠屋へタイムスリップした。リフォームしてあるのはほんの僅かであり、靴としては古いにこした事はない。廊下が良かった。歩き込まれ黒光りしている。歩くたびにキーキー鳴るのもいい。これだと忍者が忍び込めない。中庭もあった。部屋数も多いように思われる。間取りが複雑で見渡せない。階段も一つでなく複数ある。好きな雰囲気が漂ってきた。
「もしやここは飯盛旅籠屋ではありませんか?」
若い主人に聞いてみた。
「は?」
首を傾げられた。分からないらしい。
飯盛旅籠屋とは飯盛女を置く旅籠屋である。つまり泊まれて食べれて女が抱ける、そういう旅籠屋である。飯盛女の存在は公然とした秘密であった。禁止されているが必要とされ、宿場といえば必ず飯盛旅籠屋があった。むろんそういうのが嫌いな人もいる。嫌いな人は平旅籠屋に泊まった。
飯盛女は客に会うよう会わぬよう階段を使い分けていたらしい。間取りもあえて複雑にしていたようで、中央の中庭が見通しを妨げている。部屋の広さも酌してもらって眠るには手頃に思え、見れば見るほどそういう風に見えてきた。
「主人、素晴らしい旅籠屋ですね」
「そうですか?」
話していると腹が鳴った。主人の顔が食欲を刺激する顔で尚更腹が減った。夕食までは一時間くらいあるらしい。病的にギューギュー鳴り響いた。主人が笑ったので、朝から何も食べてない事を告げるとメロンパンをくれた。泣けてくるほど嬉しかった。
メロンパンを食った後、風呂に入った。汚れた服はビニール袋に入れている。汗だくのパンツをビニールに突っ込むと冷たい手触りがあった。昨日のパンツから魚肉ソーセージが出てきた。
「遅いっちゅうねん!」
突っ込みたいが突っ込む相手もおらず、悔しまぎれに脱衣所で魚肉ソーセージを食った。
料理も見事であった。海の幸が「これでもか!」と言わんばかりに出てき、「もう食えん」という段階で岩牡蠣の山盛りが出てきた。サービスらしい。さすが風貌に美味しさが溶け込んでいるだけある。見た目通り大満足であった。
路銀がないので焼酎を一杯だけ頼んだ。焼酎の盛りも良かった。お得に思えたのでもう一杯頼んだ。更に盛りが良かった。気分がいいのでもう一杯だけ呑んだ。
夜の一町田を歩くつもりであった。下駄も浴衣も貸してもらえるらしい。寂れていてもコンクリートで固められていても、ここ一町田は紛れもなく天草氏の城下町である。夜風に吹かれれば中世の天草が見えるかもしれない。
浴衣に袖を通した。ちょいと横になった。うっかり眠ってしまった。時計を見ると午前三時であった。散歩を諦め、厠へ行こうと部屋を出た。漆黒の闇に床が鳴った。
古い旅人や遊び人も私と同じように飲み過ぎて、夜中に起きた事だろう。寝ている女を起こさぬようそっと立ち上がり、忍び足で厠を目指したに違いない。そして一つの靴と同じように、この床の音に驚いたであろう。ハと我に返ったに違いない。
「俺ってば、何やってんだか?」
飯盛旅籠屋はよくできている。気付き、憧れ、また遊び、男はそうやって銭を散らすようにできている。やってる事のおかしみに気付かねば遊びは長続きしない。その点、旅も文章も酒と同じ遊びである。
「何やってんだか?」
何度もそう呟くが、どうしてもやめられない。それが遊びである。
厠から戻った後、眠れず色々考えた。古い遊び人も同じ天井を見上げながら色々考えたに違いない。靴の耳は雨音を聞いている。どうやら降ってきたらしい。遊び人は女の寝息を聞いていたであろう。
ぼんやりと窓が明るくなってきた。遊び人も同じ光を見たと思われる。そして言ったに違いない。
「やっぱやめられん」
遊びこそ生きる源かもしれない。
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