「サンタさんて、おらんとばい」
ある日、長女がそう言った。四年生であった。
聞けば同級生から得た情報らしく、その「同級生の言い分」というのが実に面白い。
サンタさんのプレゼントに赤いリボンが使われていたらしい。同級生はそのリボンに見覚えがあった。戸棚へ走った。そのリボンは戸棚の中にあるはず。箱詰めの菓子か何かに巻かれていたはず。果たしてどうか。リボンはなかった。同級生は確信したらしい。
「やっぱりサンタはおらんとばい」
長女は同級生が発する整然とした説明に困惑した。
「いるもん!」
苦し紛れに叫んだが、他の同級生はうなだれた。
「なんでいるって言えると?」
長女の論理は実に曖昧であった。
「信じとるもん」
すがっているのはそれだけで、他に説明の材料を持たなかった。同級生も痛いほどそれが分かった。分かるだけに苦しかった。信じたい。しかし何を持って信じればいいのか。
サンタいない派の論理は鋭い上に数があり、そして明確であった。
「親が認めた」
「うちも」
長女がすがる「モワッとしたもの」は一刀両断に断ち切られた。
昨年末、福山家にサンタは来た。長女にはマンガ、次女と三女にはオモチャが来た。
「サンタさん、ありがとー!」
天に向かって叫ぶ下二人の横で長女は何とも複雑であった。妹同様、天に向かえばいいのか、真っ直ぐ向けばいいのか、色々分からずうろたえた。マンガは嬉しい。嬉しいが、そのマンガを直視できない。長女は自分自身の意外な反応に戸惑わざるを得なかった。
「おっとー、サンタさんってホントにいると?」
父はホントに分からない。「分からん」としか答えようがない。
長女は嫁にも聞いた。嫁も「分からん」の一点張り。それでいい。大人というものは知ってるようで何も知らない。
長女の矛先は次女へ向かった。「サンタはいない」と言い始めた。言うだけでなく同級生が打ち立てた堅牢な説明を我事のように繰り返し始めた。
親は知らない。見ていない。口を出してはいけない。子は子の世界で半ば育つ。経験という手触りがなければ全ての事象が薄っぺらくなる。サンタがいるのかいないのか、それは手触りの中で知ればいい。大人が説明する事ではない。長女は大人を試している。私はガマンした。が、気の短い嫁は挑発に乗った。
「妹にいらん事を言わんでいいっ!」
激昂した。
長女は嫁の激昂で何かを知ったであろう。もしかしたら落胆したかもしれない。が、大人になるというのはそういう事の繰り返しのようにも思える。信じる。知る。信じる。知る。その繰り返し。その繰り返しの中で信じる効能に涙する日もあるだろう。そういうものは親といえども教えられない。しかし口に出せぬが真面目にサンタを信じている大人もいる。
全てのものは正面から見た方がスッと入ってくる。正面から見ないと見えないものも多い。我々は生まれながらに真っ直ぐ見る才能を持っている。が、生きる過程で放り投げ、また取り戻すべく夢中になる。夢中にならざるを得ない。斜めからは幸せが見えない。
我々は情報の濁流に身を浸している。それがいるのかいらんのか何も分からず取り込んで幸せから遠ざかっているようにも思える。
「生きるために情報が必要なんです!」
震災後、ある秀才が強い口調でそう言った。そうかもしれない。が、その血走った秀才より、そこにいるダンゴ虫の方がずっとずっと幸せに見える。なぜだろう。
「サンタはいるよね?」
年明けて、知る信じるの揺り返しが長女を襲ってきた。長女は揺れていた。しかし父も揺れていた。
「分からん、サッパリ分からん」
そう答えつつ「アホじゃなかろか」と自分自身に呆れてしまった。大人を放棄してしまった。
誰もが上る大人の階段。上る長女と下る父、すれ違った瞬間であった。