薩摩の光
【私とN】
馬鹿野郎がいる。
大手の会社に就職し、五年で辞め、一年ほど嫁子供と遊び、また大手に入り、また辞めて、今度は小さな会社に入った。私である。現在の私は社会に出て十一年が過ぎている。今は着くべくして自営業に落ち着いているが、たっぷり遊んだぶん、大いに苦しんでいる。苦しまねばならない。因果応報であった。
もう一人、Nというスマートな男がいる。私と同じ大手の会社へ同期入社し、四年で辞めた。Nは日本を代表する巨大な会社へ転職した。その会社が良いという訳ではなかったらしい。出身が鹿児島で、鹿児島勤務を望んだ結果がそれであった。が、巨大企業の勤務先は流動的であって、鹿児島で採用され、熊本、滋賀を点々とした。年齢は私と同い年である。Nは社会に出て十一年目を迎え、やっと鹿児島へ転勤になった。
私はNの事を別世界の人間だと思っている。仕事や生活の話じゃなしに恋愛の話である。私は自称二枚目で通している。自称せねば誰も二枚目と言ってくれぬところに底知れぬ悲しさが滲み出ているが、だからこそ恋愛には貪欲であった。義務教育を卒業する段階で両手の失恋を経験し、それから本格的な思春期を迎え、加速度的にフラれた。社会人になった時には人の両手両足を借りねばならぬほどフラれ、社会人になってからも順調にフラれた。
Nとの接触は社会人からである。入社式で会った。入社式から二週間ほど共同生活の研修があったが、そこで同期衆はコンパに燃えた。Nの他、T、K、I、M、計六人が同い年であったが、Mは当時の彼女に夢中で、全財産を電話代に費やしていた。そのためコンパは五人であった。
ある日、私にとって凄く良い流れのコンパがあった。私は喋らねばタダのブタになってしまうため、喋り続けなければならない宿命があった。前半盛り上げ消えていく事が当たり前の流れであり、その中でビビッときたらガップリ四つに囲い込み、小細工無しに押しまくらねばならない。当然、逃げられる。が、たまに上手くいく。その点、小船の上から手掴みで魚を取るようなもので、確率的には馬鹿馬鹿しいにも程がある。が、その日はどういうわけか、逃げて行くはずのギャルが隣から離れなかった。千キロカロリーくらい使ったのではなかろうか、二時間の心地よい疲労感に苛まれながら、「さぁ押していこう!」と一歩目を踏み出した時、Nが現れた。Nは十カロリーも使っていないだろう。二言、三言、会話を交わしただけである。鹿児島弁の滑らかな口調、悔しいが男が聞いても優しげで、実に心地よい。私はトイレへ行った。戻ってきた。既にギャルはNの虜であった。
それから先も私の展開は苦しい。明日が早いという事で男衆が帰った。明日が早いのは共同生活研修中ゆえ皆同じであるが、Nは三次会に行くと言う。他のギャルもNとラブラブのそれを残し、足早に帰った。私も帰るべきであった。が、ギャルが惜しいのか、馬鹿なのか、よく分からぬが残った。
三次会は先輩の家を使わせてもらった。K原さんという豪気な先輩(同期)がいて、
「何かあったら好きに使え」
鍵を渡されていた。そこで呑んだ。なぜ私がいるのか。未だによく分からない。とにかく私、N、ギャルという三人が密室で膝を並べた。
翌朝は六時半からラジオ体操をしなければならなかった。ラジオ体操の後にランニングをし、朝食を食べた後、研修が始まる。酔って遅刻となれば入社研修中だけに即日クビであろう。
時計を見た。丑三つ時を回っていた。私は夜が弱く、時計を見ると眠くなる体質を持っているが、ギャルの前で醜態を晒すわけにはいかない。私の口数は露骨に減っていった。Nの口数は露骨に増えていった。Nは夜行性であった。ギャルとNは急接近し、「家まで送っていく」という流れになった。私は意気消沈である。とにかく眠かったため、
「おやすみ、五時半には帰ってきてね」
喜び勇んで仮眠を取った。
五時半に目覚めた。アルコールは完璧に残っていた。残っていたというより、まだ酔っていて、頭も体も飲み会の最中であった。Nは戻っていなかった。携帯にかけてみた。出なかった。この場所から研修所までは歩いて三十分以上かかるだろう。六時に出ねば遅刻だが、Nは六時に戻って来ない。私は悩んだ。一人だけ間に合いクビを免れるか、共にクビになるか、若い私は走れメロス的選択に迷った。結局、後者を取った。
(これも人生!)
本気でそう思っているところに若さというものの恐ろしさがある。Nは六時二十分に戻ってきた。
「ごめーん!」
そう言いながらも顔は謝っていなかった。ニヤニヤしていて何となく肌艶が良かった。とにかく急がねばならなかった。走った。が、酔った二人は崩れ落ちた。とても走れない。タクシーを捕まえた。研修所へ辿り着くと同期が列を成し、ランニングをしていた。タクシーはランニングの横で止まり、酒臭い二人は何食わぬ顔でそれに合流した。変な格好の二人は見るからに怪しかった。が、クビにはならなかった。
この数年後、二人は自己都合で辞める運びとなる。辞めたくなかったり、辞めたかったり、人生とはそういうもので、簡単ではない。
私とNのその後は数奇である。両者とも会社を辞める事は容易に想像ができたが、私は十一年という時を経て、子供を三人抱えてしまった。二枚目のNは未だに独身であった。
私は入社二年目に知り合った女性と初めて三ヶ月以上続く長い交際をした。三ヶ月記念パーティーを自前で盛大に開き、六ヶ月でプロポーズし、十一ヶ月で結婚式を挙げた。生き急いでいる感じこそ私の生き様であり、私の人生観である。本人は人生という時間の集合体を一つも無駄にする事なく使いこなしていると思っているが、実は無駄だらけで、同じ場所を行ったり来たりしている。人生なんていうものは人に迷惑をかけねば勝手気ままが正義である。本人が楽しければ、人が何と言おうとそれこそが良い人生であろう。その点私は家族を構えた手前、家族の顔色を窺っている。窺ってはいるが、ちゃっかり人生も楽しもうとしている。適度な障害や責任は楽しみを倍加するらしく、この書きものはそうした私の人生観に端を発している。
Nのその後は何とも言えない。上半身が社会性、下半身が人間性と定義するなら、Nはケンタウロスのように違う生き物が引っ付いているのかもしれない。極めて安定的な社会生活を営みながら、その人間は誰にも縛られない無上の自由に焦がれている。Nは仕事の面で抱えた人生観の矛盾を女性に対する表現で発散させていたのではないか。雲のように流れる下半身を上半身が押さえ込む時間があって、それが逆転する時間もある。線引きがダラしない私にとって、Nの器用さは魔術のように思えた。
Nには学生時代から付き合っていた彼女がいた。当時三ヶ月以上の恋愛をした事がなかった私は、その彼女を見、なぜ結婚しないのか意味不明であった。Nの彼女は美人であった。憎らしい事に性格も良く、同期の荒んだ心を癒してくれるマリア様であった。
私の新婚旅行にはNカップルも同行した。新婚旅行に同行とは意味が分からぬが、私がやった新婚旅行は日本縦断である。その前半、九州から四国にかけ四人で遊んだ。
Nはこの彼女と付いたり離れたりしながら五年を過ごしたが、結局別れた。たっぷり遊んだ人というのは大抵がそうだが、三十路を境に我に返る。人間なんていうのは因果応報の繰り返しであって、やった、やられたを繰り返し、疲れ果て、振り返って勉強する。膨大な熱の中に青春が光っていて、
「な、分かったろ?」
優しく微笑んでくれる。
「あの頃は若かったね、考えられん」
三十路のNはそう言って過去を笑い飛ばした。
Nにはこういう逸話もある。彼女に浮気がバレた。こういう時、凛とするのは女であって、大いにモメた後、話をハッキリさせようと浮気相手を交え、話し合いが始まった。場所は近所のレストランらしい。冷静なスタートだったが女二人がエキサイトしてきた。Nが口を挟んだ。
「まぁまぁ」
「アンタは黙ってて!」
Nは追い出された。外でタバコを吸いながら結論が出るのを待ち、俺も満更でないと思ったらしい。
私は追う展開こそ星の数ほど経験したが、追われる展開は皆無のため、羨望の眼差しでNの話を聞かねばならなかった。こと恋愛に関し、私はNに憧れ続け、一般的には死ぬまで憧れるべきかもしれないが、途中で考えが変わった。対照的なNの人生は私に「三枚目の喜び」を感じさせた。「三枚目の喜び」という表現は単なる開き直りかもしれぬが、経験がないだけに憧れ、それを補おうと膨大な熱量を費やした時間は私にとって青春の光になった。Nにはそれがなく、その点、青春の充実感において三枚目が喜んでいる。
Nの彼女を何人か見た。私は頻繁に引越しをしたが、Nはその度に違う彼女を連れて来た。私は唸った。首を絞めたくなるほど羨ましいと思った。日本中の美女がNの手付きになってしまうのではないか。
Nは鹿児島に帰れなかった。熊本と滋賀が長く、連れてきた彼女も鹿児島産ではなかった。この時代、県民性と呼ばれるものは極めて薄い。薄いが、確率論として、県民性の相性というものはあるらしい。Nは熊本の女が合わないと言った。挙動にも言葉にも角があって何だか痛いと言う。熊本県民の私にそれを言うのは喧嘩を売っているに等しいが、確かにそういうものはあるかもしれない。水前寺清子を見て頂ければ分かるが、あの調子が熊本都市部に多く、残り半分は松野明美が多い。このタイプは農村でよく見る。スッキリしてるが好き嫌いはあるだろう。熊本女性の荒々しさは火の国の熱か歴史が培ったもので、鹿児島女性は火山灰に覆われたシラス台地が火を遮断し、歴史的な色々もあって直球を嫌悪する県民性に仕上がったのかもしれない。しかし薩摩には活火山が多いように薩摩おごじょの心にも沸る熱がある。それをシラスが包んでいるだけで、実は熱い。「議を言うな」という薩摩隼人の精神は女性にも通じるものがあるのだろう。甘い言葉、澄んだ笑顔、時折見せる熱の片鱗、モノ言わぬ行動による圧力、私は薩摩おごじょに憧れ、最後の失恋を鹿児島で実らせた。更に私がフラれた後、立て続けに同郷の友人がフラれた。県民性の相性を感じたのはこの瞬間であって、
「熊本の女は合わん」
Nがそう言った時、スッと飲み込めたのはそういう経験による。

【二人だけのアイドル】
最後の失恋は十一年前である。
当時、私は埼玉にいたが一年目の研修で同期が集まった。場所は北九州であった。せっかく集まったから週末にコンパをやろうという運びになり、ジャンケンで女性を呼ぶ担当を決めた。負けたのはNで、コンパの場所は鹿児島に決まった。
私は、この時初めてN彼女以外の薩摩おごじょを見た。凄い種族だと思った。どれも底抜けに優しくて、いちいち気になる。
コンパはMちゃんという人の家で開かれた。本来はNの彼女宅で開く予定だったが、喧嘩が勃発し、急遽Mちゃんの家に変更となった。Mちゃんは薩摩おごじょという最強種族の中でも飛び抜けて可愛かった。何せ十一年も経っているので私の記憶も定かでないが、時間が記憶を熟成させ、Mちゃんの姿は輪郭だけになった。その輪郭に後光が差している。
私は会った瞬間に溶けた。ちなみに溶けたのは私だけではない。Iという同期も同行したが、Iは私の猛烈アタックに数ヶ月ほど遠慮した。が、私が完膚なきまでフラれると、私にバレぬよう水面下でMちゃんにアタックした。Iもフラれた。Iの思いは私よりも熱かったらしい。フラれて尚、またフラれた。現実を確かめるためにフラれたようで、涙が出るほど立派な失恋である。
とにかくMちゃんは可愛かった。美人路線ではなく、可愛い路線の中央を小走りで走っていて、イメージとして白いワンピースと南風がよく似合う。放つ言葉は面取りしてある鹿児島弁で、憎らしいほど内に残る。私やIを触れる時にはベタリと触れず、指先でチョンと触れ、柔らかく着地する。私とIは甲高い音に苦しまねばならなかった。「キュン」である。サザエさんでイクラちゃんが走るとチャラチャラ音がするが、そういう感じで私とIはキュンの高鳴りに苦しみ続けた。
コンパの内容は他愛ない。王様ゲームで盛り上がった後、酔って熱量尽き、床に伏した。ただし忘れられない一齣がある。深夜遅く、山下さんという隣の人が現れた。会場はアパートであったが、隣の人が山下さんであり、「頼むから静かにしてくれ」と言われた。この時、玄関に出たのが私とMちゃんであり、夜風が思いがけず涼しかった。二人はそのまま外に出た。
「あんまり星が見えんね、都会だけんね?」
「そんな事ないよぉ」
「あの星座、知っとるね?」
「わかんない、教えて」
活字で書くと鹿児島弁の丸っこさが伝わらないのが悔しいが、この他愛無いやり取りが私には鮮明である。次いで星に関し、Mちゃんが見事なセリフを放った。私は震えた。このセリフだけは絶対に表に出さず、この日の記念碑にしようと心に誓った。私は星から目が離せなかった。目を逸らすと熱い雫がこぼれそうで、グッと堪えた。
私とMちゃんはそれから二人で買い出しに出かけた。自転車の二人乗りであった。Mちゃんは詩人であった。Mちゃんから詩的世界が運ばれ続けた。錦江湾からは心地よい風が運ばれた。田園の中を自転車は静かに進む。ローマじゃないが、薩摩の休日であった。
「寝るのが惜しいね」
「なっ、なんと!」
「また鹿児島来てね」
「はっ、はひっ!」
思えば大人と子供のやり取りで完璧に遊ばれている。むろん、私は完全にのぼせてしまった。
記憶というのは勝手なもので夜風や情景は完璧に記録している。が、薩摩おごじょの神々しさを直視できなかった二十一歳と十一年の時間はMちゃんの存在をカタチとして消してしまった。
私の話はまだ続く。最後の失恋は哀れを通り越し、みじめであった。
埼玉に戻った私は職場のありとあらゆる知り合いに鹿児島の恋を説明した。記録を長文に記し、二百人ばかりにメール配信しても興奮が鎮まらず、初対面の人にも薩摩おごじょの素晴らしさを語る始末であった。周囲からすれば迷惑な話であるが、吐き出していなければ溢れ出す熱が内側で膨張し、息苦しくなってしまう。
「鹿児島に行きたーい! 今週ついに行けるんですー!」
ついには会社の朝礼で涙ながらに宣言するようになってしまった。恋という病の末期症状であった。
私は今も昔も電話が苦手である。例えば熊襲のように古代人の香りが残っているらしく、文明の産物である目を見ぬ会話というのが基本的に成り立たない。会話の半分を身振り手振りで構成しているのだろう。が、それでも「鹿児島に来て」と言ったMちゃんの言葉を信じ、原稿用紙八枚分の脚本を書き、電話を入れた。なんとか約束を取り付けた。飛行機のチケットも買った。朝礼でもその喜びを宣言した。そして出発を控えた数日前、電話がなった。Mちゃんからであった。私は丁寧に電話を拭き、八百万の神々に祈りを捧げると、通話ボタンを押し、
「はいっ! 福山です!」
電話に出た。そして絶句した。Mちゃん、鹿児島行きを中止して欲しいと言う。理由が致命的であった。
「金欠で、ちゃんとしたお迎えができないの」
私は二十一歳であった。むろん貧乏である。鹿児島行きに関しても、次にフラれる運命のI君から借金して調達した。Mちゃんが「金をくれ」と言うならば更にI君から巻き上げて、気持ち良く渡すであろう。泣くに泣けなかった。
記憶はそこで終わっている。その後、細々したやり取りが数回あって私はフラれた。無尽蔵に生産される青春の熱は行き場を失い、のたうち回った。むろん酒で冷やすしかなかった。
私はMちゃんを三日ほど憎んだ。Mちゃんは三日だけ悪魔になり、四日目には天使になった。
「素敵な思い出をありがとう!」
当時、Mちゃんには彼氏がいた。彼氏の写真が部屋に飾ってあったのだが、私はそれを兄の写真だと思った。馬鹿である。無類の馬鹿だが、恋は盲目でしか成り立たないものだからしょうがない。現にそれを知った私は何も気にせず突っ走った。私の後に玉砕する連中もその事を知った上で突っ走った。恋の典型といえるのではないか。
私はMちゃんの挙動を十一年ぶりに考えている。当時は怒りもし、泣きもしたが、彼女に悪気は微塵もない。Mちゃんは私という突然現れた馬鹿野郎を好ましく思い、普通に接してくれた。その普通の差異が問題ではなかったか。いや、その差異がなかったとしても、私はMちゃんに惚れただろうし、結果としてフラれた事は間違いない。が、「人間の問題でフラれたわけではない」と、私は超前向きに思っている。鹿児島のNは熊本の女を荒いと言い、熊本の私は薩摩の丸さに溶けてしまった。溶けた私は肥後もっこすの熱量でMちゃんへラブコールを送ったが、Mちゃんはその尋常ではない熱量に身の危険を感じてしまった。それだけではないか。
女という生きものは優れた嗅覚を持っている。私は常々そう思っていて、その思いは時間と共に確信へ変わっている。私は勝手な想像を続けているが、例えば二人が付き合ったとしても絶対にうまくいかないだろう。その点、女の判断が的確で、私の十年を振り返る際、隣にいる直球勝負の嫁さん以外、考えられない。
Mちゃんはその後、神奈川へ越した彼氏を追って関東へ出てきた。私は恋愛に関し、頭の切替がデジタルであり、忘れると決めたら二度と会わないというのが青春の約束であった。が、Mちゃん上京の一報に脆くも崩れた。
「呑もうよ」
「うんっ! 呑む呑むっ!」
大はしゃぎで飛び付いた。関東在住九州人を引き連れ、皆で飲んだ。それから笑える展開になった。一緒に行った友人や後輩が片っ端からフラれた。彼氏を追ってきたMちゃんに総出で向かうというのも凄いが、向かわせるMちゃんの力量たるや恐ろしいものがある。
その後の私であるが、現在の嫁へと続く彼女ができた。Mちゃんは関東へ出てきたが、気にせずほったらかしであった。新たな恋愛に夢中になっていると、Mちゃんはいつの間にかいなくなった。鹿児島に帰ったらしい。ただ足跡だけは確かなものを残してくれた。夢破れた友人たちが泣き崩れ、その飲み会に何度か参加した。彼女がいて余裕があるだけに私は大いに笑った。人のフラれ話ほど笑える事はない。ここに至って、なぜ私が友人たちにけしかけられ多くの失恋をしたか、その理由が分かった。
さて、Mちゃんであるが、十一年の時を経て私の記憶から人として消えた。ただし、それは姿カタチであって、前述したように情景として極めて鮮明で、肉質はないが虚像は残った。虚像や情景を保つには、たまに思い出すという作業がいる。私はこの作業を山口百恵に依った。
私は十三歳から山口百恵の大ファンである。1980年、私が二歳の時に百恵ちゃんは引退してしまったが、中学の多感な時期に「ひと夏の経験」を聴いて以来、凄く気になる存在となった。その後、初めて買ったCDが山口百恵のベスト盤であり、以後、私の青春を支え続けた。青春の母が山口百恵であり、青春の父が尾崎豊である。アンマッチだが、私の中では青春の雛壇に二人が座っている。
出版社に向け、初めて投書をしたのも山口百恵が原因であった。どこの出版社か思い出したくもないが、運動会で息子の応援をする山口百恵の写真を載せたという。百恵ちゃんが載る事を望んだのかと幻滅したが、どうも出版社が勝手に載せたようで、これには怒りの火が付いた。原稿用紙十枚に猛烈な怒りを叩き付け、赤い封筒で投函した。出版社からは何の反応もなかったが、同様の抗議が多かったらしい。永遠のアイドルを何と心得ているのか。写真を見てないので分からぬが、百恵ちゃんが天地真理みたいになってたらどうしてくれるのか。出版社は心の慰謝料を払う気があるのか。以後、その出版社の名を聞くたび怒りが込み上げる。
私にとってアイドルといえば山口百恵である。懐メロの特番があればテレビを独占し、思い出の百恵ちゃんを大合唱している。百恵ちゃんは中学高校のテーマソングであり、後半から中島みゆきと玉置浩二が食い込んでくるが、やはり前半の方が色んな意味で未熟であり、思い出として愛嬌がある。回想熱も熱い。私は回想に浸り、三時間歌い続ける義務がある。嫁子供は「チャンネル変えろ」と文句を言う。
「うるさい、黙れ!」
回想は俺の時間であって、娘が泣こうが総スカンを食おうが知ったこっちゃない。只今人生点検中である。
アイドルは青春の光である。山口百恵、中島みゆき、Mちゃんと推移しているが、中島みゆきはアイドルに適さない。申し訳ないが除外した。
私は山口百恵を聴きながら、Mちゃんの情景を思い出している。Mちゃんのカタチは消えても、私にとってMちゃんはたった二人のアイドルであって思い出の栞である。熱量溢れる青春を思い出す作業はまさに人生の点検であって、今という瞬間を楽しんでいるか、楽しむために家族を楽しませているか、それを考えるだけで明日が輝く。何にせよ、青春の熱量を僅かでも今現在に引っ張ってくるという作業は今のために極めて有益である。
熱を持続するというのはそれぐらい難しく、気合が要るという事だろう。

【Nの誘い】
Nが念願の鹿児島に帰った事は前に書いた。ほんの数ヶ月前に帰ったそうだが、連絡がなかったため私は全く気付かなかった。知ったのは一通のメールによる。
「そろそろ鹿児島の生活も落ちついたよ、遊びにおいで」
私はすぐに返事を出した。
「今週末行く」
Nは急な展開に驚きつつも、相手が私だけにそういう事もじゅうぶんあると思っていたらしい。快く了解してくれた。
計画が決まって出発まで数日あった。せっかく鹿児島に行くなら歴史散策をしようと私は図書館に走った。西南戦争の資料や郷土史を読んでいると加久藤越えや薩摩の道が載っていて歩きたくなった。阿蘇を基点に南へ下っていくと、かつて秘境と呼ばれた椎葉村があった。更に南へゆくと人吉があり、加久藤を越えてしまえば宮崎えびのである。えびのの先には霧島がある。目的地は霧島を越え、霧島神宮から転げ落ち、錦江湾へぶつかった場所、つまり国分市である。国分市は合併して霧島市となっているが、その名の通り古くは大隅の国府と国分寺が置かれた場所で歴史的に熱い。
穴が開くほど地図を眺めていると欲が出てきた。車で行く予定であったが、いっそのこと歩いて行くか、そう思えてきた。が、嫁には言えない。つい先日、天草を歩いたばかりで、歩くとなれば片道六日はかかる。ざっと目算し、二百四十キロあった。
出発の前日まで移動手段を決めなかった。が、その晩、天気予報の晴れを見た瞬間、バイクで行く事に決めた。手持ちのバイクはホンダの名機・カブである。三年前、二万円で購入した。寒い日は動かないが暖かい日は動く。前輪のブレーキは握った後、戻してやらねばブレーキ解除されない。パワーもない。少し傾斜がきつくなると二速では登らない。一速に落とし、時速十キロでウィンウィン登らねばならない。よく自転車に抜かれる。が、燃費は素晴らしい。リッター七十キロ走る。
「えー! あのバイクで行くのー!」
私の嫁は「天草を歩く」と告げた時より驚いた。
「壊れてるんでしょー!」
つい先日、二十キロほど離れた内牧に行こうとした時、走りながらエンジンが止まり、押して戻ってきた。嫁はその事を言っているが、たぶんそれは寒かったからだと私は思っている。三年乗れば何となく分かるが、寒い時、このバイクは機嫌が悪い。晴れの六月なら喜んで走るだろう。
嫁を説得するのに都合の良い言葉があった。
「これ以上のエコはないけん!」
エコという言葉を聞く度に非営利団体と言いながら確かな利益を上げてるNPO法人がちらついてしょうがない。補助金を貰いやすい法人がNPOであり、彼らは補助金を頂きながら普通の企業活動を営んでいる。個人的に彼らを優遇する必要はないと思っているが、そこはドロドロした人間の仕組があるのだろう。根深いため、考えたくもない。
エコといえば全てが罷り通り、黄門様の印籠みたいになっている。それが今の時代である。響きがあまりに政治であり、最近は嫌いな言葉のトップに躍り出た。が、便利であり、ミーハーで現実家の嫁には効果抜群であった。
「車で行けばガソリン二十リッターと高速代がかかる。ばってん、カブで行けば四リッターのガソリンで鹿児島まで行ける! 素晴らしい!」
この言葉に嘘はないが時間は三倍かかる。疲れるし、険しい山道を走れるのか、何よりバイクが持つのか。十中八九壊れる気がする。
六月七日、色々不安はあったが私は午前五時に起きた。嫁も一緒に起き、朝食を摂った。久しぶりにバイクを触るとタイヤの空気が抜けていた。前日に整備ぐらいやっておけば良かったが、それもやっていないところに急な決定が滲み出ていた。空気を入れ、油を注した。エンジンはチョークを引けばかかったが、チョークを戻すと止まった。温まればどうにかなるだろう。
「大丈夫?」
「たぶん大丈夫、壊れたら電話するけん迎えに来て」
私はそう言って家を出た。出た瞬間エンジンが止まり、再起動した。幸い嫁には見られていなかった。
カブの後ろに黄色いミカン箱がネジ止めされている。箱に入っているのはパンツ、Tシャツ、地図、この三点であり、実に身軽である。嫁が色々準備したが私はその大半を置いてきた。むろん山中で故障し、バイクを乗り捨て下山する時の事を考えている。
天気予報が言うに、二日とも素晴らしい天気らしい。が、時間が早い事もあり、阿蘇南郷谷には雲が沈んでいた。私の視界から阿蘇五岳が見えなかった。白川を上流へ向かって進み、途中右に折れ、清水峠で外輪山を越えた。
Nが鹿児島で待っている。行けるかどうか分からぬが、とりあえず私は阿蘇を離れた。
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