コスモスといっても花の事ではない。花の名を冠したドラッグストアの事である。
熊本県内、右も左も緑色のコスモスが建ち、田舎にもある。関東圏では見ないので福岡発のマツモトキヨシかと思っていたが、出は宮崎らしい。
コスモスのホームページを見てみた。ビジネスモデルは「小商圏型メガドラッグストア」と書いてあり、よく分からぬが、とにかく数で勝負らしい。品揃え抜群、値段よし、田舎にもあって至極便利、存在感抜群のドラッグストア、だから人に愛され無限増殖するらしい。
コスモスという花は外来種である。かわいい顔して生命力抜群の花で荒地でも花を咲かせる。人間を文明の養分とすれば、田舎は荒地であり、そこでもやっていけるというのはコスモスの骨頂であり、文明の運び屋として言い得て妙に思える。
私は長陽という小さな村に住んでいる。パン屋とケーキ屋は過ぎるほどあるが、スーパーは1店もなく、三村合併した南阿蘇においても小振りなそれが一つあるに過ぎない。
嫁はその小振りなスーパーを重宝しているが、気合を入れて買う時は南郷谷の端っこ高森町へ足を運ぶ。更に気合を入れた時は山を下り大津町へゆく。前者が車で20分、後者が30分、両方の町にコスモスがある。
コスモスは確かに安い。嫁の買物を眺めていると、スーパーへ行ってもパンや乾きものを買わない。嫁の言葉を借りれば「そういうのはコスモス」らしい。子供たちが「菓子を買って」と暴れても「それはコスモスでしょ!」と一喝している。つまり安いという事で、それだけ主婦のハートを鷲掴みしている。
これから書く事は日常の何気ない一齣である。舞台はドラッグストア・コスモスであり、コスモスとしては実に痛快な話に思える。しかし一消費者として少々不安になってしまった。我身を知る瞬間は、ふとした日常にあるらしい。
パン売り場に老夫婦がいた。おばあさんは腰が曲がっており、おじいさんは泥だらけの作業着を着ていた。おばあさんは79円という6枚切りのパンに度肝を抜いたらしく、おじいさんを熱く手招きした。
「こりゃなんかい! なんでこぎゃん安かっかい!」
おばあさんは白い泡を吹きつつ驚いた。次いで隣に目を移し、更に度肝を抜いた。
「メロンパンが5個で98円! どぎゃんこっかい?」
おじいさんは買い物カゴを二つ持ち、おばあさんは次々と商品を投げ入れた。おばあさん、興奮の極みであった。
老夫婦の話によると二人は高千穂方面よりやって来たらしい。高森という町は宮崎に向かって広大な田舎を有しており、その田舎っぷりは南郷谷の比ではない。そういう場所には小さな商店しかなく、全てが定価販売なのだろう。
「こぎゃん値段があるとたい! うれしかぁ!」
おばあさんは「半値!」「半値!」と言いながら食料品売り場を回り尽くし、続いて日用品売り場へ足を運んだ。ティッシュがあった。5箱167円、特売らしく、つい私は買ってしまったが、おばあさんは買わなかった。
「こりゃなんかい?」
手にとっておじいさんに聞いたが、おじいさんも分からなかった。「ちょびエコ」と題し、最近少しだけ小さくなったティッシュが分からないらしい。おばあさんは老眼鏡を用い説明書きを読んだ。
「チリシのごたるな、こぎゃんたいらん」
私は老夫婦に付き従っていたが、その一言で更に興味が湧いた。ティッシュの要らぬ生活をされているらしい。
その後の反応も実に良かった。日用品をくまなく見て回られたが「いらんっ」「いらんっ」と放り投げ、化粧品売り場に至っては、
「臭か! 眩しか! じいさん帰るばい!」
そっぽを向かれた。
見ていて好奇心が止まらなかった。大量仕入れによる格安販売は文明の得意技で今となっては日常茶飯事だが、それに驚いてる人が目の前にいるのである。半値以下の食料品に老人は度肝を抜いた。そして売り場の半分を占める日用品や化粧品にはその用途すら見出せずそっぽを向いたのである。
さもあろう。一昔前の人間に日用品は無用であった。文明がやたらめったら作り、宣伝・供給したものだから、私たちはそれを使う事が当たり前になってしまった。が、知らぬ者にとって日用品は意味不明な造形物でしかない。都市部における普遍性が見向きもされないという貴重な瞬間であった。
「こぎゃん安かなら毎週来にゃんね」
おばあさんは満面の笑みでおじいさんにそう言った。
レジに並び、バーコードを読み取ってもらい、手際の良い会計処理が行われた。合計金額を聞いたおばあさんは、それからガマグチに手を伸ばし、金を数え始めた。後ろに並んでいる客が少しイライラし始めた。レジはそれを察知し、次の客のバーコードを読み始めた。おばあさんは全く気にしない。ジャリ銭の一つ一つを取り出しながら、レジ台に広げ、
「幾らじゃったかい?」
ニコニコ顔でレジに問うた。隙あらば無駄話の一つでも披露してやろうという落ちついた姿勢であった。レジは手を休めず金額を告げたが、埒が明かないと思ったらしく、ガマグチを預かり必要な金額を取り出してやった。
「ご親切に、ありがとねぇ」
おばあさんはゆっくりと頭を下げたがレジは見向きもせず次の作業に移った。
応援の店員が現れた。老夫婦は袋詰めの場所に案内され、店員の手を借り袋詰めを始めた。次いで軽トラに荷物を運んだ。軽トラは店の真ん前に停めてあった。
「次回からは決められたところに停めて下さい」
若い店員が一生懸命説明した。しかし老夫婦は聞く耳を持たず、その代わり助手席からサツマイモを取り出した。店員はうろたえた。それに構わず老夫婦はサツマイモを握らせた。
「ありがとさん、ありがとさん、また来ったい」
イモを手に唖然とする店員を置き、軽トラは出た。見事な去りっぷりであった。
老夫婦が去った後、私はコスモスの駐車場に立ち尽くしてしまった。私は何という瞬間に立ち会ってしまったのか。それは上代、初めて鉄を見た庶民の心かもしれない。それは江戸期、黒舟に怯えたチョンマゲの心かもしれない。それは明治期、テレグラフにバテレンの魔法を感じた封建社会の終焉かもしれない。とにかく人の価値観を現実が捻じ曲げる貴重な瞬間であった。
ドラッグストア・コスモスは、その経営方針通り田舎の荒地に根を張っている。強い。見事なまでに強い。文明の恩恵を一人、また一人に教えてくれている。老夫婦はコスモスに教えられてしまった。これにて老夫婦は近くの商店からモノを買わなくなるだろう。
小さな商店は狭い道にある名もなき草花に違いない。外来種のコスモスは弱肉強食という世の習いに沿って、野草を駆逐し、その範囲を拡大していく。
「コスモスが好きです」
そう言える私はコスモスを愛用している。だから偶然そこにいて老夫婦の驚きを目の当たりにしてしまった。
目の前に根子岳がある。その見事なギザギザを間近に見ながら私は考えている。魅力的なコスモスが思惑通りに増殖し、日本を覆い尽くす。覆い尽くしてしまったらコスモスはどこへゆくのだろう。
車も家電もコスモスも、自国だけでは飽き足らず世界へ出、それでも足りない場合、世界中の老夫婦を叩き起こすに違いない。ヒマラヤの高地に住む人も、ナイル川沿いに住む人も全て消費者になる可能性がある。
それからどうなるの。膨らむ一方の文明は弾け飛ぶしか道がなく、それが生物の、生物における他愛ない循環だろう。
コスモスで買った59円カレーパン、なかなか美味い。