世の中に変わった人は多かれど、こうも変わった人は稀ではないか。
宮崎のAさんである。
Aさんとの出会いは偶然であった。椎葉村へ行こうと思ったのも偶然だし、近くを通ったのも偶然、看板を目にしたのも偶然、興味がない民俗学になぜか惹かれ、脱線し、Aさんの元に吸い込まれたのも偶然である。一つ一つは偶然の積み重ねでも、全体的に見ると必然に思えてくるのが運命のカラクリであろう。
長女と二人、このAさん宅に足を運んだ。8月25日であった。
Aさんは宮崎県椎葉村の外れで私塾を営んでおられる。教育者に教育を行うための私塾で、その道の人には超有名らしい。Aさんは宮崎県教育界の重鎮であろう。
「定年まで公金で生かしてもろうた、これからは恩返しに人生を捧げる」
Aさんは朽ち果てていた旧村長宅を買い取って修理し、終の棲家とし、志ある者の研修場所とした。
冒頭で書いた出会いの日、私は二時間近くAさんと話した。Aさんの話はどれも魅力的で、落とせぬ話の連続であったが、一つ一つに「無償の心」が見え隠れした。
無償の心は美談の心臓である。それがなければ美談は成立せず、どの時代も僅かしか存在しない。だから人は美談に憧れ、涙を流し語り継ぐ。
感動屋の私は美談が好きで、美談を拾ってはメモし、いつか小説に書いてやろうと準備を進めているのであるが、昨今の美談は粘っこさの上に立っているように思える。粘っこさとは人間の俗っぽい部分であるが、それが見えると天上界にいた美談が同じ目線に落ちてきて、奥様の噂話と何ら変わらぬ存在になる。むろん、そうなった瞬間メモはゴミ箱へいくし、私の心もうなだれる。
美談に恋い焦がれているだけに期待が強過ぎるのかもしれない。愛憎は隣り合わせだから、時には嘘っぱちの美談に怒ってしまう事もある。商業主義に乗った美談は大半が人寄せである。最近は非営利を冠した組織的美談が多く、私の心と体はそれを見ただけで逃げ出してしまう。経験から強い反射を得てしまった。
「ああなりたい!」と憧れるから損得抜きに食い付く。それが美談の魔力である。美談を巧みに操る輩が多く、無償の心を鷲掴みにできない現状があり、何度も失恋を繰り返した私がいる。
Aさんである。
Aさんの話に酔った私は酔ったゆえに警戒した。
「甘くて素敵な彼氏が私の事を好きと言ってるの! でも、それは私の体が目当てなの! いやーん、どうしたらいいの! 教えて、神様!」
そう言って暴れる婦女子のようで極めて面倒臭い。が、警戒は経験の積み重ねが発するものゆえ自分では止めようがない。つい馬鹿正直な言葉を投げてしまった。
「無償の心が掴み辛い」
するとAさん、この面倒臭い若造に「またおいで」と言ってくれた。警戒は指摘されたり反発されると、膨らんだり爆発したりする。しかし、受け流されると簡単に折れてしまう。前述の面倒臭い婦女子もそうであろうが、私もこのAさんに色々教わりたいと思った。ただ、Aさんがやっている塾は教員専門である。私は教員でない。勝手気ままなモノづくり屋である。その事を問うと、
「どうでもよろしい」
男ぶり溢れる竹を割ったような回答を得た。
通常なされる講義の内容を私は全く知らなかった。後手にはなるが、泊まった晩にその事を聞いてみると内容は教員によって変えており、定型がないらしい。教育現場でぶつかった課題を事前にAさんに投げておき、その晩、語り合う事もあれば、教育という壮大なテーマについて寝ずに語る事もあるらしい。特に課題がなく「勉強しに来た」という教員にはAさんが課題を用意する事もあるそうな。
Aさん宅はガッシリとした平屋である。見通しの良い畳敷きの空間に悩める教員が膝突合せて論じ合い、その中央にAさんがいる。Aさんは吉田松陰でなければ広瀬淡窓でもなく、緒方洪庵でもない。しかし何となく、明治前の志あふるる私塾の匂いがせぬでもない。
勝手な想像で恐縮だが、無償の心には私塾が似合う。ここから人物が出、何か偉大な事をなし、
「先生、おかげさまにて」
挨拶に来たとする。Aさんはこう返すだろう。
「なすべき事をなし伝えるべきを伝え人は消えゆく! それが定めじゃ! 営みを絶やすな!」
「はっ!」
ここに私がいて良いのだろうか。よく分からぬまま夕餉を頂き、アルコールまで頂いている。
Aさんの塾は塾料も取らねば宿泊費も取らない。「せめて土産だけ」と、ちょっとしたものを持ってきたが、「いらん」と突き返された。「必要ならば何日でも朝昼晩の食事を用意する、ただし学べ」そういうシステムらしい。
夕餉はダゴ汁と川魚、それに炊き込み飯であった。ダゴには蕎麦粉が練りこんであり、自前の蕎麦粉らしい。川魚はAさんがモリで突いたという。
三人で食卓を囲み、雑談を続けていると、
「こういうカタチは初めてだから何を話せばいいのか分からん」
Aさん、そう言われた。私塾に身内以外の子供が来るのも初めてだし、教員以外の他人が来るのも初めてらしい。通常ならグッタリするほど学ばせるらしいが、教員でない私に何を与えれば良いか、Aさんも手探りであった。私もAさんと一対一で語り続けるというのは恐ろしく感じていたのかもしれない。だから娘を連れているし、最初の一時間くらいは娘を介して話をした。
娘にはAさんの事を「先生の先生」「怖い先生」「性根を叩き直してくれる先生」と告げておいた。むろん私のせいで娘は怯え、嫌々ながら付いて来る運びとなった。が、来てしまえば家は広く、走り回っても叱られず、ご馳走も出るからだんだん調子に乗ってきた。調子に乗り、Aさんの事を「ツルツル先生」と呼んだのは焦ったが、教育者はそういうところには寛大で、叱るべきところで叱ってくれる存在らしい。好き嫌いの食べ残しをピシャリと一喝してくれた。そして娘の取り得である返事が良いところは大いに褒めてくれた。
ものの善悪は身内が諭しても角が取れてしまい、どうもハッキリしない。他人が言えばそれがない。ピシャリと線が引かれる。家族の周りに地域という社会があって、その周りに学校という社会があって、その周りにも数えきれぬほどの社会が転がっている。本来の流れであれば家族から得た丸みのある基準を身近な社会で試すべきだろうが、社会がプライベートという言葉で家族を孤立させてしまった。地域のオッサンも学校の先生も子供を本気で叱れなくなった。日頃、両親が言っている事が正しいか正しくないか、子供は小さな社会で確認し、それぞれがそれぞれの基準を確立すべきであるが、それすら難しい世相になってしまった。
長女は腹いっぱいになった後、一人で遊んでいたが、やはり飽きた。飽きて私とAさんの邪魔をしに来るが、こちらは徐々にノッてきた。Aさんは布団を敷き、テレビを点けてくれた。テレビは研修中ご法度のはずだが、子供は特別らしい。長女はアメリカのフルハウスという番組を見、笑い転げていたが、気付くと眠っていた。
Aさんは私たちに布団も敷かせなかった。「ここでは勉強に集中して欲しい」というAさんの思いだろうが、手ぶらで来て、ありとあらゆる雑用までしてもらい、その上ありがたい話が聞けるというのは、脳味噌にとってこの上ないプレッシャーに思える。Aさんの意図かもしれない。
会話の大半はAさんの生い立ちを聞く事に終始した。「無償の心」の源泉を知りたいという私の疑問にAさんが応えてくれたと思われる。
Aさんの生い立ちは、小さな記憶が発生した頃から劇的である。
満州にいたらしい。終戦の引き揚げで混乱する中、家族とはぐれ、Aさんは弟と二人っきりになってしまった。Aさんの記憶は満州を彷徨う五歳の少年から始まっている。
記憶の冒頭に弟の死があるらしい。Aさんの背中で死んだという。Aさんは弟を埋め、広い満州をぼんやり歩いた。どこをどう歩いたのか、どうやって戻ったのか、全くもって分からず、未だ日本に戻れた事が理解不能だという。とにかく長い時間をかけ、小さなAさんは宮崎に戻った。
宮崎には墓が立っていた。Aさんと弟のものであった。
Aさんは写真を見せてくれた。赤子の写真であった。母親が持っていた弟の写真らしく、Aさんは今もその写真に念仏を唱え続けている。記憶の冒頭に現れる小さな弟を、Aさんは背負って生き続けているのかもしれない。
大学卒業後、Aさんは教職の道を選んだ。大学まで酒豪のAで有名だったらしい。が、教職という道を選んだ以上、酒は一滴も飲まないと誓ったそうな。私は誓いの意味が分からず、その意を問うたが聞いても分からなかった。Aさんがなぜゆえ人生の娯楽を捨ててまで教育に人生を捧げたのか、
「分かってたまるか!」
Aさんはそう言うし、分からないのが普通であろう。凡人が分からぬものを貫けるからこそ、無償の心という極めて稀なものがそこに発生する。そして、それを核として我々が憧れるべき美談が成り立つのではないか。
「教職には昼も夜もない、求められたら行かねばならない、それが教職であるというのが私の考えです」
「緊張を強いられますね、それじゃ生きた心地がせんでしょう」
「何かをやるというのは覚悟がいる、これは私の性格です」
人に教えるという作業は自らを徹底的に律するところから始めねばならず、Aさんの日常は私から見て常に厳しい。律する事がAさんの人生ではないはずだが、そうせねばならぬ何かがあるのかもしれない。
Aさんと向かい合ってる間、何度も電話が鳴った。不登校児を持つ親からの電話らしい。Aさんは先生を指導するだけでなく、学ぶ側にもその親にも付き合っている。何という体力であろう。
不登校児の親はAさんに今後どうすれば良いかを問うていた。横にいる私はその電話の応対を聞き、
(息子の選択を人に聞くなよ!)
そう思っているが、結論として、それはAさんも同感らしい。最終的に自らの道を選ぶのは息子自身である。相談している親でもないし、むろんAさんでもない。ただ教育者として求められたら応えねばならない。「こういう道がある」というのを提示してやらねばならない。それをする事も余計かもしれぬが、そうせねば負の連鎖が広がり、この家族にとって厳しい現実が予想される。だから手を差し伸べているという。
教育者とは何と厳しく、何と強さが求められる職業だろうか。
Aさんは「親が真剣にならねば子は付いてこない!」と熱をもって語った。語り終わり電話を切ると、今度は私に向かって話の続きをしてくれた。
私は酒を飲んでいるがAさんは一滴も飲んでいない。背筋をピンと伸ばし、強い口調で自らの生い立ちとこれからの事を語ってくれた。会話というより理路整然とした演説のようであり、無駄が削ぎ落とされた一流の文章を読んでいる感じがした。
凛としたAさんが一度だけ緩んだ瞬間があった。
「教職になって酒を飲んだ事がないと言ったけれど、一度だけ飲んだ事がある」
そう言ってAさんは恥ずかしそうに笑った。
ちょっとした揉め事があり、ヤクザ者と飲み比べをしたらしい。この時だけAさんは封印を解いた。で、互いに飲み、ついにヤクザ者が引っくり返った。Aさんは足元乱さず立ち上がり、
「さよなら」
そう言って場を去ったらしい。憎らしいほどカッコいい。
Aさんは生きる上での強さと潔さを追い求めているのだろう。その二つが少しでも欠ければAさんが定義する教職にはなれず、それそのものがAさんの描く人生像に違いない。
Aさんは遺言書を書き終えている。仏壇の奥にぶ厚いそれが置いてあって、内容は身内の涙を誘うものではない。死後、誰にも迷惑がかからぬよう、事細かな事務処理を書いたという。
Aさんといえども死は怖いであろう。聞いてみた。
「いつ死んでもいい、今ここで死んでもいい、いつ死んでも困らんように生きている」
この人は佐賀鍋島藩の武士であろうか。今を死ぬ事と見付けている。
翌日もAさんの行動は強かった。
私はAさんに日を跨ぐまで教えを請うた。飲んでいた私はそれから風呂に入り、転がるように寝てしまったが、Aさんはそれから夕餉の片付けをし、風呂に入って寝た。午前一時を回っていたと思われる。
翌朝、私は変な音で目覚めた。Aさんの言葉を思い出した。Aさんは何時に寝ようと午前四時には起きるらしい。四時に起き、二つの仏壇に茶を上げ庭を整える。庭は小石になっていて、それに熊手のようなものを当て、川の字の文様を入れるらしい。
Aさんは禅宗の坊さんでもある。寺で修行の経験もあり、その名残だと思われる。
その後も凄い。真剣を持って素振りをする。じっとりと汗が出るまで振り、それから朝餉の支度に入る。
私と長女がAさんの流れに合流したのは朝餉の準備が整った頃であった。この時点で生きる気迫の違いを感じるが、時計の針は六時前である。凡人の中では頑張っている方に違いない。
「お勤めに付き合ってもらおう」
Aさんはそう言うと藍色の服を羽織った。仏壇に経をあげるという。
Aさん宅の仏壇は二つある。一つはA家のものであり、もう一つはこの家(旧村長)のものだという。面白い事にAさん宅の仏壇は禅宗で、この家の仏壇は真宗である。Aさんは、
「ナムシャカムニブツ!」
禅宗の経を読んだ後、
「今度はこっち!」
旧村長の仏壇に移った。私と娘もAさんの声を復唱し、Aさんの後を付いて回った。今度はAさん、
「ナムアミダブツ!」
真宗の経を読んだ。
Aさんは禅宗の坊さんであるが、こだわりがない。
「お経なんて何でもいい、結局は感謝する心です」
まったく同感である。寝起きに日本人の根底を見せられ、実に気持ちが良かった。今を感謝する心さえあれば、禅宗だろうが真宗だろうが新興宗教だろうが、そんな事どうでもよい。喧嘩する理由はない。
朝餉を頂いた。美味かった。Aさんはもっと美味いだろう。運動をし、腹の底から声を出し、色んな事を考え、じゅうぶん腹が減っている。Aさんの律する生活は厳しいように見えて、実は時間を輝かせるための工夫かもしれない。
そうそう、尺八も聞かせてくれた。Aさんの尺八歴は長いらしく、プロ級らしい。尺八といえば虚無僧という印象が強く、虚無僧は禅宗の中の普化宗である。
「その流れですか?」
戯れに問うてみると、どうも当たったらしい。未だ虚無僧がいるというのが驚きであるが、Aさんは虚無僧の格好をし、物乞いしながら行脚した事もあるという。やはり只者ではない。
江戸時代、罪を犯した武士は世を捨て虚無僧になる事で社会から許された。深い編笠をかぶり、刀を差し、小袖に袈裟をかけ、住居を持たない。凛とした世捨て人が虚無僧であると勝手に解釈していたが今もいるとは思わなかった。虚無僧は尺八を披露し、喜捨を得て暮らすのであるが、Aさんの話によると虚無僧同士がすれ違う時に吹く曲があるという。もの凄く難しい曲で、虚無僧の真贋を問う曲だから、吹けねば偽者、たたっ切って良いらしい。それを聴かせてもらった。
曲は出会いの曲から始まる。そして、虚無僧同士がすれ違う時、別れの曲に転じねばならない。私も娘も尺八に関し完全無欠の素人であるが、ブルブル揺れる音は明らかにプロの技であり、尋常ではなかった。聞き惚れた。娘に至っては「ツルツル先生」と呼んでいたが、以後、「笛の先生」と呼び改めた。
Aさんは教育のプロであるが、併せて尺八のプロであり、禅宗の坊さんであり、書に関しても号を持つプロである。
「何でもトコトンやらねば気がすまない、それだけですよ」
Aさんはそう言って笑うが、こういう人は極めて稀であろう。過ぎるほど全てがトコトンで、それらがAさんの死と共に消えてなくなる事を心地良く思っておられる。
目の前のAさんは元気だが、その体には色んな爆弾を抱えているらしい。爆弾はいつ破裂してもおかしくない。破裂すればAさんは消えてなくなる。Aさんは爆弾に語りかけている。
「いつ私を食べてもいい、でもね、食べた瞬間、お前も消えてなくなるよ」
世の中に変わった人は多かれど、こうも変わった人はいない。
強い教育者が宮崎にいる。