薩摩の光
【椎葉越え】
午前七時、六月とはいえ朝の清水峠は寒かった。
下はジーパン、上は薄いナイロン製の長袖を着ているが、鼻水が止まらなかった。峠の標高は820メートル。一気に上り、緩やかに下った。
下りが猛烈に寒かった。上りはバイクの問題から時速二十キロも出なかったが、下りは結構スピードが出る。歯はガチガチなるし、ブレーキの効きは甘いし、出鼻から辛かった。
私はツーリングやドライブというものに楽しみが見出せないでいる。一時ライダーハウスに泊り込んだ経験があるだけにライダーの知り合いが多く、今もたまに呑んでるが、
「風を切る、あの感じがたまらないんだよ!」
盛り上がられても意味不明で、全く付いていけない。ライダーになる条件として風を愛さなければならぬが、私は台風を恐れていた。風を好きになれず、どうもライダー適性に欠けていた。
ライダーは景色を語り、爽快感を語り、非日常を語り、それがツーリングの醍醐味だと私に説明したが、私は飲み込めなかった。ライダーはバイクの性能を楽しんでいるのか、運転の技量を楽しんでいるか、少なくとも景色や道を楽しんでいるわけではなかろう。私の思い描く旅と、ドライブ、ツーリングは何かが決定的に違った。
私は本来なら歩いて鹿児島に行きたかった。が、それが時間や金の問題で叶わないからバイクという道具に頼った。ツーリングには目的地がない。あったとしてもどうでもいい目的地で、そこで何をするわけでもない。道中の爽快感こそツーリングの目的であって、バイクの性能に酔う、もしくは自分の技量に酔えねば旅そのものが楽しめないように思われる。その点、私は運転が下手だし、バイクも走ればいいと思っているので、バイクに乗っている間は楽しめない。不幸であった。
清水峠からの緩やかな下りを高千穂野(たかしょうや)という。人の気配が全くない。寒さに震えながら下り続けると郷野原(ごうのはる)という集落に入った。行政区は旧清和村で、今は山都町になっている。学生時代、清和村の友人がいて、
「よっ、村民!」
からかった事を思い出した。学生という生きものは人をからかうのが半ば仕事のようなものであって、私はよく図書館にこもった。からかうネタを探すためである。
私は義務教育を卒業するや電波高専という国立の学校に入った。テスト勉強は一夜漬けで留年スレスレで卒業したが、人をからかうための勉強は実にマメであった。
「県下最強の田舎はどこだ?」
一時、その事をマジになって考えた事がある。阿蘇郡の代表は波野村であろう。上益城郡の代表は清和村であろう。球磨郡の代表は水上村であろう。八代郡の代表は泉村であろう。実走し、色んな情報を集め、大いに考えたが、どれも甲乙付け難く、抜き差しならぬ田舎であった。
私は郷野原を走りながら清和村の友人を思い出した。
「お前の村に何があっとや?」
「星がある」
「笑えるー!」
この村には灯りというものが徹底的にないため、全国でも有数の星を見るスポットになった。天文台もあったように記憶している。
私は歳を重ね、自ら村民の地位を欲し、手に入れ、友人の言葉を反芻し、そして感動した。
「星がある」
実に良い言葉であった。更に友人はこの言葉とのバランスを取るため一つの自慢をした。それが「Aコープ前の信号」であって、「それができたから田舎じゃない」と言い張った。私は山鹿という街の出身で、都会人ではないが田舎の人でもない。この言葉を大いに笑ったが、当時、信号は超田舎と田舎の重要な線引きだったらしく、五木村の友人が黙り込んだ。負けたと思ったらしい。五木村には信号がなかった。
バイクは九州山脈を南へ突き進む。山脈は県境であり、目的地へ着くまでに熊本、宮崎、熊本、宮崎、鹿児島と県を跨ぐ。
菅尾(すげお)という集落に入った。私は以前から、この菅尾という場所が気になっていて、その理由が県道から見える見事な山門であった。バイクを停め、冷えた体を温めるべく石段を登った。
事前に図書館やネットで寺の事を調べた。集落に真宗の玄光寺があると書いてあったが、これが玄光寺あろうか。看板も額もなかったのでよく分からなかった。
山門をくぐって分かったが、この寺は無住らしい。見事に荒れていた。造りが恐ろしく立派なだけに荒れっぷりが際立っていて実に痛々しかった。石段も草ボウボウで、本堂前も泣きたくなるほど放置プレイであった。
この菅尾という集落は江戸時代、近辺の政治的中心ではなかったか。図書館でそういう想像をした。肥後国内における領内の行政単位を手永というが、この近辺は菅尾手永という。往還筋で大いに栄えた馬見原も菅尾手永に属す。古い時代の馬見原は金持ちの町として有名で、この菅尾もそれなりに栄えた村だったろう。それなりでなければこの山門は異常であって、馬見原が衰退した時に菅尾も衰退し、今に至ったと思われる。
(やはりバイクは速い)
菅尾、馬見原を走り抜け、そう思った。ポンコツバイクであるが、歩くより遥かに速い事を町の通過で実感した。歩きであれば間違いなく馬見原に寄ったであろう。が、バイクは観光地化された通りを一気に通り越してしまった。速過ぎて立ち止まるべきものが見えていないと思われる。
馬見原が寂れた理由は道であった。肥後と日向を繋ぐ道、その真ん中が馬見原であり、旅人の多くが馬見原で草鞋を脱いだ。旅人の足も遅かったし、モノの流れも緩やかだった。町では市も立ったし、馬見原駄賃という輸送業も栄えた。林業も絶好調で馬見原は金持ちの町になった。が、道の本数が増え、舗装され、流れが速くなり、人が中継点を欲さなくなると馬見原は普通の町になった。
山村にとって便利になるというのは考えものらしい。チェーンソーの登場で林業が手軽になった。交通の飛躍で安い外国産の木材が輸入されるようになった。気が付けば木こりも人も馬見原から離れていた。
過去に栄えた「山村の典型」が馬見原にある。じっくり見ればそれなりのものが浮かんでくるかもしれぬが、バイクは宮崎県に入ってしまった。この点、ポンコツとはいえども旅が早送りで過ぎていった。
道は国道265号線である。五ヶ瀬川に沿って南下する道で古道といえる。ただし、この先にある椎葉村の観光地化に伴い、ひどく立派な道になった。椎葉村は秘境のイメージが濃かったが、これだけ立派な道が通っては秘境と呼べないだろう。山村が右も左も同じような風景になりつつある。
国道から五ヶ瀬川に寄り添っている集落が見えた。鞍岡というらしい。「九州発祥の地」という意味不明な看板があり、その理由を知るため集落に入った。観光看板というのはこういった意味不明なものがいいのかもしれない。こうやって流れる馬鹿野郎がいる。
国道を左へ折れ、集落に入り、説明書きを探したが見付からず神社へ着いた。祇園神社であった。祇園神社は疫病を恐れる人の心が勧請する。祀り神は牛頭天王やイザナギノミコトである。牛頭天王は祇園精舎を守っている神様で疫病から人を守ってくれるらしい。凄いこじつけに思えるが、祈りなんてものはこじつけがあるだけマシである。集落は疫病を恐れ、牛頭天王を勧請し、今も神域を守っている。
新型インフルエンザの話で持ちきりだった時、私は牛頭天王の事を思った。目に見えぬ疫病がこうして流行った時、古い時代の日本人は牛頭天王に頼るしか防衛手段を持たなかった。今は疫病のカラクリが分かっていて、打つ手が見えている。神様には辛い時代の到来だが、それでも駄目となった時、人はまた神にすがるだろう。勝手ではあるが、心のセーフティーネットとして限界のない神の力がいる。
祇園神社で「九州発祥の地」という看板の意味を探した。が、そういった看板が見当たらなかった。人にも会わなかった。仕方がないので古い宿場を楽しもうと思ったが、大して宿場の雰囲気もなかった。一つだけ良かったのは左の山である。カタチが良かった。祇園山というらしい。ここの大字は鞍岡という。熊本にも鞍のような山という事で鞍岳があるが、この鞍岡も山に因ったのではないか。そんな事を思いながら通過し、これを書きながら「九州発祥の地」、その意味を調べた。驚いた。地殻変動により九州が海上に現れた時、最初に頭を出したのが祇園山らしい。四億三千万年前の化石が出ると書いてあるが、遠過ぎて実感が湧かなかった。
九州の中で最もぶ厚い山の群れがこの辺りであろう。四方八方山であり、だからこそ山向こうの椎葉村は秘境と呼ばれた。古くは北から椎葉村へ入る手段として霧立越えという尾根伝いの道を通ったらしい。この道を平家の落武者も歩いたし、馬見原の荷駄も通った。今も歩けるらしいがバイクは行けないだろう。国見峠を走る事にした。
椎葉を秘境から遠ざけた最大の文明はトンネルである。日本という国が急激な成長を続けた時代、椎葉へゆく国道265号線は酷道(こくどう)と呼ばれたらしい。道は狭く曲がりくねり、雨が降れば崖が崩れる。そういう道でしか椎葉に行けなかった。だから秘境と呼ばれた。椎葉が文明を求めたのか、宮崎がトンネルを欲したのか、それはよく分からない。とにかく国道265号線は広くなり、地球の突起物はトンネルによって串刺しにされた。
私が走ろうとしているのはトンネルの上、今は旧道になっている国見峠である。せめてその道を走らねば椎葉は椎葉でなくなるだろう。トンネル手前から右に逸れた。通行止めの看板があったが、そういうものを気にしていては歴史の旅が成り立たない。構わず進んだ。
道は荒れていた。石が転がっていた。舗装も剥げていた。が、バイクなら悠々行けた。途中、舗装の半分が崖下に落ちている場所もあった。こういうのを復旧するくらいなら通行止めにしちゃえという行政の判断だろうが、それは適当な判断に思える。この道は如何にも土砂が崩れる道で復旧しても崩れ続けるだろう。
山は右も左も杉山であった。杉山の造成は地下水を山に溜め込むための渇水対策と聞いたが、杉山は土砂崩れが多いように思われる。これは山に住む者の単なる所感であったが、この日、椎葉村で偶然会った先生にその理屈を聞いた。杉は根を横に張るらしい、水を溜め込むには打ってつけだが、根が浅いため土砂崩れを引き起こしやすいという。
何にせよ偏った風景というものは見た目にいいものではない。自然林を見た後に人工的な杉山を見ると人間というものの底の浅さを痛感せずにはいられない。人間の考えが及ぶ範囲は高が知れていて、とても神様には及ばないらしい。
バランスに依っている循環物(神様の仕事)に偏りを与えるのはいつも人間である。保水が必要だから馬鹿みたいに杉を植えるというのは、サプリメントに頼る都会の食生活に何となく似ている。あれが足りない事に気付き、今度はあれを与え、今度はそっちが足りなくなったからそれをやる、変な繰り返しが永遠と続く気がする。
国見峠の標高は1130メートルである。さすが秘境の入口であるが、見晴らしは極めて悪かった。右も左も杉山が迫っていて、視界が狭かった。その代わり空は澄んでいた。私はグリーンの中から見るブルーが好きで、このコントラストの心地良さは他に替えようがなかった。
峠を下った。道に岩や石が転がっているのでスピードは出せない。恐る恐る下っていると、危うく鹿をひきそうになった。ひくというのは上から目線であるが、たぶん鹿とぶつかったらバイクは負けるだろう。その点、鹿にひかれそうになったと言った方がいいかもしれない。
私の古い上司にSさんという変わった人がいる。その人は車で鹿と衝突した。鹿も死んだが車も廃車になったらしい。鹿というのはそれくらい頑丈であり、そういうのが山からピョンと出てくるので危険極まりない。
それにしても鹿が多い。阿蘇から鹿児島まで、山道だけでなく集落近くも鹿の連続であった。杉山に食べ物がなく、表へ出てきているのかもしれない。人間が与えた偏りはこういうところにも響いているのではないか。
国道に戻った。十根川という清き流れに沿って南下すると、また立派なトンネルが現れた。私はトンネルが嫌いなので反射的に迂回すると、山にしては巨大な水に出くわした。堰堤で川の流れを止めているらしい。有名な耳川であった。
川向こうに発電所が見えた。その先にも発電所があった。道は広々していた。地図で想像した椎葉のイメージと目の前のそれが離れ過ぎていて道を間違えたのではないかと思った。地図を見た。残念ながら合っていた。椎葉であった。
旅の準備として私は観光案内を見ない。地図を見、小字(集落名)を見、道を追う。道を追いながら椎葉が秘境から離れた事は分かったが、村の風景は残っていると信じていた。地図が教えてくれたのは入り組んだ水の流れであった。耳川の支流が網の目に伸びていて、それらは川の名を成していない。谷であって、例えば目の前の発電所には弓木谷、山の本谷、いちご谷、猿ヶ城谷が寄っていた。
想像は勝手である。勝手に想像し、勝手にガッカリしているが、地図と風景のギャップは如何ともしがたい。地名や谷の名前が美し過ぎるだけに、耳川沿いの公共事業は夢の世界のように思える。地図が現実か、目の前のそれが現実か、よく分からなくなってきた。
椎葉という村は地図や民俗学の本で楽しむべき場所なのかもしれない。右手、山の方に野老ヶ八重(のろがはえ)という集落があった。更に進み、落水谷と六弥太谷の間に佐礼(ざれ)の名が見えた。左には村椎(むらじ)の名があった。地図はこれら集落に民家の存在を告げていた。が、道がない。どうやって行ったらいいのか分からなかった。
私は耳川を走りつつ左右の山をぼんやり眺めた。何か見えてはいけないものを見てしまった心境で、私にとっての椎葉村は、この瞬間、別のものになった。
ダムを目前に控えたところが椎葉村の中心で、有名な鶴冨屋敷があった。勝手な想像の繰り返しで本当に申し訳ないが、この集落を遠目に見た瞬間ギャフンとなった。典型的な観光地であった。公共事業の行き届いた街並があって、少し登ったところに鶴冨屋敷があった。更に登ったところに民俗芸能博物館があって、も一つ登れば厳島神社があった。
神話と呼ぶには現実的だが、現実というには嘘臭い。平家の落武者伝説や鶴富姫の恋物語、近辺はそれらにまつわる史跡が多かった。平家の史跡は全国的に人気があるらしい。全国の史跡という史跡がそうなりつつあるように、それらは観光の呼び水と考えられた。椎葉のそれも既に町おこしという近代魔術の手付きであって、むろん硬くなっていた。
例えば民族、例えば建築、ピンポイントな目的で訪れるなら椎葉は良いかもしれない。しかし、私のように古い山里を鳥瞰したいという低徊趣味的訪問は、耳川沿いに立つ限り、適さぬように思われた。
バイクは南へ向かって走り出した。私はバイクという言葉に愛情を見出せないでいる。従って、娘が付けた「アソカラ号」を以後の呼称としたい。
アソカラ号の右にダムが見えた。雨が降っていないのか、底が見えそうなほど水がなく、水際では重機が土砂をすくっていた。
ダムを挟んだ反対側に「ひえつきの里」というキャンプ場があった。「ひえつき」とは稗を脱穀する作業であるが、この時に歌う歌を「ひえつき節」という。田植え歌すら機械の登場で消えて果てた時代だから、ひえつき節などは絶えて久しいように思われる。が、こうやって観光資産にする事で焼畑農業は絶えても歌は絶えないのかもしれない。
町おこしの功罪を想いながら進んでいると気になる看板を発見した。又してもナントカ発祥の地で、今度は「日本民俗学発祥の地」と書いてあった。行くか寄るか迷ったが、看板を見ると脱線の距離は短い。短いならという事で右に曲がった。
石垣の立派な家が日本民族学発祥の地であった。平屋の古い家があって、その前に看板があった。読んでみると、ここは旧村長の家だという。明治41年、柳田国男が椎葉村を歩き回った際、この村長宅を基点とした。後年、柳田国男は民俗学の頂点に上り詰めた。彼はそういう立場にあって、
「この椎葉村での体験が今日では日本民族学の出発点のように言われている」
そう語ったらしい。それで日本民族学発祥の地となった。
「ふーん」
特に感動もなく読んでいると、背後にいた人が寄ってきた。ここに住まれている方であろうか、花に水をあげておられたが、それを放り投げ、
「好きですか?」
短く問われた。低くて太い声であった。足元はサンダル履きで眼光が鋭い。いかにも教育現場にいそうな人で、風格に膨大な活字が匂っていた。
私は返答に窮した。民俗学が好きかと問われているのだろうが、ハッキリ言って定義したがる学問は嫌いである。が、営みの結晶である民俗は好きで、何とも言えなかった。
「お茶飲む時間くらいあるでしょう、そこに座んなさい」
「はぁ、ありがとうございます」
家主らしき人は私を椅子に座らせると、リボビタンDを出してくれた。スイカも出してくれた。
「甘いよ、食べなさい」
そう言われたが、私はスイカの名産地で育った事から食傷気味で、今現在、最も苦手な食べ物がスイカであった。リポビタンDを頂きながら色んな話をした。
「おたく、観光?」
「観光というか、バイクでフラフラしてる最中です」
「こういった古い家に興味ある?」
「はい、かなり」
見た目通り、この方は教育者であった。しかも並の教育者でなく、宮崎教育界の大物であった。教育担当の役人として半生を宮崎の青少年に費やし、今はこの史跡で自然と共に暮らしつつ非営利の塾を運営されているという。
私は非営利の活動というものを常に疑っている。どうせお決まりのNPO法人か何かで補助金貰って運営されているのだろうと思ったが、話を聞くと完全非営利であった。
教育者はAさんという。Aさんは定年退職後、自らの退職金でこの史跡を買い上げたらしい。理由が凄い。荒れ果ててゆく史跡をどうにかしたいと思ったそうな。Aさんは旧村長宅を買い取った後、自ら修理し、そこに塾を開いた。
「何の塾ですか?」
井上馨のように書生を囲って語らせて、明日を考えているのだろうか。そう思ったが少し違うらしく、宮崎県の先生たちを招き、明日の教育について勉強するのだという。Aさんは先生の先生であった。
塾の仕組も凄い。三食付で塾料、宿泊費、共に無料らしい。聞けば聞くほど怪しくなった。この時代、無償の心というものが本当にあるのだろうか。無償の心を成立させるためには万物の上に立った道徳心、もしくは強制力を持った世の仕組、あるいは強い宗教観のような精神を押さえ付けるものがいるのではないか。仮にそれらがあったとしても基本構造として人は逃げやすく、無償の心というものは成立しがたいように思われる。
例えば阿蘇に甲斐有雄という凄い人がいる。この人は石工として成功した後、その全財産を道標に変えた。二千近く、阿蘇に道標を落としたらしい。この人の無償はカネが一箇所に溜まる事を恐れた雰囲気がある。田舎の仕組というものは貧富の差を神の名において強制的に均すようにできている。庄屋は庄屋であって、農民は農民でなければならない。甲斐有雄は成功し、カネを手に入れ、自らの身に災いが降り注ぐ予感を得た。想像だが、先手を打ってカネ吐き出したのではないか。
何にせよ無償の心というのは理由と共に強い意志がいる。当然、並の人では持ち得ない。
初対面のAさんを前にして失礼だが、上のような事を話した後、Aさんがやられている非営利の活動が理解できない。凄いとは思うが無償の心が分からない。「その意味を教えてくれ」と、他にも聞きたい事は色々あったが、まずその事を聞いた。
Aさんはさすが教育者であった。方々で公演もされているらしく、説明が理路整然としており、実に分かりやすかった。こういう人に一晩中教えを請えば、書物を読む数倍色んなものが飲み込めるだろう。
Aさんの無償は恩返しらしい。税金で生きたから定年後は貯金をフルに使って恩返しをするという。
こういう人を何人か知っている。定年後、世に恩返しをしたいと考える公務員は意外に多い。このうち半分でも行動に達せば公務員の見方も変わるだろうが、普通は家族の反対に遭い意気消沈される。
「嫁子供が怒ったでしょう」
笑いながらそう返したが、Aさんは見た目通り突き進む人で、嫁はともかく子供には一円も渡さんらしい。家族がどう思っているか分からぬが、とにかく社会に恩返しをするという。
「家を出た子供にカネをやるのは馬鹿親のする事! 子供の人生を駄目にする!」
論理が爽快であった。
続いてAさんは家の中を見せてくれた。私は建築に詳しくないが、ぶ厚い一枚モノの天井板、太い柱、削り出された石、それらの説明を受ければ、この家が山村における長者の家という事がよく分かった。いちいち部品が贅沢で、山村の誇るべき贅に思える。
ちょっと立ち寄るつもりが気付けば二時間も経ってしまった。財布を探すと一枚だけ名刺が入っていたので、名刺交換をした。間違いなく、また足を運ぶだろう。偶然とはいえ良い寄り道であった。
ちなみに国見峠で書いた杉山と土砂崩れの関係はAさんに聞いた。杉山の造成は見直されていると思ったが、今もバンバンやっているらしい。植林と補助金がなければ今の林業は食えないらしく、根本的に見直さねば全国の山村は消えてしまうに違いない。
農村は新規参入の連続で、農協を始め色んな仕組が変わりつつある。が、漁業、林業はやはり敷居が高い。昔ながらの組合運営に補助金注射の連続では何も変わらない気がする。悲鳴を上げるのが組合の仕事ではない。現状に合わせ新たなカタチを模索するのも組合の仕事であろう。
さて、この集落は竹の枝尾というらしい。Aさんに氏神を聞いたところ、「そこの山」と指で説明を受けたため、登ってみた。祀り神は山の神様らしい。
登ってみると公民館みたいな神社があった。現に公民館兼神社なのだろう。畳敷きの大広間があって、奥に神殿があった。写真が幾つか貼ってあって、それをぼんやり眺めた。ここで神楽を舞うらしい。
境内に凄まじい大きさの切り株があった。何年ものであろうか、悠久の時間にしゃがみこんで年輪を数えていたところ、地元の人が現れた。むろん、ここは余所者が来るところではない。挨拶したが返してもらえず、その後も観察を受け続けた。田舎に泥棒が行けないというのは、こういう仕組による。
国道に戻って南下を開始した。峠道であった。飯干峠という。如何にも難所らしい名前であって、標高は1050メートルである。Aさんが言うに柳田国男もこの峠を越えたらしく、頂上で握り飯を食ったらしい。
Aさんはこの近辺における町おこしの仕掛人である。
「屋号がある! 屋号を表に出そう!」
そう言ったそうな。
この地域は街道筋の商家群でもないのに全戸が屋号を持っている。大らかな時代の名残であるが、それに価値を見出すのは余所者の仕事であろう。当たり前のものに人は価値を見出せず、価値を与えるには客観的な目がいる。
道を走りながら巨大な壺を幾つも見た。巨大な壺に白いペンキで屋号が書かれていた。大人もスッポリ入るほど巨大な壺で、以前はどの家も水瓶として使っていたらしい。Aさんはそれを引っ張り出し、町おこしの看板にした。なるほど、風景の邪魔にならず、なかなかいい。カネをかけるだけが町おこしではない。
私の勝手な想像が悪いのだが、椎葉の中心にはガッカリした。が、それはダムによるものかもしれない。ダムを過ぎた後、イメージに近い椎葉村が辛うじて現れてくれた。谷道の終わりは川の口という集落であったが、見事な山村の佇まいであった。道があって畑があって石垣があって家がある。適度な距離を保って民家が並び、その背後には緑の塊があった。道が広いのが残念であるが、構成は山村の基本に忠実であり、遠目に映えた。
川の口から先、人の気配が絶えた。道も一気に細くなり本格的な峠道に入った。ギアは一速から変わる事なく、戯れに二速へ入れると止まりそうになった。
冒頭にも書いたがアソカラ号はリッター七十キロ走る。が、登りは一速固定のため著しく燃費が悪くなるらしい。ガソリンの残量を見、何となく不安になった。椎葉村で補給するつもりだったがスタンドが見当たらず峠に差し掛かってしまった。この先、球磨郡湯前町に出るまで、たぶん山しかない。椎葉村の車は水で走るのだろうか。なぜメインストリートにスタンドがないのか。
時速十キロ、ゆっくり登り続けて飯干峠の頂に達した。ここにも巨大な壺があり、白い字で峠の名が書かれていた。そういえばAさんの名刺には号が載っていた。書に関する号であり、白字の達筆はAさんの筆であろう。
ちなみに私の悪筆は有名であり、たまにファックスした後、字に丸が付いて返ってくる。「この字が読めません」という意味らしい。おかげで名を書かずとも字で差出人を察してくれる。達筆も素晴らしいが、悪筆も悪筆でそれなりにメリットがある。
峠の頂上でガソリンの残量が危険ゾーンに達した。本気でヤバイ状況であった。さっきから右に左に鹿が見え、こちらの様子を窺っている。ガソリンが切れたら突進してくるのではないか。変な汗が出始めた。場所が悪い。ここは九州山脈ど真ん中、モノノケたちの住処であり、人の気配までは県境を含め、幾つか山を越えねばならない。
下りはアクセルを回さないようにした。自由落下で落ち続け、登りは優しくアクセルを回した。熊本県に入った。水上村である。針はエンプティーにベタ付けでいつ止まってもおかしくない。幸い市房ダムまで長い下りだった。下り続け、思い出の湯山温泉を通過した。
湯山温泉には忘れられない思い出がある。以前、嫁と水上村の民宿に泊まった時、温泉で酔っぱらいと揉めた。宿には風呂がなく、近くの公衆浴場へ行く仕組であったが、そこで服がなくなった。ゆるり湯に浸かり、さぁ着替えようと脱衣所に出ると服がないのである。探した。かなり探した。と、そこへ酔っぱらいがフラフラと便所から出てきた。驚いた。私の服を着ていた。
それから大いに揉め、服を取り返したわけだが、服に血は付いているし、ポケットに入れていたジャリ銭はなくなっているし、最悪であった。むろんイライラした。酔っぱらいに「金を返せ」と詰め寄った。「幾ら?」と返してきた。「四百円」と正直な金額を告げた。すると、
「なんや、たった四百円かい!」
酔っぱらい、そう言い放った。これにはカチンときた。胸元押して飛び掛ったわけだが、それを見ていた嫁の方が大爆発した。
「一円でも、お金はお金なんだからねー!」
嫁はプルプル震えながら酔っぱらいに詰め寄り、ありとあらゆる怒りの言葉をぶつけ始めた。こうなっては、もうどうにも止まらない。女という生きものの基本はヒステリーである。
「まぁまぁ、お前が怒るな」
「うるさいっ!」
変なカタチの修羅場になってしまった。五年前の話であった。
とにかく道が下り続きだったのは助かった。ダムを越えてからも緩やかな下りが続いていて、何とか多良木町までもってくれた。
少しだけ風景が賑やかになり、ちらほら信号が現れた。その信号待ちの時、ガソリンが尽きた。押してスタンドを探したところ、すぐに見付かった。
田舎を侮ってはいけない。リッター七十キロといえども九州山脈を息継ぎなしで縦走するのは困難であった。
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