第62話 雨とモノづくり(2010年6月) 8KB

仕事

昨年はモノづくりが暇であった。暇だから色んな事にチャレンジしたが今年はどうもいけない。モノづくりが忙しい。年明けから工場用設備の依頼が来始め、春先には狭い作業場が組立待ちの部材でいっぱいになった。
そもそもアソカラの作業場は狭い。6坪しかなく、そこに小型のフライスとボール盤、バンドソー、それに作業台を入れているから仕事が二つ三つ入ると足の踏み場もなくなってしまう。
開業時、6坪という作業場は私に広過ぎると思っていた。というのも、開業当初は設計と組立だけやるつもりであり、作業場はあくまで組立スペースのつもりであった。人を雇う予定もなく、設備投資は眼中になく、固定費なきカラクリ屋として自由奔放なモノづくりをやる予定であった。が、予定は未定であり、すぐに乱れた。凡人だから設計ミスはするし、加工屋さんに無理も言えない。作業指示を図面でやるのも面倒だし、購買にかける時間も無駄、一品モノを人に振るというのは色んな面で無駄が多く、悩むところが多かった。それでも客先が求める価格と折り合いがつけば、当初のスタンスを崩す事なく突っ走ったと思われるが、悲しい事に客先が求めるコストダウンは景気の落ち込みに合わせ厳しさを増した。
「ええい! 自分でやろう!」
自然そういう流れになり、色んな設備が増えていった。
この流れはモノづくり屋として極めて自然な流れであるが、ドツボにはまるキッカケでもある。せめて借金による設備投資はしないよう心がけているが、あれを買い、これを買い、色んなものを買い揃えているとアッという間に利益と空きスペースが消えてしまった。
「自分でやる!」というのはモノづくりの基本的衝動であり醍醐味だが、併せて無限の膨張性があり、循環可能な姿勢とは言えないように思える。この衝動は合理性に富んでるようで無駄が多く、できる事なら早い内にストップをかけるべきだが残念な事にやってる本人は楽しい。「自分でやれる範囲が増える」というのは技術屋の基本的幸福であり、もうどうにも止まらない。気付けば少年のように突っ走る自分がいて、財布と現実は蚊帳の外であった。
長雨が続いている。こういう時は煙った山など眺めつつ「道」を考えるのも悪くない。
モノづくりをやる以上、私が歩いた道は自然であり順風に近いと思っている。しかし良い事ばかりではない。なぜなら事例が身近にあり、この先どうなるか明確な予想がつく。その点、嫁子供の将来が少々気の毒であり、
(このままでいいのか?)
その事を考えずにはいられない。
私の家は三代続けてモノづくり屋である。実父は末っ子でプラモ屋になったが、売るプラモ屋というよりラジコンをいじるプラモ屋で、やはりモノづくりで飯を食った。祖父は「鉄工所」を屋号に掲げた。しかし、やってる事は何でも屋の発明家であり、それを継いだ伯父は「電気」を屋号に掲げた。しかし伯父も何でも屋になった。屋号はどうでもいいらしく、それが血の教えらしい。
この二人、私の印象として常に油臭かった。機械油が細胞に染み込んでいて、作業着以外の印象がなく、もちろん髪も薄かった。初めて本田宗一郎の写真を見た時、うちの祖父かと思ったが、昭和の技術者はそういう顔が多いらしく、そういう風に生きた人はそういう顔になるらしい。作業着を着た黒ぶちメガネのつるっぱげが昭和の技術者であり、風体で職業が分かるというのは日本の古い伝統である。
ちなみに伯父の作業場は泣きたくなるほどガラクタの山であった。川沿いの小高い丘の上に作業場(本家)があり、赤錆色のガラクタ山は明らかに農村の風景を乱していた。ガラクタ山を育てる基本的要素は「何でも自分でやる」という技術屋の光であり、それを二代繰り返すと丘を埋め尽くす錆色の山ができるらしい。
伯父と祖父は共に還暦で亡くなった。共に後20年生きていたら本家の土地を飲み込み、公道へはみ出していたと思われるが、次代に続かず見事に清掃された。残った女衆はガラクタの処理に奔走し、今となってはその痕跡を探す事が難しい。作業場が消えた後、土に染み込んだ油の匂いが唯一残った技術屋の主張であったが、それも数年で消えてしまった。モノづくりとはそういうもので循環せねば花火のように散る潔い存在らしい。だからこそ美々しく、少年の目を光らせてやまない。
私の作業場に一つ、また一つモノが増えている。雨は止まない。
(雨風からモノを逃がす場所が欲しい・・・)
私の心はまたモノを欲しがっている。雨と風がある以上、空間の制限を解除するには大きな投資がいる。降り続く雨は良い歯止めであろう。仮に手頃な空間が提供され、仕事も順調であれば私は見事なスピードでガラクタ山を築いてしまうに違いない。その点、伯父も祖父も私の衝動を必死で止めてくれている。私の死後、その処理に奔走する嫁まで描けるというのは間違いなく血の恩恵である。
しかし、そうは言ってもせっかく頂ける仕事をスペースの問題で断るのは浮世を走る者としてナンセンス極まりない。そういうわけで、実父の加勢を受け、作業場の外に小さな加工場をつくり、組立場所を確保した。
おかげ様で加工機の稼働率も徐々に上がってきた。前話で書いたが嫁という新入社員が徐々にモノづくりの魅力に気付き始めたようで毎日数時間ガリガリやってくれている。更に実父がプラモ屋を辞めた。心ある常連さんに店を譲り渡したらしく、
「これからは農業に燃える!」
そう叫んでいたが、やはりそればかりでは飽きるらしい。重要な戦力になってくれそうな気配で、今はミニ旋盤に夢中である。どうやらモノづくりの血がたぎってきたらしい。
阿蘇カラクリ研究所も三年目になる。二年目の歴史的な暇を知り、三年目にこうやって忙しくなると固定費に対し臆病にならざるを得ない。が、少年ゆえ小ぶりな野心はあって、
(なんかすんなら今ばってんねぇ)
そういう思いは常にある。銀行は貸すと言っている。借りて空間を広げ、人を雇って機械の稼働率を上げ、来た仕事を効率的にこなす。一人でやるより遥かに出力が上がり、循環の可能性も見え始める。それこそがカンパニー化の入口であるが、果たして自分の人生に良いのかどうか。
自分大好き阿蘇カラクリ研究所は大好きなモノづくりで悩んでいる。左に本田宗一郎、右に福山一(伯父)、二人の人生は全く違うが、少なくともモノづくりに対する姿勢は似たようなものだったに違いない。
ガラクタを生む作業場が洗練された工場になる時、確かにガラクタ山は消える。しかし、その裏には産業廃棄物が山ほどあって面倒な組織が横たわる。何が良いのか分からぬが、自分本位で考えた時、膨張は肩が凝る。気ままな旅にも出れなくなる。
「こっちゃ来い、お前はこっちが向いとる」
「そぎゃんですかねぇ?」
血の誘惑に勝てぬ私が常にいる。私の人生も小さな膨張を続け、ガラクタ山を築いた時点で終了するだろう。ふと、御歳八十を超えた祖母の顔を思い出した。忌々しげに熱い一言を放った瞬間であった。
「うちの男衆はネジ締めばっか上手で金勘定ばしきらん! つまらんっ!」
経営できぬが家族を食わせ、小さな店を潰さない、それもまた一つの才能に思えるが女には理解不能な生き方かもしれない。
雨が止まない。