第101話 そんな道子のガン騒動(2014年10月) 8KB

家族

「これ絶対ヘンじゃない?」
道子が首筋を触れと言ってきた。何だかピキッとして痛いらしい。触った。が、分からなかった。
「何で分からんと?」
道子は怒った。納得がいかないらしい。明らかな違和感があるらしく、首の痛みが手に腰に広がっている感じがするらしい。
「これはヘン!経験した事のない痛み!ガンじゃないかしら?」
そう思ってしまうと、そうとしか思えないのが人間。ネットで色々調べてリンパ腺のガンというものを見付けた。症状がそれに近いらしい。
「死ぬかもしれない」
道子の告白を受けて、私も娘も大いに笑った。
「うけるー!」
笑うしかなかった。道子は身長173センチ。38歳の今も年に1ミリ身長が伸びていて、生涯現役はあるが、こやつは生涯成長期、成長期ゆえ見た目も若い。歳を聞かれたら恥じらいもなく10歳はサバを読む。睡眠もたっぷり。食欲も旺盛。インフルエンザで家族が全滅しても道子だけは無傷。子を産めばラマーズ法のヒッヒで出し、フーは産み終わった後という驚異的安産。産婦人科の最短分娩記録を更新し、安産の神と称えられた女。
「ガンはなかろー!」
家族みんなで決め付けた。
が、数日経っても首、肩、腕、腰の痛みが消えないらしい。
「やっぱりガンよ!私は38歳で消えてしまうのね!まだ消えたくない!」
三女(8)の手を優しく握り、
「こんな小さいのに、まだ逝きたくないっ!逝けないっ!」
そういう姿を見ていたら、だんだん心配になってきた。しまいには一緒に笑っていた次女や長女が焦り出し、私を責め始めた。
「おっとーが病院に行かせないから良くないっ!」
私は行くなと言った事はなく、まずは健康診断の結果を見て近所の病院へ行ったらどうかと提案しただけだが、どうも娘には母親を押さえ付けているように見えたらしい。
道子の溜息は日に日に家庭へ染みた。もし入院したら家事はどうなる?とか、部活の送り迎えはどうなる?とか、一番問題なのは父の世話をどうする?とか、娘たちが真剣に話し始めた。
悪役は常に父。愛すべき母を軟禁し、当人は勝手気ままに遊ぶバカ。
「ほら見てごらん、今日もママを触って怒られてる、死ぬかもしれないのに触らないでって本気で怒られてる、ああ、かわいそうなママ、そして憎らしい父」
娘たちの視線が日に日に厳しくなってきた。早く病院へ連れて行かねば父の立場は極めて危うかった。
「病院へ行こう、運転が辛かったら俺が運転するぞ」
娘たちの目をバリバリに意識した私はそういう具合にならざるを得ず、10月2日、隣に嫁を乗せ、熊本市内の大病院へ走った。
出発の前に健康診断の結果を聞いた。一ヶ月ほど前に村主催の健康診断を受けていて、もしも異常があればそこに出ているかもしれない。が、異常はなかった。一点の曇りもない見事な結果で、むしろ旦那の方に問題があると言われた。
道子は大病院を信用し、町医者や村を信用しなかった。
「私の違和感を分かってくれるのは夫や村じゃない!国が認めた大病院の大先生よ!きっと何かある!運転できないほどに首が痛いんですもの!」
私は自称病人を運びつつ、どこがどう痛いのか詳しく聞いた。ピキピキ、コリコリ、ギュギュッ、色んなところが色々痛いらしい。色々が多過ぎて全く分からなかったが、一つだけ診断可能なところがあった。運転できない理由が「バックで後ろを向いた時、首がピキッとなる」らしい。
(それは単なる寝違えじゃ?)
そう思ったが、むろん口には出せなかった。
大病院の玄関に着いた。道子を降ろすと私だけ病院を離れた。昔から病院と役場が苦手で、そこは人を待たせる事に罪悪感がなく、やたら拘束される事が分かっていた。一緒に行くと病気になりそうなので近くのパチンコ屋で診察の終了を待つ事にした。と…、いきなり車をぶつけられた。枠内に駐車していたら軽自動車が真っ直ぐ私のところへバックしてきた。クラクションを鳴らしたが間に合わず、お尻と頭がぶつかった。
運転していたのはヨボヨボのおばあちゃんであった。土下座せんばかりに謝られた上、傷も分からなかったので無罪放免とした。
パチンコも負けた。現状負けてはいけない経済状況であったが久しぶりに大負けした。
気付けば2時間以上経っていた。診察終了の連絡はなかった。
暇になった。暇はダメ。色々考えてしまう。胃が痛くなってきた。車の接触もパチンコの負けも何かの予兆ではないか。
「道子が入院したらどうしよう?」
「道子が本当にガンだったらどうしよう?」
「道子が死んだらどうしよう?」
人間は弱い。負のスパイラルに陥ると、なかなか浮き上がれない。こうなってしまうと神頼み以外やる事がなかった。
「近所に神社仏閣はないですか?」
パチンコ屋の店員に聞いたが分からないと言われた。とりあえず駐車場で祈った。祈り続けた。祈っているところに道子からの電話が鳴った。声は明るかった。無理して笑っているかもしれなかった。携帯を閉じて気付いたが、手は汗だく、全身びっしょり。動悸、息切れ、吐き気に胃痛、もはや何でも来いの状況で道子を迎えに行った。
これから先は嫁の話になる。
白衣の女医に症状を説明し、首と胸のレントゲンを撮ったらしい。触診で分かるのは多少の筋肉痛。シコリみたいなものは全く見当たらないと言われたらしい。
道子はレントゲンを撮られつつ事態が恥ずかしい方向に進んでいる事をやっと認識したらしい。
(しまった!)
気付いたけれど、もう遅い。
(少しでも病気が見付かりますように!)
後半はそう願い続けたという。が、女医の見立ては筋肉痛から変化しなかった。最初から最後まで一貫して筋肉痛。それはレントゲンを見ても変わる事なく、道子の叫びも届かなかった。
「私の父はガンで亡くなったんです!ガンの可能性はありませんか?」
「いいえ、単なる筋肉痛です」
女医は困った。この熱烈な患者に医者として何かアウトプットを出さねばならず、むりやり投薬を施した。
「どんな薬?」
「痛み止めの薬、これ、塗り薬」
「塗り薬?」
「アンメルツみたいなもんだと思う」
「・・・」
「もー、なんか言ってよ」
「そうね・・・、そう、ニベアでも塗っとけば」
「そうする」
帰路一緒に飯を食って帰った。道子はカレーとラーメンを食った。
「食欲もあるし病気なわけないよね」
「・・・」
「あの感じは筋肉痛じゃないと思うんだけどなぁ」
「・・・」
「運動不足でどうやって筋肉痛になるんだろう」
「・・・」
道子は多弁。私は無言。無言で数分前の私を想い続けた。
私は祈っていた。祈りは通じた。
道子は知らない。筋肉痛に祈った男がいる事を。