男という生き物は女の変わり目に必ず苦悩するものだ。
例えば父親。
少女からレディーに変わるその数年、
「足臭い! 寄るな! 見るな! 洗濯物は別!」
己のエキスから変異した、その可愛い可愛い娘に罵倒され、
(なぜ?)
眠れぬ日を過ごさねばならない。
その事まさに運命。
例えば結婚二十五周年。
長年連れ添った妻が更年期障害を迎える。
体が熱い、頭痛がする、関節が痛い、それらのとばっちりはなぜか夫。
「このアブラ野郎! いるだけで目障り! はやく保険金をくれー!」
妻の罵声を尻目にそそくさと家を飛び出し、
(なぜ俺が?)
深夜、公園のブランコで一人寂しく口笛を吹く。
またそれも運命。
例えば結婚七年目。
三人の娘に恵まれた太り気味の男がいたとする。
彼は三十路を間近に控え、酒を呷りながらこう思うはずだ。
(俺は妻の顔色を窺いながら生きてゆかねばならないのか?)
男は最初にぶつかる苦悩、
「妻から母になる瞬間」
この現実に悩んでいるはずだ。
「遊んでよー! ゴロニャーン!」
足取り軽かった妻が出産を境にだんだん気性が荒くなり、ある時期から母になる。
母へと変異した女は、ほんの数年前の姿を綺麗サッパリ忘れ去り、子育てと韓国ドラマ、それと茶飲み話のみに没頭し、
(旦那は餌だけやっときゃ生きていく)
そういうスタンスになってしまう。
旦那がソロリ太ももなど触ろうものなら、
「やめてよっ毛虫!」
バチーンその手に平手打ち。
人として、いや哺乳類としてすら見てもらえない手厳しい仕打ちを受ける。
落ち込んだ男は次の行動を採るはずだ。
近所の図書館じゃ恥ずかしいので、ちょっと離れた書店まで出かけ、女性心理の本を読み漁る。
そして、また悩む。
(なるほどなぁ、サルもパンダもメスは変わってしまうのか、そうだよなぁ、子を産めば女は変わるよなぁ)
子育ての大変さを横目で知っているから理解しようと努めるはずだ。
が…、本で読んだその情報より、時間をかけて知った妻の印象、その方が何倍も濃く深い。
(あの妻がそんなスピードで変わるわけがない)
深層心理でそう思っている。
だから登山家が「山があるから登る」と言い切ったように、そこに隆起物があれば触りたいし、寝る時は普段通り腕枕を求めて引っ付いてくるものだと思いたい。
だから男は叩かれても叩かれても挑もうとする。
そして「なぜ?」を繰り返す。
悪気はない。
男は急激な変化に困惑しているのだ。
女性陣にだって考えてもらいたい。
何年も隣にいた福山雅治が一瞬のうちに江頭2:50に変わっていたとする。
そのありえない現実を貴方ならどう捉える?
…。
ね…。
受け入れ難いでしょ。
上に挙げた悲しき事例は決して私の事ではないので語れる立場ではないが、一般論として、男性の叫びを集めた結果として、世の女性たちに言いたい。
「その瞬間、その影で、身近な男性が泣いているんですよ」
ちなみにこの男の話、涙なしでは続きが聞けない。
「柔らかいところは触らないで!」
妻に怒鳴られた男は硬いところを探したそうな。
「カカトです、そう、カカトしか僕は触れんかったとです!」
男泣きに泣く、その男が妻のカカトを悲しげに触っている姿を想像した時、男なら絶対に胸が苦しくなるはずだ。
そして、涙を禁じ得ないはずだ。
若い男、
(そうはなりたくない!)
ゾッとし、古い男、
(俺も昔はそうだった!)
涙目で回想する。
つまり、それは男として生まれた運命、運命と書いて「さだめ」なのだ。
嗚呼、何と悲しき「さだめ」だろう。
「暑いから寄らないで!」
そう叫んでいた妻が涼しくなった途端、
「涼しいんだから寄らないで!」
金切り声で叫び立てる。
これも男と女の秋風景。
風も心も季節もそう、模様は既に秋である。