天草一つの靴 〜小字をゆく〜
【四日目】一町田〜下津深江
昨晩遅くから強い風が吹いている。春一番らしい。
旅籠屋で聞く乾いた風は旅情を盛り上げてくれたが旅人には天敵であった。宿を出た瞬間、春一番に噛み付かれた。重く巨大なリュックが風を受け、ふらふらしていけない。右から吹けば左に流れ、前から吹けば進めず、後ろから吹けば止まるに難儀、実に危うかった。
幸い雨は止んでいた。が、空はどんよりしていた。天気予報が言うに昼から降ってくるらしい。
猛烈に過ぎゆく風は潮の香りが濃い南風であった。一つの靴は向かい風と筋肉痛に苦しみつつ、風をかき分け前へ進んだ。風が合羽の下へ潜り込みベタベタしてきた。どうも湿度が高いらしい。
一町田川にぶつかった。左手に四ヶ本寺の崇円寺があった。強風にじっと耐えているからであろうか、風景が暗いからであろうか、不気味なまでに堂々としていて、
「寄れ! 寄らぬか!」
そう言っているように思われた。
三十段ほどの石段が山門に続いていて、石段の脇を見事な石垣が固めていた。石垣には巨木が絡んでいて自然な崩れが何ともいえない。
それにしても威圧感がある。四ヶ本寺といえば隠れ切支丹を圧迫するため作られた寺の四天王であるが、この寺の威圧感は群を抜いているように思われる。それだけ天草氏の領域に切支丹が多かったという事かもしれぬが、他に理由があるかもしれない。
石段を登り、賽銭を投げ、奥の方へ進んでみた。城跡があった。この点、栖本町の円性寺と似ている。城が消えた後、郡代所になり、四ヶ本寺が創建された。低い山が古い政治の結晶と化していて、二つとも変わるところがない。
木に囲まれた道は風が弱かった。崇円寺から河内浦城まで僅かな山道であったが激しい変化に驚いた。
(昨日だったら良かったのに!)
地図を見て嘆かざるを得ない。昨日は山道の連続だったが今日は海の道である。羊角湾を西へゆき、西海岸を北へゆく。風から逃げられそうにない。
城跡に着いた。と、同時に、寄り道した事を少しだけ悔いた。どこまでが寺だったのか分からぬが、寺を出た瞬間、「河内浦城跡公園」に出た。固められ、歴史が息をできずに泣いていた。
公園化という名の公共事業が史跡をぶっ壊した例は書けばキリがない。が、その中で特に愕然としたのは名護屋城(佐賀県)である。言わずと知れた朝鮮出兵の拠点である。秀吉の悪夢で生まれ、秀吉と共に消えた。これほど慌しい城と街は珍しく、事故として歴史に処理された。荒々しく打ち捨てられ、生々しく近代に残った。
一つの靴は若い頃に名護屋城を見、感動し、初めて歴史というものの感触を得た。辞世の句というものを初めて記憶したのも名護屋城である。
「露とおち露と消えにしわが身かな、なにわのことも夢のまた夢」
秀吉辞世の句で、公園化される前の名護屋城は泣けてくるほどこれが合った。荒れっぷりに秀吉の涙が染み込んでいて、捨てられっぷりに歴史の怒りがあった。
「これが史跡というものか」
興奮し、遥か先の朝鮮半島を眺め、丸一日そこで過ごしたものだが、その名護屋城を公園化の魔の手が襲った。数年後、ハイカラな公園になってしまった。隣に博物館もできてしまった。旅人はその変貌に泣くしかなかった。泣かずにはいられなかった。秀吉の涙が重機で細切れにされ、違うものとして整理整頓されてしまった。
「嘘だろ、おい!」
今度は違う涙で本丸跡を濡らさねばならなかった。むろん、それから行っていない。
名護屋城は靴を歴史に引っ張った初恋の人である。初恋の人がコンクリ漬けにされ、奈落の底に落とされてしまった。忘れたいと思っているが、どうしても忘れられない。それが男というものの悲しき初恋であって、靴は似た史跡を今も探し続けている。
初恋の代わりになるものを机上で幾つか発見した。例えば空前絶後の浪費家・聖武天皇が遷都を繰り返し、最終的に平城京に落ちつくまで幾つも都を造った。それらも事故として歴史に処理された。歴史に組み込まれるには時間が足りず、捨て置くには大き過ぎた。人の怒りもじゅうぶん感じられた。打ち捨てられたらしい。が、残っているとは言い難く、足を運んだが思い出の名護屋城とは別人であった。
河内浦城跡をぼんやり歩いた。政治の定番に沿って発掘調査をやったと思われる。変なものがいっぱいあった。行政は発掘調査をやった後、慣例として変なものをいっぱい作る。掘るのはいいが、変なものは作らないで欲しい。中世山城の雰囲気が公園化で吹っ飛んでしまっていた。礎石のあった場所であろうか、ちょうどいい丸棒があったので、そこに座って崇円寺の事を考えてみた。
崇円寺は目の前にある。靴は高台にいるので見下ろすかたちだが、寺領だけ手付かずで、周りは重機の跡で覆われている。四面楚歌にも見えるが凛としているようにも見える。もしかすると胡坐をかいて政治を睨みつけているのかもしれない。江戸時代、四ヶ本寺には目付が置かれたらしい。つまり行政(庄屋など)の監視を担ったが今も監視を続けているのだろうか。考え過ぎかもしれぬが、この風景はそういう想像をかきたてた。
崇円寺は浄土宗である。法然が開いた。本山は知恩院である。一つの靴はこの法然という人が好きで、正しい把握か分からぬが、
「南無阿弥陀仏と言ってりゃいい、寺も仏も不要だよ」
そう言ったと記憶している。このシンプルさ、たまらなく好きである。今の浄土宗がこれに沿っているかというと知恩院の立派な造り、崇円寺の威容、闘争の歴史、どれもしっくりこないが、少なくとも法然の心は残っているに違いない。
「寺領を固めるのは許さん! 無用なコンクリは消えよ!」
そう言って寺の味を保ったとすれば法然の心が旅人を喜ばせた事になる。
想像が尽きない。風景から勝手な想像を楽しんでいる。旧河浦町という行政区を考える時、この崇円寺という寺が孤軍奮闘した姿を想い、浄土宗、延いては法然を楽しんでいる。
想像は更に飛ぶ。真宗である。真宗は浄土宗の分派である。勝手に想像しているが、気楽な浄土宗を更に気楽にしたのが真宗であろう。親鸞が開いた。
「南無阿弥陀仏ですか? 言ってもいいけど言わんでもいいですよ。要は阿弥陀如来を信じればいいんですよ。信じるものは救われるんです」
真宗は浄土宗の念仏を軽くし、信心のみで救われるとした。更に僧の妻帯も許すとし、色んな事が気楽になった。
「いいんじゃない」
この気楽さは民衆にウケたと思われる。特に庶民にウケた。が、宗教・思想というものは気楽では成り立たぬものかもしれない。現在の日本人を見たら分かるが、「こうだ!」という強引な理屈で叩き伏せねば思想がふわふわ浮いてしまうらしい。自分がどの宗派に属しているかも分からなくなる。寺など必要なくなる。つまり神社仏閣は経営できなくなる。
真宗は一時期萎んだ。が、乱世の真宗は変わった。室町時代の真宗は一向宗という別名から分かるように徹底的に阿弥陀如来を活用した。というより自由な真宗が最も乗っかりやすく、担がれたのではないか。親鸞が「いいんじゃない」としたのに対し、蓮如を一とする中興の祖は「これしかない!」と阿弥陀如来で固めてしまった。それにより攻撃的な石山本願寺が生まれた。北陸では既存の勢力を駆逐し、一向宗独立国家が誕生した。
親鸞と蓮如の真宗は全く別物に思える。万物は揺り返しであって、今の真宗は親鸞風に落ちついているが、いずれ蓮如風になるのではないか。蓮如風の真宗になれば今の日本人は逃げ出すに違いない。少なくとも靴は逃げ出す。
真宗ついでに考えるが、天草の真宗は鈴木重成・正三兄弟をどう思っているのだろうか。善政を敷き、切支丹を寺で圧したところまでは文句の付けどころがあるまい。だが禅宗と浄土宗に大きな特権を与え、真宗には在野説教の権限しか与えていないというのは僻みの元になるだろう。切支丹の転び先は真宗で、檀家は増える一方だったから経営も安定し、意外に不満はなかったのだろうか。もし当時、真宗が蓮如風だったなら増える檀家を扇動し、攻撃的になってもおかしくないと思うが、さて、その辺どうだろう。江戸の末期、天草は打ち壊しが頻発した。それを煽っていたのは蓮如風真宗ではなかったか・・・。
色んな事を考えたがキリがないので思考を捨てた。捨てても捨てても次なるお題が与えられるのは旅の醍醐味である。捨てる事を恐れたら前へ進めない。
天草コレジヨ跡公園という政治の汚物が近くにある。コレジヨとは神父を養成する切支丹の最高学府であるが、これが紆余曲折を経て天草に落ちてきた。切支丹大名の小西行長を頼ってきたらしい。
「コレジヨは天草氏の拠点・河内浦にあったのだ!」
「いいや、違う! コレジヨは本渡にあった!」
未だに天草コレジヨの場所は分かっていない。学者の意見が分かれたらしい。論争が始まり、ついには色んなものを交えて大喧嘩になった。学者肌と呑めばこの種の喧嘩は頻発する。これに政治が介入し、町おこしが絡むと邪馬台国問題になる。現にコレジヨ問題は邪馬台国問題と同じ道を辿った。吉野ヶ里が大規模な歴史公園を造ったように旧河浦町は天草コレジヨ跡公園を造った。更に天草コレジヨ館という博物館まで造ってしまった。まるで子供の喧嘩だが、人は熱中すると子供に返る。時間が経って熱引いて、やっと我に返るのだろう。喜んだのは政治家・土木業者・発掘業者で、他は負債を被った。むろんこういう泥臭いものが住民や観光客に喜ばれるはずがない。時を経て、力いっぱい寂れている。いずれ捨てられ廃墟と借金が残るだろう。
一つの靴は公共事業を恐れている。触らぬように見ないように進路を選んだつもりであるが、歴史は格好のネタらしい。逃げても逃げても追いかけてくる。
「ここは大丈夫!」
確信あっても既に手付きで固まっている。政治という奴はメデューサか。石化する目が史跡や田舎を狙っていて、どうも逃げ場がない。
一つの靴は崇円寺へ逃げた。城跡公園にいては変な想像が尽きないだろう。再び賽銭を投げ頭を下げた。百円という高額賽銭に強い気持ちが滲み出ていた。
「崇円寺は四面楚歌でありながらメデューサと戦っている!」
勝手にそう決め付けた。崇円寺の戦いは孤独だが孤独ゆえ百円を投げたくなった。いずれ人の心を打ち、天草の心を打つだろう。初対面で感じた群を抜く威容がありがたかった。既に滅びてしまったが、ビルの谷間の長屋の如く、地上げ屋と戦って頂きたい。切支丹を圧する必要がない今、肩の力を抜き、民衆の風景になるはずの寺が肩凝りに悩んでいる。それもまたよし。四日目の気分が出鼻から盛り上がった。
崇円寺を去った。と、同時に強烈な向かい風が襲ってきた。忘れていたが今日の敵は春一番である。一町田川に沿って南下し、下田と釜、二つの集落を苦しみながら越えた。
釜で国道に乗った。古い道は釜から左、森を歩いて権現山を越えたと思われるが、地図で道が追えず、宿の人からも「そこは行けんでしょう」と言われたので海沿いを歩いた。道なき道を歩くのは旅の喜びであるが、どうも獣が怖い。臆病が続いている。
釜という集落に広い田があった。干拓地だと思われる。調べてみたら「安永二年、御領村銀主山崎宗秀築造の釜新田五十三町」とある。御領といえば下島の北に位置し、ここ一町田までかなりの距離がある。とてもじゃないが一日では歩けない。
銀主というのは当時の金貸しや大金持ちである。商売をやりながら農民にカネを貸し、返せない時は田畑を取り上げた。農民が小作人になるのはこの瞬間である。
御領村の山崎なる銀主はよほど裕福だったと思われる。こうも離れた場所に資本を入れて干拓を行うなど、当時の天草として正気の沙汰に思えぬが、それだけ広く立ち回れるだけの人と財力を持っていたのだろう。昨今の人間は貧富の差を「格差」と呼び、政治と共に悲痛な合唱を続けているが、古くから格差はあった。それも露骨にあったと思われる。同時に「たけきものはついにはほろびぬ」という諸行無常の循環もカタチを変えずそこにあった。世が荒れた時、荒れそうになった時、「たけきもの」は一番に叩かれる。打ち壊しで農民に叩かれたのは銀主であり、マスコミ・国民に叩かれたのはライブドアであり、その点、今も昔も格差は是正されるように自然の力が働くらしい。そう考えると確かに冨というものは「かぜのまえのちりにおなじ」で、すがるべきものではない。
羊角湾の道に入った。広い国道が陸と海の境を走っていて風を遮るものがない。目の前の風景が実に荒々しい。島かと思えば陸続きの突起であり、その突起から更なる突起が飛び出して、更に更にと突起が続く。つまり激しく入り組んでいる。上下の突起も急である。平地がない。背後は崖のような斜面であって、対岸も同じようなものである。ここに道を通すのは至難のわざで、土木技術の発達を待たねばならなかった。羊角湾の交通は近代まで船であり、陸の道は山中を細々と走る杣道の域を出なかった。
先に触れたが、山中の杣道が追えていない。木こりの消滅と共に消え果てたと思われるが、その前段として海岸沿いに道が通った。入り組んだ海岸をなぞりながら道が通り、次いで山に風穴が開いた。
一つの靴は絶対にトンネルを通らないと誓っている。トンネルを迂回しながら西へ進んでいるが、それは海を歩いているようなもので春一番をまともに受けた。
水越、小島という小さな集落を越えた。小島という集落が実に良かった。おしくら饅頭をするが如く、狭い谷に民家が寄り添っていた。谷の一番深いところに神社があって集落を見下ろしている。集落で神社を守っているのかもしれない。集落の前方、谷の出口には田んぼが広がっているが、古くはここまで羊角湾が迫っていたのだろう。斜面には天草恒例の急な段々畑が見える。ここで僅かな農作物が取れたかもしれぬが主食にはならなかっただろう。魚の添えものとして唐芋などを植えたのではないか。
これから西海岸にかけ、似た風景の集落が続く。これらに共通しているのは平地が少ないという事ではない。平地がないという事であり、稲作文化における貧しさは想像に余りある。ただし僅かながら救いがあって、先の見えない広い海が身近にあった。外洋である。丸みを帯びた水平線は煌びやかな想像を許したであろう。
志岐氏の戯れに端を発した天草の切支丹は、政治に捨てられて尚、土地と共鳴し続けた。燃えて叩かれ隠れて泣いて、切支丹の詩的世界は土地の赤貧を支え、様々なドラマを生んだ。その余韻が羊角湾と西海岸に今も残っている。
目の前に崎津トンネルが現れた。これを抜ければ崎津の街であるが、古くはトンネルの上を歩いたと思われる。地図に破線があった。トンネル手前から左に逸れ、道を探したが分からなかった。土地の人に聞いても分からなかった。
「どぎゃんじゃろか? 小さか頃は行きよりましたが今は太か道のあるけん通らんですたい」
高齢の方がそう言われたので、昭和の早い時期に消えたのかもしれない。仕方がない。再び海沿いの道を春一番と共に歩いた。
それにしても時間がかかる。トンネルの五倍は歩くだろう。風もいけない。波が荒く、大きいものは道に飛び出してくる。なるべく山沿いを歩くようにしたが、それでも足元が濡れてしまった。
入江の先に崎津天主堂が見えた。
切支丹禁制が取り下げられたのは明治五年である。二百年以上も隠れていた切支丹は洞窟の中にいたようなもので日光を直射できなかったであろう。「出てきなさい」と言われても出ていけなかったに違いない。徐々に徐々に目を慣らし、少しずつ這い出てきた。崎津天主堂の完成は明治十九年である。何と禁制が解かれてから十四年も経っている。それだけ本格的に隠れていたという事で、おっかなびっくりな様子がよく分かる。
「アルメイダの足跡が今も天草に残っている」
この噂を聞いた伝道師は感動のあまり卒倒したであろう。失禁したかもしれない。伝道という行為に価値を見出すとすれば、これ以上の奇跡はない。伝道師は喜び勇んで天草に駆けつけた。二百年以上弾圧され、それでも生き続けた切支丹が天草にいる。
「彼らは神父を欲している!」
伝道師はそう確信し、先を急いだ。が、実際は打ち解けるまでに多くの時間が必要であった。
隠れ切支丹は先祖の言い付けを忠実に守る事でアルメイダの足跡を保持してきた。が、その言い付けが「切支丹である」という強い意識はなく、末裔に至っては隠して伝えなければならない「家の伝統」になっていた。
伝道師は泣いて受け入れられると思ったはずだ。が、思ったほど盛り上がらず、ガッカリしたに違いない。
「アナタタチガ、マモッテキタノハ、カトリックデス! イエス・キリストデス!」
「そぎゃんですか」
隠れ切支丹の末裔は伝統として「でうすさま」を祀ってきた。が、それ以外の事はよく分からない。伝道師が幾ら熱く語っても、
「そぎゃんですか」
苦笑いの連続だったと思われる。代々受け継いできた伝統と伝道師は全く共鳴しなかった。
一つの靴は入江越しに崎津天主堂を眺め、これが建つまでの十四年を考えた。申し訳ないが腹が痛くなるほど笑ってしまった。伝道師は変異した切支丹を元に戻そうと躍起になったであろう。十四年という時間をフルに使ったのではないか。隠れ切支丹は「そぎゃんですか」と頷きつつも実はよく分からなかったし、分かるつもりもなかった。時間に揉まれた伝統は既に文化・風習と化し、血肉に溶けていただろう。血肉に定義付けはいらない。「こうだ」と説明されても迷惑なだけではなかったか。
「どぎゃんでんよかです」
そう言ったかもしれず、言えなかったかもしれない。伝道師が爆発する事もあったろう。
「これなら仏教徒を相手にしたほうがマシです!」
ヒステリーを起こしたかもしれない。
もう少し続ける。隠れ切支丹の家では男が生まれたらジュアン(寿庵)、女であればマルヤ(丸屋)と秘密の名を付ける伝統があったらしい。伝道師は叫んだであろう。
「それは聖母マリアの事であって、キリストの聖母なんです!」
「そぎゃんた知らんですよ! マルヤはマルヤですたい! そぎゃん決まっとるとだけん!」
「もー! 説明してるんだから聞きなさい!」
伝道師のイライラが聞こえてくるようで腹が痛い。
ちなみに隠れ切支丹は隠れているため表面上は真宗である。人が死ねば坊さんが来てお経をよんだ。言い伝えによると、お経を消さねば死者が天国へ行けないらしい。ここで経消しの壺という秘密兵器が登場する。これに経消しの唱言を吹き込むとお経が消え、スッキリ天国へ行けるという。唱言の内容も凄い。先祖が残したラテン語が変わったものらしいが、意味不明な呪文に変わっていて、何となく密教っぽい。
隠れ切支丹が祈りを捧げていた像もいい。ちゃんとした「でうすさま」や「じゅわんさま」もあったが、中には弘法大師(空海)の人形もあった。銭を「サンタ丸ヤ」と言って所持していた者も多かったという。ダジャレではないか。祈りの中身も現世利益を求める仏教傾向にあったらしく、何か色々なものがゴチャ混ぜになって新たな宗教になっていたらしい。日本という国の多神教の根付きを感じる。
伝道師の苦闘が頭から離れない。
「違うって! だからこういう意味って言ってるでしょー!」
「そぎゃん熱くならんでよかですよ、まぁ、茶でも飲みまっしょい」
「もー!」
笑えた。実に笑えた。本気で腹が痛くなった。この風景を想像すると、踏み絵という悲しいリトマス紙がちょっとした喜劇に思えてくる。むろん隠れた当初は涙を流して踏んだであろうが後世は思いっきり踏ん付け、
「ありゃ誰の顔かい?」
「知らん」
そういう会話をしたのではないか。
以上、勝手気まま想像であるが、旅先で笑えるというのは実にありがたい。笑っているうちに風を忘れ、崎津天主堂に着いてしまった。
崎津天主堂という建物は海越しに見た方が美しいように思える。もし海が静かであったら海面にもう一つの天主堂が映るだろう。今日は大荒れのため、海は黒い洗濯板になっているが、それでも間近で見るより海越しに見る方が絵になるように思われた。
天主堂は昭和九年に改築されたものらしい。落ち着いた灰色がいい。ヨーロッパの中世美術様式でゴシック風というらしい。どのあたりがゴシック風なのか、知識ゼロで全く分からぬが、どぎつくないのがいい。洋風なのに不思議と日本の集落に溶け込んでいた。
田舎の集落は個性がないように見えて実は個性の塊である。個性の中に今時の家が建ってしまうと、笑えるほどに浮いてしまう。が、崎津の風景にはそれがない。ゴシック風というのは万国の風土に調和するのだろうか、それとも周りが調和したのだろうか、よく分からぬが今時のハウスメーカーは崎津で学んで頂きたい。ナウい家の普及により、田舎の風景は危機的状況に陥っている。
中に入った。誰もいない教会に初めて入ったが、確かに心休まる雰囲気があった。寺とは明らかに違う。和式便所と洋式便所の違いというか、菊と薔薇の違いというか、よく分からぬが何かが決定的に違う。どちらが良いというわけではない。それは気分によると思うが、教会は靴に深呼吸をさせた。恐ろしく気が休まる。畳敷きに高い天井、前方から差し込む優しい光、磨き込まれた祭壇、全てが眩いばかりに意味ありげでなぜか落ちつく。宗教というものは遠目に見てると争いばかり、醜くて嫌になるが、寄ってしまえば美々しいものが多い。思想が芸術品を生むらしく、それに関してはお互い認め合う事もできるのではないか。論理という切れ味鋭いものをぶつけ合うから喧嘩になる。お互いに寺や教会を行き来して芸術品の見せあいっこでもしたら、底の部分で共通点を見出す事ができるかもしれない。
「おたくの阿弥陀如来、すてきねぇ、ホントいい顔」
「おたくのマリア様だって美しいわ、藤原紀香が裸足で逃げ出しますわ」
「真宗さんはお世辞が上手ねぇ」
「そういうカトリックさんこそ、ホントに洗練されてるわ」
「オッホッホッホ!」
ところで日本人というのは、よほど適当にできてるらしい。ズボラともいえるが許容力抜群ともいえる。元が遊牧民だからであろうか。歴史的に飽きっぽく、色んなものを受けて入れてきたからであろうか。よく分からぬが、細かい論理を積み重ねられても要領を得ず、ぼんやりしたもの、例えば芸術品や象徴物がドンとあれば何かが掴める種族らしい。
一つの靴は天草における切支丹について色々考えた。旅に出る前、北原白秋の邪宗門を読んだり、隠れ切支丹の文献を漁ったり、色々やったが何一つ分からなかった。切支丹とは天草にとって何だったのか。史跡や文献は教えてくれず、博物館も無言であった。が、崎津天主堂は直球で教えてくれた。
「ポエムよ」
名フレーズ「ナオミよ」と同じ語調で靴に響いた。これは極めて勝手な断定であるが、スッと出たものは要領を得ている事が多い。一つの靴はその確信を元にこれまでの文章を書いたし、もう少し天草の事を考えようとしている。
詩とポエムは違う。詩は山から下りてきて、ポエムは海を渡ってくる、勝手にそう思っている。ポエムは天草の赤貧を激しく酔わせ、痛覚を鈍らせた。特に春一番と歩いている下島南部は酔いが激しく、崎津や大江には後世の旅人も酔わせてしまう甘い甘い香りが残っている。これは呑みなれた焼酎や日本酒の香りではない。しっとりとしたワインの香りであって、旅人はメロメロにならざるを得ない。二日酔いに注意であった。
酔い醒ましに不毛な事も考えた。この教会に漂っている人の心である。
信者は高い割合で隠れ切支丹を先祖に持っているだろう。つまり信者の先祖は政治により日の当たらぬ場所に追い込まれ、政治により引っ張り出された。この間なんと三百年、恐ろしい時間が経過している。末裔の信者にとって崎津天主堂、大江天主堂は何なのか。よく分からぬが、この建物には三百年分の何かが詰まっているに違いない。末裔は静かに三百年の祈りを捧げたいと思っているだろう。が、それには少し騒がしくないか。又しても政治に振り回されているのではないか。今度は町おこしの犠牲になっているのではないか。例えば祈りの言葉を神に捧げる、この行為は禅宗において座禅のようなものである。真宗では何か。違うかもしれぬが法事であろう。仮に身内の三回忌を観光客が見守っているとすれば、あまり良い気はしない。禅宗にしても座禅を観光客に見つめられるというのは嫌であろう。何とも言えぬが天草の切支丹は今も昔も賑やかで、大変なように思われた。
崎津天主堂を後にした。変わらず海沿いの道が続いている。右手は岩壁であって、岩肌に墓が並んでいた。崎津というと全て切支丹に思えるが、墓を見ると仏教徒が多いように思われた。和風洋風ごちゃ混ぜに並び、海を眺めている。何となく中睦まじい景色であった。
民家にも注目した。切支丹の特徴がないか調べながら歩いたが、注連飾り以外は特になく、強いて言うならポストが切支丹風の家は幾つかあった。むろん、そういう家は注連飾りがない。天草の注連飾りは正月だけでなく、仏教徒なら一年中出す。昔の名残で「うちは切支丹じゃない」という意味だが、今も風習として残っているところに弾圧の凄まじさが滲み出ている。
雨が降ってきた。空を見上げると風上が明るかった。すぐ止むと思われ避難場所を探したが海と岩しかなかった。その代わり遠見番所の跡があった。跡といっても棒が立ってるだけであるが、古い時代、ここで海の見張りをしたらしい。唐通詞という中国人相手の通訳もいて、崎津は海の要所であった。
海の要所といえば崎津は定浦(じょううら)であった。定浦とは政治が定めた漁港である。名君・鈴木重成は天草で七つしかこれを認めなかったらしい。定浦には弁指という役人を置き、漁獲に対して税を取ったそうな。海がある。だから食えるというのではなく、漁船が出せる場所は決まっていて、政治の目が行き届く仕組になっていた。何にせよ崎津は古い時代から海の要所で、天草屈指の港町といえる。
国道と合流し、すぐに国道から逸れた。最も新しい道は山を貫き真っ直ぐ進むが、二番目の道は海岸線に沿って進む。三番目の道は山深くをゆく。三番目を歩きたいが、ここの杣道も消え果てていた。
小高浜を越え、軍ヶ浦(いくさがうら)に入った。雨はすぐに止んだが光が衰えつつある。すぐに降ってくるだろう。
軍ヶ浦は崎津と同じ海の要所である。歴史も古い。倭寇が拠点にしたらしく、倭寇によってこうも勇ましい名前が付いたと思われる。中世は天草氏の抱える重要な港だったらしい。切り込んだ入江が天然の良港を成していて、古くから愛されたのがよく分かる。陸は盆地、海は入江、古い時代の愛され要素である。
村の入口に小さな造船所があった。小船を造っているらしい。木造の船も造っているようで、立派な竜骨が飾ってあった。港は硬い。当たり前だがコンクリ製である。
歩きながら倭寇の港を想像した。コンクリの港が石積みの港に変わった。造船所が同じ場所にある。立派な竜骨が三つも四つも並んでいる。男たちは天然の良港に家族を置き、海へ出ていく。仕事は非道な海賊だから、神頼みは欠かさない。そういう人たちは今も昔も信心深い。港を見下ろす高台に立派な神社がある。軍ヶ浦の氏神は十五社である。十五社は乱後与えられたものだから、古くは八幡様(戦の神)か海神を祀っていたのではないか。
港に立って周囲を見渡した。農作物が全く見えなかった。手元の本に「軍ヶ浦、高十三石余」と書いてあるが、米ではなく魚を納めていたのだろう。稲作文化というのは、ある種計算が立つ保険の文化であって、だから組織化に向き、人口増加に耐え、この国に定着したが、こういう風に狩猟文化も僅かだか抱えている。狩猟の民は思想の根本が違う。基本、其の日暮らしである。倭寇という荒々しいものは其の日暮らしの蓄積から生まれたものあって、それが消え、長い時間が経過したとしても風土として狩猟の気質が残っているのかもしれない。何にせよ軍ヶ浦には田畑が見えない。狩猟の名残といえるのではないか。
狩猟文化が一つの靴を興奮させた。あれほど懲りたのに、また杣道を登り始めた。港から民家の脇を抜け、古い道が山へ向かって伸びている。首越峠というが、その旧道がこれらしい。地図は破線である。つまり国土地理院に自信がない。教良木で迷った道もこの破線であった。
風土というのは土地が発する気みたいなものかもしれない。その点、今思えば愚行と分かるが軍ヶ浦では全く疑わなかった。狩猟文化に飲み込まれていたのかもしれない。
かなり登った。登った末に道が消え、それでも森をかき分けた。一つの靴を正気にさせたのは獣であった。狸か犬か分からぬが目の前の茂みを黒い何かが駆け抜けた。それで我に返った。一つの靴は一目散に駆け下りた。
結局、首越峠を舗装路で越えた。この道は古くなった道ではあるが古道ではない。天草氏やアルメイダが歩いた道は北の山を通っている。歩きたいが「今では全く通行不能」と古い旅行誌に書いてあった。足元の硬い道は昭和三十八年の完成らしい。誰も通らぬ舗装路を一つの靴は悠々と歩いた。
カタチあるもののの寿命が急激に短くなりつつある。道具、家、道、その他色々、文明の根本は使い捨てだが、やはりどこか虚しい。心が犠牲になっているのではないか。
唐崎という集落に下りた。川を渡ると横浜になり、もう一つ川を渡ると浜里という集落になる。この辺りが大江村の中心で港がある。大江浦と呼ぶらしい。
ここまで陸路を歩いてきたが、古い時代の陸路はオマケみたいなもので、幹線は海である。大江浦、軍ヶ浦、崎津と越え、川を伝って一町田へゆく。地図を見ているとワクワクしてくる。川から山城が見えただろう。一町田の賑わいも聞こえてきたに違いない。今はなき城下町の姿である。
大江浦には平地があった。高浜村の銀主が入江を埋めたらしい。干拓地の名を大江新地という。小さな街を成していたので昼飯にしようと探したが、二つあった食堂が閉まっていた。
ぶらぶら入江を歩いていると広い池に出た。お万ヶ池というらしい。龍が棲む池らしく色々な伝説が書いてあった。もちろん公園化していた。視線を逸らし先を急いだ。
北へ向かって歩いていると左手に大江小学校があった。その奥に江月院という曹洞宗の寺があった。休憩すべく向かったが、寄るたびに崇円寺との違いが際立った。寺というのは思想の結晶である。雰囲気が全てであり、合う合わぬは直感である。直感に従い、国道へ戻った。「急げ、雨が降る」という神のお告げだろう。
旧国道を北へ向かって歩いた。大江浦から先、春一番が追い風になった。もし靴が自転車に乗る旅人であれば凄まじい勢いでかっ飛ばしただろう。自転車の旅は日に二百キロが限界だと思っていたが、東北を走ったあの日、南風に乗って三百キロかっ飛ばした。が、その翌日、向かい風に打たれて百キロも走れなかった。風と自転車はそれくらい関係がある。
一つの靴は春一番に乗って速度を上げると思われた。が、歩きというのは難儀なもので、向かいもキツイが追いもキツイ。バランスが崩れるだけで速度は上がらなかった。
本格的に雨が降ってきた。と、同時に大江天主堂に着いた。大江天主堂は完璧に観光地化されていた。広い駐車場があって、その前に「天草ロザリオ館」という博物館があった。それで終わりと思ったら、その奥には「まちのおもちゃ箱」という玩具資料館まであった。恐れ入谷の鬼子母神である。大江天主堂に町おこしが乗っかっていた。
整備された小道を登って天主堂を目指した。白亜の教会というのはこういう建物を指すのだろうか。けがれなきホワイトが丘の上にあった。この天主堂はロマネスク風建築らしい。崎津同様意味不明だが個人の感想として悪くない。晴れてれば海や空の透ける青と良いコントラストを成すだろう。が、一つの靴は猛烈に濡れている。空は黒っぽい灰色で、雨だけでなく雷を落としそうな雰囲気もある。
大江天主堂の前に立った。暗い景色も悪くないと思った。良い芸術品は場所や場面を問わぬらしい。
グルリ建物を回った後、靴を脱いだ。中に入りたかったがビショ濡れであった。足を拭き、入口に立ち、中を見渡し場を去った。一瞬見た感想だが崎津同様心休まる雰囲気が満ちていた。濡れた体で気が休まれば風邪をひいてしまうだろう。
天主堂の下にガルニエ神父の墓があった。ガルニエ神父は天草・フランス・カトリック、三者が胸を張れる偉人であろう。無償の愛の体現者でもある。
ガルニエ神父は四十七歳で天草に来た。それから八十二歳で亡くなるまで一度もフランスに帰らなかった。教団からは二年に一度、帰省手当てが出ていたらしい。が、その全てを貧民の救済や貯蓄に充てた。服はボロボロ、食うのは麦飯、「ぱあてるさん」と慕われたガルニエ神父は天草弁のみ喋ったらしい。フランス語を封印し、天草の土となる事を誓ったのではないか。事実、ガルニエ神父は異国に半生を捧げ、大江の土になった。
一つの靴は無償の愛というものを未だに理解できないでいる。たぶん死ぬまで理解できないだろう。オギャーと生まれ死んでいく九割九分九厘の人が理解できないに違いない。が、こういう人がいたという話を聞くと、無償の愛の存在だけは知る事ができる。理解できぬが人としての極みに思える。
ガルニエ神父は貯めた金で大江天主堂を建てた。孤児を預かり、貧民に施し、どうやって貯めたか分からぬが、とにかく貯まった。が、実際に建ててみると足りなかったらしい。ガルニエ神父の恐ろしさはこの時の対応にあって、フランスの親族から借りてきた。「信者に迷惑をかけない」というのがその理屈であるが、受益者からは取れず、身内からは取れるという感覚が靴には理解できない。無償の愛とは潔癖なまでの一方通行を指すのだろう。
ガルニエ神父は死ぬ間際、「墓などいらん」と言ったそうな。「その金があるなら貧民に回せ」とまで言ったらしい。死の淵まで潔癖だが、そこまでしたから後世の評価が輝いている。ガルニエ神父は後世が自分の事をどう評すか分かっていたと思われる。その上で、どう生きねばならないかも分かっていたに違いない。そしてそれを成すには強い信念が要る事も悟っていた。偉人というのは自らの人生を客観的に眺め、主題を探し、綿密な脚本を描き、脚本に沿って厳密に歩いた人である。頭が下がる。
目の前にガルニエ神父の胸像がある。人間なんていうものは死ねば何の力も持たない。墓も胸像も後世が立ててしまった。ガルニエ神父の脚本は既に完結している。が、その脚本の余波としてそういうものが建つのであれば、神父も想定の範囲内であろう。自らが誰かの人生を真似たように誰かがガルニエ神父を真似てくれれば人のか弱き一生も僅かながら光る。
ガルニエ神父の想定外は町おこしに担がれた事ではないか。商業主義はガルニエ神父の思想から思いっきり外れるように思われる。が、貧民に施しをする人がいない今、こういうかたちでカネが落ちるのも致し方ないのかもしれない。何とも言えない。
ちゃんぽんを食って外に出ると大雨であった。今日の宿は下田温泉で、古くはそこを下津深江村と呼んだ。下島を一気に駆け上がらねばならない。
ちゃんぽん屋で透明なビニール袋を貰い、それに地図を入れ、顔を伏して道に出た。駆けているのは野中という集落である。地形に沿って駆け上がり、舗装された小道を北へ向かった。坂道の脇に豚舎が多かった。下津深江の宿で説明を受けたが、この近辺でロザリオ豚というのを飼育しているらしい。流行りの御当地モノだが、大江豚・天草豚と呼ばずカトリックで用いる道具の名を付けたところが凄い。ロザリオ館といいロザリオ豚といい行政のブームだろうが、少なくともガルニエ神父の本意じゃないだろう。カトリックに叱られないのだろうか。
右の山を長いトンネルが貫いている。靴はその横をひたすら歩き隧道に達した。隧道とトンネルの違いは日本語か外来語の違いだろうが、一つの靴は厳密に定義している。狭くて暗くて古いのが隧道である。
トンネルを歩かないというのは旅人の誓いであるが、隧道は仕方なく歩かねばならない。杣道が絶えた今、隧道を通らねば先に行けない場所がある。
全国の隧道が心霊スポットになっているのは猛烈に納得がゆく。光を発する乗り物で通過しても、この恐怖は分からない。隧道というのはとにかく暗い。周りどころか自分の体も見えず、路面状況も見えないため、目をつぶって歩くのと何ら変わりない。先に蒲鉾形の光があって、それが徐々に近付いてくる。四方八方不明であり、分かっているのは出口だけ。視線を出口に固定し、背筋を伸ばして歩いていると変な音が妙に気になる。風が意味深な温もりを持つ。たまらず視線を逸らせば、それから恐怖の始まりである。
隧道に入った。と、同時に光が絶えた。相変わらず嫌な雰囲気がある。ほんの数百メートルではあるが、とめどない空想が襲ってくる。風の音が人の泣き声に聞こえてくる。濡れた足音がよく響き、誰かが近付いてくるように思える。振り向くが誰もいない。上から物音がした。見上げた先は漆黒の闇であった。
濡れた体が更に冷え、何だか体が硬くなった。この日だけで隧道を三つ越えねばならない。よりによって雨、それも強風、神様の粋なお膳立てであった。
峠を越えると民家が見えてきた。高浜の街である。予定では上田資料館に寄り、街をぶらぶらするつもりであったがどうもいけない。雨風強くなるばかりでそれどころではなくなった。
上田資料館は古文書が積まれているらしい。上田家は古くからの庄屋で高浜の顔である。その祖は信州真田家からきたらしい。夏の陣で敗れた後、天草へ落ち、そこで人望を得て庄屋になったという。上田という姓は信州上田からきているらしく、土地のものではない。
この上田の旧家が国の有形文化財に指定されていて、有料ではあるが開放されている。この旧家は与謝野晶子・与謝野鉄幹夫婦も泊まったらしい。
上田家は傑人を多く輩出している。六代は高浜に新たな産業を興すべく高浜焼を始めた。七代は天草の代表的郷土史・島鏡を残した。その関係もあって、この家に多くの古文書が残っているらしく、旧家もろとも資料館になっている。
何にせよ、この大雨ではちょっと寄れない。寄っても濡鼠は入れてくれないだろう。
街の散策も諦めた。高浜の街は上田家七代が大火をキッカケに区画整理を行ったらしい。碁盤割の街という事であったが急ぎ足で碁盤の一筋を駆け抜けただけであった。
高浜を過ぎると又しても峠であった。登った先に隧道があって隧道を越えた辺りから更に雨が強くなった。靴の足元を水が転がっていた。雨というより土砂降りで、隅々まで濡れてしまった。上は合羽を着ているが下はジーパンである。衣服が重くなり、猛烈に歩き難くなった。疲れてきたが動きを止めると寒かった。冬の雨はどうもいけない。
これから小田床村(現在は南下田)まで国道しか道がない。古くは内越峠という山道を通ったようだが、昭和を経て徐々に消えてったらしい。
左手に妙見浦へと続く小道があった。奇岩が並ぶ名勝らしいがこの雨では何も見えまい。海を見た。荒れ狂う天草灘があった。水平線でも見えれば違った景色になるだろうが、白波が立つばかりであった。
古い旅人は天草灘を愛した。例えば山頭火は天草灘に中国大陸を想った。一つの靴はそう想えない。飛行機が普及した今、異国が身近になった。交通の躍進は旅を手軽にした反面、旅の醍醐味を奪ったのではないか。何度も書いたが旅の醍醐味は空想に尽きる。空想はぼんやりが産み落とすものであって、硬い手触りやハッキリとした輪郭はその障害にしかならない。何にせよ、この雨では水平線どころか目の前の小島すら見えない。急ぎ足で峠を下った。
細長い谷に下りた。ここに上野、中村、佃、浜という集落があって、この近辺を小田床村という。誰が付けたか知らぬが、この谷は小田床がよく似合う。谷の底を川が走っている。小田床川というが、山へ登らず谷の外れで尽きている。小さな田んぼに小さな流れ、民家は川と田んぼに遠慮して山際に寄っている。何となくいい風景であった。こういうところを故郷に持てば、ビルの谷間で泣けるだろう。
国道が太くなったり細くなったりしている。太くするのが難しいのか地主が反発しているのか、よく分からぬが小田床という集落の美しさは道の狭さと文明への抵抗にあるかもしれない。遠目に地図を眺めると小田床だけ道が細い。頑固爺さんが集落にいて、政治に猛反発しているのかもしれない。そうだとすれば絵になるし、この集落は頑固爺さんの死と共にカタチを変えてしまうだろう。頑固を受け継ぐには時代の流れが強過ぎる。
トンネルを前に国道を離れた。大江のちゃんぽん屋で聞いたのだが、五足の靴が歩いた道を行政が整備したらしい。確かに看板があった。「五足の靴文学遊歩道」と書いてあった。京都にある「哲学の道」を雰囲気だけ真似たのかもしれない。「文学遊歩道」とは洒落ている。
五足の靴がこの西海岸を歩いたのは明治四十年である。与謝野鉄幹、北原白秋、その他三人が東京を出て、のんびり旅行を楽しんだ。主たる目的はこの天草にあったらしい。ガルニエ神父に会いたかったそうな。五人は東京へ戻った後、旅行記を書いた。それが五足の靴である。著者は「五人づれ」となっていて全員で書いたらしい。
五人は富岡から大江まで西海岸を歩いた。つまり一つの靴と逆方向である。北から南へゆき、大江からは船に乗った。旅で最も歩いたのがこの区間、つまり天草西海岸で、道についても細かい記述がある。
「外海の波が噛みつくガリガリの石多き径に足を悩まし歩いた」
「川が路である。点々たる石を伝うて辛うじて進んだ」
下津深江(下田温泉)では大江までの道を尋ねる記述がある。地元の人が答えている。
「はなはだ険道であります」
この一言に当時の陸路が滲み出ているのではないか。道はあるが、それはあくまでオマケであって、移動の基本は船である。リアス式海岸の田舎はほぼこういうかたちだったに違いない。
一つの靴は五足の靴を読んだ後、地図で道を探した。が、それらしい道がなかった。さもあろう。明治四十年のガリガリ道を昭和の人が保存するはずない。昭和中期における陸の幹線すら平成を待たずに消えているのが天草の現実である。
五足の靴が歩いた道は他の杣道同様、舗装路の出現と共に消えるべき存在であった。事実消えた。が、たまたま政治が注目した。五足の靴が「町おこしに使える」という事で調査され、下津深江から小田床まで遊歩道が通された。それが「五足の靴文学遊歩道」である。
濡鼠の靴は遊歩道に突入した。古道ゆえ舗装はない。水浸しでグチャグチャであった。ありがたい事に明治の気分になってきた。
至るところに看板があった。ご丁寧に下津深江までの距離と時間が書いてあった。二時間かかるらしい。時計を見た。四時であった。冬真っ盛りの二月である。六時といえば日が落ちてしまうだろう。落ちる前に駆け抜けねばならない。健脚の見せどころであった。
一つの靴は軽いランニングで急な坂道を駆け下った。足元が悪いので下半身はドロドロである。気にしていたら前に進めない。滑りながら峠を下った。子供に戻ったみたいで実に楽しかった。
この旅に出て遊歩道が嫌になったが、ここはなかなか良い味があった。天草の山道といえば石積みによる泥止めが必須であるが、そういうものもちゃんとあった。崩れていたのを組み直したと思われる。不自然な石がない。久しぶりに行政の仕事に感心した。こういうのがいい。固めるだけが公共事業ではない。手入れもよく行き届いていた。ゴミがなく、行政の得意技・ほったらかしが見当たらなかった。ただ看板が多過ぎた。百メートルピッチはやり過ぎだろう。看板が風景を汚していた。
坂を下り終えると集落に出た。鬼界ヶ浦という集落であった。妙見浦の一つで名勝に指定されているが何も見えない。横殴りの土砂降りであった。天然シャワーが泥を流してくれた。気持ちよかった。神に感謝し大いに浴びた。両手を広げ天を仰いだ。風雨と戯れる一つの靴を鬼界ヶ浦の老人が笑った。
「あた大丈夫かい?」
「はい、健康です」
集落を出て国道に乗った。国道は工事中であった。拡幅工事をしているらしい。この拡幅が小田床の集落に届かないで欲しいと願うが時間の問題だろう。来年には違う景色になっているかもしれない。
再び遊歩道に入った。今度は猛烈な坂である。リアス式海岸はこうでなくちゃいけない。上り下りを繰り返し、海が見えたり消えたりするのがリアスの醍醐味に思える。
展望台があった。後に宿で貰った観光資料によると、この展望台が最も眺めの良い場所らしい。荒れた海に岩があった。波が岩にぶつかり大きく弾けた。弾けた後、その飛沫が風に吹っ飛ばされた。霞んだ白い風景に荒々しい海の音が響いていた。晴れていれば透けるような青が迫ってくるに違いない。水平線から寄る波に地球のうねりを感じる事もできただろう。そう想えば確かに気分が良かった。
雨で洗ったジーパンが、また泥だらけになった。二つ目の展望台を過ぎると高級旅館が現れた。道が分かれていたので通りかかった人に聞いてみるとアゴで教えてくれた。ルンペンと思われたのかもしれない。
高級旅館は「石山離宮五足のくつ」というらしい。斜面を切り開き広大な敷地を使っている。後に宿で聞いた話だが、この宿で一泊すると普通の宿で五泊できるらしい。調べてみると、なるほど言い過ぎではなかった。部屋によっては言い足りない感もある。一つの靴には全く縁のない世界であるが、縁のある人はどんどん使って頂きたい。金持ちが浪費しないとニッポンの血液は回らない。
高級旅館を抜けると、また展望台があった。少しゆくと、またまた展望台があった。文学碑もマメにあった。こういうのは予算仕事の弊害であろう。予定のほぼ百パーセントで受注を取り、それから使い道を考えているように思われる。そうでなければ設計が悪い。設計が旅人の邪魔をしている。
道が石っぽくなってきた。「ガリガリの石多き径」を演出しているのだろうが、大雨の日は風情を感じるゆとりがなかった。転がるように駆け抜け、遊歩道が終わってしまった。
時計を見た。午後五時をちょっと回っていた。入口の看板は二時間かかると言っていたが一時間ちょいで駆け抜けた。学生時代はこういう競争が楽しかった。が、今はそうでもない。「だから何?」という冷めた心があって、どうも競争が楽しめない。一つの靴は子供を三人抱えている。その子供たちを見ていると本気で競争を楽しんでいる。競争で育つという迷いなき確信(本能)があるのではないか。大人になるという事は世間を知るという事だが、知れば知るほど迷いが生まれ、純粋な楽しみを失っているのではないか。変な事を考えた。
目的地の下津深江に着いた。今は下田温泉と言ったほうが通りがいい。天草最大の温泉街で七百年の歴史を誇るらしい。他の温泉街同様バブルを語らせたら勢いに乗るが、今を語らせるとシュンとする。つまり今時の温泉街である。
一つの靴は街に入る前、礼儀として風雨に打たれた。せめて泥くらい流さねば宿も入れてくれまい。打たれながら駐車場を歩いていると立派な石碑が現れた。またしても五足の歌碑であった。何個目だろうと、あまりの多さに呆れてしまったが、よく見ると郷土史家の歌碑であった。濱名志松という人で、五足の靴に関する本も出しておられる。旅に出る前、図書館でサッと目を通したので何となく記憶にあった。
「寛、白秋、勇、杢太郎、萬里らがたどりし径ぞ、五足の靴で」
詩というより説明文であった。お世辞にも良いとは言えぬが「石碑のために詠んでくれ」と頼まれたのだろう。裏の碑文も読んだ。印象的だったので書き写した。今、これを書きながらそのメモを読んでいる。書き写して良かった。歴史が政治に持ち上げられる貴重な明文であった。
碑文は五足の靴の概要を記した後、以下のように続いている。
「わが国の文学の封建性を破り、自由主義的なヨーロッパ文学を移入する運動は、この旅を転機に展開されたといわれている。その後、五人の研究、著作などをつぶさに調べると、白秋の邪宗門をはじめ、天草の歴史・風土から深刻な影響を受けたことがうかがわれ、天草が五足の靴の旅の中心となったことに思い到る。ここに五人の氏名を刻した歌碑を建立し永世に顕彰する」
単なる旅が永世の顕彰を受けるなど他に例があるのだろうか。よく分からぬが、ありとあらゆる修飾語を一つの出来事にまぶすのは良きも悪きも政治の得意技である。大抵まぶしたものが多過ぎて中身が見えなくなる。
五足の靴とは何なのか、結局ただの旅行である。旅行という真実が文学になったり詩になったり天草の素晴らしさになったりしているが、要は「明治四十年、有名人が西海岸を旅行した」これに過ぎない。
一つの靴は歩きながら歌碑を見た。山ほど見た。歌碑が旅情に沿うとは思えなかったが、見ているうちに何となく文学的風景に思えてきた。歌碑と自分を照らし合わせ、反省もした。そして気付いた。
「町おこしによって、ありがたいと思わされている」
本来、旅というものは十人十色それぞれ違ったものである。靴と山頭火が同じ絵を描けなかったように、人間・天候・気分が違えば風景も違ってくる。
「変だな、俺には中国大陸が想えない」
想えなくて当然で、想えた方が偉いわけでもない。が、町おこしサイドは風景に普遍的価値を与え、観光客を呼ばねばならない。普遍的価値とは何か。成功した人の御墨付であったり組織的認定であろう。手順として、まずは御墨付の発行元を絶対的に肯定し、迫力に欠けるようであれば修飾しなければならない。
雨は止まない。濡れながら考えた。
(観光客はこういう風に濡れないだろう、旅人は濡れるのか?)
そうではないが濡れてもしょうがないと思っているだろう。旅に雨は付きものである。
(観光客と旅人、何が違うのか?)
その事を考えた。凄く面白い絵が浮かんだ。観光客と旅人、二人が同じ場所を目的地に選んだ。観光客は普段着である。普段着でカメラを手にし、真っ直ぐ進んで目的地に着いた。旅人は山伏みたいな格好で、遠回りしながら目的地を目指している。着いてもいいが着くのが嫌で、グルグル回り、結局どこかへ行ってしまった。
旅人の目的は非日常の追求にあって、不測の事態に振り回される事を当然だと思っている。ゆえ、どの道を通るかも分からず、目的地に着かない可能性もある。その点、観光客は値札が貼られた風物を写真で捕らえに行くため、計画通りに進む。予測可能な人を観光客、予測困難な人を旅人というのではないか。むろん、行政としては予測可能が望ましい。時代はそういう風に流れている。
宿に着いた。ずぶ濡れだったので中へ入らず人を呼んだ。
「すんません」
小声で呼ぶと年配の女性が飛び出してきた。凄い形相だったので追い出されるかと思ったら、
「はよ拭きなっせ! はよ温泉に入りなっせ! 受付は後たい!」
白いタオルを投げつけて靴を部屋に引っ張った。手を引かれながら振り返ると水浸しであった。さすがに悪いと思い、手足やリュックを拭こうとするが、
「建物は濡れたっちゃよかったい! それより着替えて温泉に行かんば!」
年配の女性、一つの靴を部屋に押し込んだ。嵐のような入館であった。
着替えて濡れたものを干し、言われるまま湯に浸かった。湯から出ると飯であった。平日という事もあって大広間で一人だった。ビールを一本だけ頼み、刺身をつまみに一杯やっていると年配の女性がやってきた。女将だと思われるが違うかもしれない。長く勤めて自由を得た女中さんであろうか。
「さみしかろ、注いでやろか」
跳ねるように現れ、酌をしてくれた。女中さんは喋り続けた。質問したかと思うと勝手に違う話へ移り、喋り疲れると去っていった。こういう人は人の話を聞かないが自分の話も聞いていない。「会話は勢いである」と思っておられ、基本、世話焼きである。こういう女性はどこにでもいると思っていたが、熊本を出ると案外少ない事に気付いた。うちの母親もこういうタイプで、松野明美もこのタイプである。熊本に多いのかもしれない。
会話の中で「下津深江の風物を調べている」という話をした。女中さんの世話焼きの血が騒いだのだろう。忘れた頃に地元の名士を連れて来られた。下田温泉の生き字引だという。
名士と向かい合い二人っきりの話し合いが始まった。名士は自らの半生を語られた。政治的手腕に長けた方らしく、色んな団体のトップをされているようで、その点、名士の歴史が下田温泉の歴史であった。土産物、入湯税、政治、組合、色んなテーマの話を頂き、大変勉強になった。が、旅のテーマには即さなかった。これらの話は下田温泉の歴史であるが、下津深江の歴史ではない。
名士が去った後、女中さんに礼を言い、チップが弾めない事を詫びた。その上で庶民の話が聞ける良い酒場がないか聞いてみた。女中さんは外に出た。雨風の具合を確かめて、
「あるにはあるけど、この天気じゃねぇ」
やってないだろうと言われた。天気予報によると、この日の瞬間最大風速は三十メートルを超えたらしい。台風並であり、確かに雨風共に凄まじい。
「こぎゃん時は外にゃ出らんがよか。中で呑みなっせ」
女中さんがそう言ったので追加で焼酎を頼んだ。焼酎は部屋に持って上がった。風の音を聞きながら一人で呑むのも悪くないように思われた。
高いところから下田温泉の灯りを眺め、焼酎をチビチビ呑んだ。何となく地元にいるような錯覚を覚えた。
「昔はよかった」
街から温泉街の挨拶が聞こえてきた。今日も場末のカウンターで酔っぱらいが叫んでいるに違いない。
「三十年前は札束が舞いよったっぞ! こぎゃんじゃなかった!」
さっきの話だが観光客を呼び込むため色んなものに値札を貼った。町おこしの通例であるが、それは温泉街も例外ではない。温泉街は特に貼ったと思われる。貼って貼って貼りまくり、いつしか特徴がなくなった。
「どこに行っても一緒だろ」
そういう風にならなかったか。非日常を失った温泉街に人が寄るのだろうか。いくら普遍的価値を求める観光客といっても特徴がなければ近場で済ませるのではないか。
旅人は風の音を聞きながら考えている。
(そろそろ揺り返しがあるんじゃないか?)
町おこしを捨て、昔に戻ろうとする集落が出るに違いない。人間そのものに揺り返しの症状が出ている。政治に及ぶのも時間の問題かも知れず、そうだとすれば旅人の未来は明るい。
風の音に混じり波の音が聞こえてきた。気付けば手元の焼酎が尽きていた。元気な女中におかわりを告げねばなるまい。カネは足りるのか。分からぬ。分からぬが今日も焼酎が美味い。
旅人は酔って歩き、酔って眠るものらしい。酔っている限り幸せは尽きない。
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